第18話 声
「
「どうした」
「あ、う、ごめんなさい。へへ、独り言」
早朝とは云えないが、充分に夜明けの湿度を残した大気のなか、俥は帝都の中心部を目指して南西に走っている。
「厠か」
遊楽がなおも云うので、牡丹はふんと唇を曲げてみせた。
「だいじょぶです、子供じゃないんですから」
「遠慮せずに云え。このあたりならどの飯屋でも借りられる」
「……子供じゃ、ないんですってば」
気遣わしげな遊楽の視線を打ち落とすように、牡丹は右手を振った。
数泊、互いに頬杖で左右を眺めていたが、牡丹がその姿勢のまま、今度は呟きではない声を出した。
「……昨日、瑞香さん。先生のご指示もないのに、
遊楽は、姿勢を変えない。なんの表情も浮かべずに路傍の風景を眺めている。
「そう、だな」
「そういうものなんですか」
「……おやかたさま、
「先生の制止も、聞きませんでしたね。沈丁花のあやかしって、そんなものなんですか」
妙に突きかかるような牡丹の云いぶりに、遊楽は顔を左に振り向けた。
「なにが云いたい」
「……いえ。お気に触ったのならごめんなさい。ただ……」
「なんだ」
「先生。瑞香さん……りるる、さん。大事に、してあげてください」
牡丹の目線は、流れてゆく景色にある。動かない。遊楽の方を、見ようとしない。
遊楽は言葉を返さず、ただしばらく牡丹の横顔をみてから、また路傍に視線を移した。
流れる風景を見ながら、牡丹は、聴いていた。
『……ようやくお返事、いただけましたね』
軋むような、掠れた声。
音は高い。女の声か。
数日前から聞こえてきていたその声は、耳障りの好い音階で、牡丹の鼓膜に言葉を置いてゆく。
『あまりに返答がないので、もしやあなたは
牡丹は、喉の奥で、声とならないような声を出す。今度は遊楽に届かない。
「……どこから見てる。なんのつもり」
『あはは。見てはいますが、あなたの眼を通してです。あなたが見ているものしか見ていません。不都合であれば、眼を閉じていてください』
「出てって。わたしの頭から」
『さて、それはあなたのご返答次第』
「
『いいえ、あなたこそがふたつ、間違えています。ひとつ。わたしは、あやかしではない。ふたつ、あなたは牡丹の花神巫、牡丹さんに間違いない……ああ、ご本名の方がよろしいですか、
だん、と、牡丹が俥の手すりを叩いたから、遊楽は思わず腰を浮かせた。
「なんだ、どうした」
遊楽の顔に牡丹は手をひらひら振り、笑ってみせた。
笑っているあいだにも声が途切れない。
『ああ、
「……怪異の上に、変態。救えないね」
「怪異ではないと申しました……いや、本当はもう、お
「知らない」
『ふふ。ま、好いでしょう。それで、お返事のほどは、
「……」
『黙っていては判りません。嫌なら嫌と。他にも手はありますのでね……ただ、勿体ないと判断しますよ。あなたのためにも』
「……
『両者、相勝ち。最上の戦略です。わたしたちにとっても、あなたにとっても損のないおはなし。乗られぬ理由が判りません』
「……負け犬」
牡丹の喉の言葉に、相手は、しばし沈黙した。
あとの言葉は、ざわりとした棘を帯びている。
『あはは。負け犬。沈丁花から逃げた祖父に伝えておきましょう。が、あいにく。わたし自身は、敗けたことはありません。どのような勝負においてもね。
「……あなたも花神巫なら。正々堂々、姿あらわして
『あいにく牡丹の力には、興味はありません』
「……」
『ふふ、失敬。沈丁花とご自分を、同列に据えていることが可笑しくて』
「……顔を見せなさい」
『お望みなら、すぐにでも。さ、どうしますか。これは、
「……」
しばらく応答しなかった牡丹に、声は、数日前からなんども繰り返した台詞を改めて示してきた。
『あなたは、沈丁花を欲している。沈丁花を、あやかしを、恋うている。その絶対の力を、完全の生命を、己がものにしたいと。夜も、朝も、いまも。沈丁花……りるる、と、云いましたか。惚れ抜いている』
「……違う」
『これはわたしの台詞ではありません。あなたの
牡丹の瞳が薄く、ぼうと光ったことを、どういう方法によるのか、会話の相手は察したようだった。
『おお、怖。ふふ。でも、そう、それで好い。望みなさい。花を。力を』
「……」
『あなたに、差し上げましょう。沈丁花』
「……」
『あなたは、たぶん、勘違いをなさっている。裏切れと云っているのではないのです。むしろ、逆。あなたが、救うのです。二人を。遊楽先生と、りるる……瑞香
「……瑞香さんに手を出したら、許さない」
『出しませんよ。それは、あなたの仕事ですからね』
牡丹は膝掛けを取り上げ、畳んだ。遊楽に振り向く。
「ごめんなさい、やっぱり、停めてください」
「ほら、みろ。我慢するもんじゃない」
「えへへ。ちょっと、待っててくださいね」
遊楽は車夫に声をかけ、俥を道端に寄せさせた。丁度、目の前に大店の日用品店がある。
牡丹は俥を降り、たたっとそちらへ走った。いちど脚を止め、遊楽を振り返る。ん、という表情で見返す遊楽。牡丹はなにも云わない。店の戸口をくぐる。
くぐった店内は、もう、
牡丹は知識と、感覚によりそのことを理解している。
「……時間の流れは」
「外と一緒ですよ。長くかかりそうなら、停めますけれど」
店内は、設えも、棚も商品も、現存している。色も形も備えている。だのに、すべてが霞んでいて、揺らいでいた。陰鬱に沈んでいる。
ざらりとした粒子のような黒い霧が、牡丹を包んでいる。
両手を頭に廻して髪留めを外し、草履をすっと横に寄せながら、牡丹は上目に店の奥を睨んだ。
「一瞬で決める」
「あら、たのしみ。実際に見てみたかったんです、
店の横、一段ふかい闇のなかから、浮いてきた。
浮いてきた影は、金色の髪。金であるのに、昏い。光を持っていない。
伏せていた眼をくっとあげて、金髪の女は、愉快そうな声を出した。
「……こうしてみると、可愛い。あなたのことも、欲しくなった」
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