26、彼の孤独
「……ずるいではないか」
圧し掛かられていた重みが消え、かと思ったら身体を引っ張り上げられた。
熱い温もりが、ヴェロニカの身体を包み込む。夫以外の香り。激しい心臓の鼓動が聞こえてきた。
「普段あんなにも強気なそなたが涙を見せたりなどして……動揺するのは当たり前だ」
言い訳するように、ジュリアンがつぶやく。
「ここぞという時に見せるから、効果があるのよ……」
ざまぁ見ろというように返せば、「違いない」とジュリアンが少し笑うように言った。二人はそのまましばらく互いの体温を感じ取っていた。
ヴェロニカの身体は未だ痺れて動けなかったし、恐怖で震えていたからだ。襲ったのは抱きしめている本人だというのに、今は必死に慰めるようにして抱きしめているのだから、本当におかしな状況だ。
「……すまなかった」
「ゆるさない」
もしジュリアンがあのまま止まってくれなかったら……正気に戻ったヴェロニカは今度こそ命を絶っていた。
「……私はいつもそうだった。カトリーナもサンドラも、他の女たちも、無理に抱いても、彼女たちは何も言わず、黙って私を受け入れた……」
「最低」
吐き捨てるようにヴェロニカは言った。同情の価値など微塵もない。
「彼女たちは受け入れたわけじゃないわ。あなたが力で、権力で、ただ捻じ伏せただけよ」
最低よ、とヴェロニカはもう一度繰り返した。
「そうだな。最低だ。私は胸の内に巣食う恐怖をいつも彼女たちにぶつけていた。受け入れてもらうことで、守ってもらっていた。……そしてそんな自分が嫌でたまらなかった……」
今もまた、ジュリアンはヴェロニカに縋っている。カトリーナの代わりに。
――いや、それももしかしたら違うのかもしれない。
(この人が本当に必要としているのは……)
「女性は子を産むと変わる」
ジュリアンが暗い声で続けた。
「サンドラもカトリーナも、母となってからは私よりも子を守るようになった」
「そんなの当たり前じゃない」
「そうだな……だが私にはそれが耐え難かった。対等だと思っていた関係が、どんどん私だけを置き去りにして、彼女たちは前へと進んでしまう」
それがまた彼を孤独にさせた。カトリーナとすれ違うようになったのは、あの手紙だけが原因ではなかったのだ。
「私が守らなくてはいけないものは星の数ほどあるというのに、私を守ってくれる者は誰一人としていない。理不尽だと思った」
彼が言う「守る」というのは、精神的なものだろうか。
「……カトリーナ様たちを信用できなくて、それで今度はハロルドに縋ったの?」
「そうだ。あいつはただの騎士ではなかった。まるで私の亡くなった父のように、存在しない兄のように、私の孤独を支え続けた……」
だから、とジュリアンの抱きしめている力が強まった。
「カトリーナの手紙を拾った時、その差出人がハロルドだとわかった時、あいつがこれまで私に親切にしてきたのは、決して私のためではなく、すべてカトリーナのためかと思った。カトリーナのことが少しでも知りたくて、それで私に苦しめられているカトリーナを救ってやりたくて、だから私の振る舞いを正そうとしているのではないか……そう思うと、もう何も信じられなくなった……」
ジュリアンの告白は、ヴェロニカの息の根も止めそうになった。
ハロルドは誰に対しても優しい。だからかつて好きだった女性を放っておけないのも、どうにかして助けてやりたいのも、ハロルドらしい行動だ。でも――
(わたしは、なにも知らなかった)
こんな形で知ってしまうとは、思いもしなかった。
なぜそんなにもカトリーナのことを気にかける。
苦しい。酷い。裏切られた。
負の感情がヴェロニカの心に湧き起る。
(それでも彼は……)
「ハロルドは、優しい人よ。決してカトリーナ様だけのために、あなたのそばにいたんじゃないわ……」
ジュリアンにハロルドのことを誤解してほしくなった。彼は――ヴェロニカが愛する人は、優しく、助けを必要としている人を放っておけない人だ。
「そう、だな……私も、それはわかっている。だが……」
許せなかったんだ、とジュリアンはつぶやく。
「……だから復讐しようと思ったの? カトリーナ様と、ハロルドに対して」
「復讐、か。そうだな。きっと心のどこかでそうしたかったんだろうな。カトリーナが私に謝って、縋って、今度こそ私を選んでほしいと思った。その姿をハロルドに見せつけてやりたかった……でも、もう自分がどうしたいのか、わからなくなってきた……」
ジュリアンは身体を震わせてますますヴェロニカをきつく抱きしめた。
「……あなたって、本当にどうしようもない人ね」
鉛のように重い腕を持ち上げて、ジュリアンの身体を引きはがす。肌が触れ合うような距離で互いを見つめ合う。ヴェロニカを見つめる目は不安で揺れている。拒絶されるのを恐れている。
自分のことなど、ちっとも気にしていなかったくせに。許されないことをたくさんしてきたというのに……。
それでもなんだかヴェロニカはそれ以上責める気にはなれなかった。酷い言葉はぶつけても、ジュリアンを追いつめる真似は子どもを甚振るようで躊躇いが生まれる。
そういう所も含めてずるいと思った。
「あなたが抱えている問題は、あなた自身でしか解決できないわ」
「……どういうことだ」
「その苦しみは、他の誰かでは埋められないということ……」
ジュリアン自身が変わらなければならない。
「あなたが必要としているのは、何があっても自分を守ってくれる人間……でも、そんな人いない。みんな自分が大切だもの……。自分の身に何か起こったら、他者を切り捨てても自分を守るに決まっているじゃない……」
いくら優しい性格でも、いつでもジュリアンを優先できるわけではない。
「人は変わるわ……あなたが言ったように、子ができたら女性は変わる。だって守らないと簡単に死んでしまうもの。あなたに構っている暇なんてない。それに……」
「それに?」
「あなたがそんな調子だから、よけいに自分がしっかりしなくちゃと思うのよ」
ただでさえ夫には妻が三人いた。大勢の女性を囲っていた前科もある。父親が頼りないとすれば、自分が強くなるしかない。
「そなたは前もそう言っていたな……」
「そうよ。あなた、本当にどうしようもないくらい無茶苦茶な性格しているんだもの……」
「そうか。……そうだな。私は本当に……」
ジュリアンは呻くようにヴェロニカの肩に顔を埋めた。そういう所が甘えているのだ。
(この人はまだ子どもなんだ……)
娘と息子がいても、心はいまだ親になりきれていない。誰かの助けを必要としている弱い少年のままなのだ。
「ジュリアン。辛くても……あなたは一人で立たなくてはならない。一人でその孤独と向き合っていかないといけないの……支えることはできても、誰もあなたの代わりはできないもの」
「私が、王だからか?」
「そうよ」
強くなりなさい、とヴェロニカは命じた。
「そなたは、厳しい……」
嫌だというようにジュリアンは肩を震わせて泣いた。
それでもヴェロニカは彼を突き放した。他の女たちがしてきたように私がいるから大丈夫だと、抱きしめて慰めることはしなかった。
ただずっとそばで、声を殺して泣く彼を見つめていた。
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