第19話 イーリス
が、
這入っていった店の中を覗くと、普通の商いをしているようで、客の姿も見える。賑わっている。そして特段、なにか騒動が起きている様子でもない。
もしや変事に巻き込まれたのかと案じたのだが、そういうことであれば、所要が長引いているとしか思えない。
そこからさらに十分。
「……ごめんなさい、おまたせ、しました」
ようやくのことに牡丹が戸口から出てきた。
苦しそうに笑みを浮かべている。腹を押さえている。顔も青い。
「どうした。悪いのか」
「えへへ……ちょっと、当たったみたいで」
「そうか。無理はするな。行けそうか」
行けそうか、というのは、目的地、
あらかじめ会場の下見をしたほうが良いというのは牡丹から言い出したことで、遊楽ももっともと頷いて、いまの道行きなのである。
「……ちょっと、駄目、かもしれません」
「そのようだな。少し待て、薬を探してくる」
そう云い、遊楽は俥から身軽に飛んで降りた。が、その背に牡丹は、手を振って声をかける。
「あ、大丈夫です、もう少し休んで、
「……だが」
「先生は、行ってらしてください。おひとりで、申し訳ありません」
「構わんが、戻れるのか」
「はい」
「……分かった。では、俥、そのまま乗ってゆけ。俺は別を拾う」
そう云い、遊楽は
「気をつけて行けよ」
遊楽は手を上げ、通りの向こうにやってきた空の俥を呼び止めた。
牡丹はその背をしばらく見つめて、それから俥に、腹を庇いながら乗り込んだ。
「……大丈夫、ですかい」
車夫が気遣わしげに尋ねると、牡丹は額に滲んだ汗を押さえて、ふふと笑って見せた。
「ごめんなさい、あなたの
「へい」
「途中で、寄って欲しい処が、あるんです……」
「わかりやした。どちらへ」
牡丹は住所を告げると、背を座席にとすんと預け、眼を閉じた。
車夫は、揺らしていいものか迷った様子だったが、牡丹が眼を開かないのでそのまま走り出した。
牡丹は、眠ってしまったらしい。腹を押さえたその右手は徐々に落ち、着物の内側に薄く浮かんだ血が、のどやかな陽光に晒されることとなった。
同じ頃。
薄暗い、室内。
その建物じたいが
壇上の小さな蝋燭が、横に立つ女の顔を薄く照らし出している。
空気の揺れなのか、彼女の思念による作用なのか。炎はときおり小さく揺れ、背後の壁に映される影のかたちを変化させている。
部屋を充しているのは、陰鬱の空気だけではない。
蝋燭の横に、
「……ふ……」
女は、声を漏らした。掲げていた両手が揺らぐ。儀式用の外衣の長い裾から覗く手首は、細く、白い。
手をゆっくりと下げ、よろめくように後ろに足を出し、石壁にどんと背をつけた。ゆるく波を打った長い金髪が揺れる。
そのまま、彼女はずるずると腰を落とし、へたり込んだ。
「……なんて、
呟き、薄い青の瞳を手のひらに向ける。自分の流血が乗った感触があったためだ。が、ない。
いま彼女に実際の傷が生じていないということは、思念の世界での闘争の結果が彼女の勝利に帰結したことの証明でもあった。
相手の腹部を打った爪は、たしかに肉を捉えた感触があったと、彼女は考えている。致命傷にはなるまいが、闘いながら送った言葉の意味は強化されたし、相手はそれを呑んだと、ぼうと思っていた。
おおきく息を吸い込み、吐く。
呪術の負荷と緊張は、彼女の呼気のなかに分散し、狂おしいような部屋の空気と混ざり合った。
と、分厚い木の扉がぎぎと軋み、遠慮がちに開けられた。
「……
「入室を許可する」
女は壁際に
入ってきたのは、細身の
見回し、女の姿を探して、壁際に見つけて走り寄る。
「大丈夫ですか、お怪我は」
「うん、問題ない。ちょっと疲れたよ」
「……相手は、それほどに」
「ああ、勁かった。驚いた。やっぱり伊達じゃないね、
「抵抗したのですか」
「わたしから誘った。ここ数日、ずっと言葉を送ってたしね。そうとう苛ついていたらしい。
彼女の横に膝をついた士官は、呆れたような表情を作り、ふうと息を吐いた。制帽をぎゅっと被り直し、女と同じように胡座をかいた。
「……無茶をなさらないでください。あなたに万一があれば、この計画じたいが壊れてしまいます」
「あはは。すまない。我慢できなかったんだ。せっかくこの国、来たんだから、手合わせしてみたいじゃないか。我が国が憧れ、求めた、あの花神巫と」
「……
「どうせその時はわたしの出る幕、ないだろう。君たち呪術士官が美味しいところはぜんぶ持っていってしまう」
「ご冗談を。自分たちの一個師団も、あなた一人に打ち勝つことはできません。だからこその、
女、イーリスは、片眉をあげて士官の目を見た。瞳の中心が縦に裂けている。士官は、わずかに怯えた表情を浮かべた。
「……失礼しました。迂闊にお名前を」
「敵地だからね。相手の呪術的な罠の種類もわからない。名で縛る、っていうのは、古風の手段だが、有効だ」
「重々、気をつけます……それで、首尾のほどは」
「ああ……それは、達したと評価している」
「では、相手は」
「屈服はしなかった。が、手に取るように
「……なんと……化け物、に」
「その化け物を利用しようっていう計画だからね。都合は良い。理解はしかねるがね」
「……いずれにしても、
「伝えるべきは、伝えた。が、やるだろう……おお、そうだ。これを見てくれ」
イーリスは胡座のまま、膝の間に手のひらをかざした。くるっと廻し、上に向ける。と、小さく光る球が生じた。球は震えながら膨張し、やがて手のひらほどの大きさとなった。
光る、毛玉。そうとしか表現しようのないものに、士官は目を
「これは……なんでしょうか」
「
膝下でふるふると動きはじめた毛玉の背に、イーリスは愛おしそうに手を置き、撫でながら呟いた。
「ゴウテンマル。変わった名だな」
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