第17話 本当のわたし


 肘に力が入っていない。酒のためだろう。


 だから、遊楽ゆうらの両腕は、突っ伏したその上半身を支えきることができない。瑞香みづかを潰してしまうことだけは回避したが、いったん静止したのち、とすんと、彼女の細い身体の上に重なってしまう。


 肌があつい、と、瑞香は感じた。それと、無精髭の荒い感触。遊楽の頬が、瑞香のそれに触れている。

 遊楽はしばらく、動かない。眩暈を生じているようだった。頭をちいさく振る。その所作は、彼の唇に、瑞香の耳朶と首筋を軽くなぞらせることになった。


 「……あ」


 瑞香の声は、遊楽を、そして瑞香じしんを驚かせた。


 「……済まん。だらしのない。俺としたことが」


 そう云い、身を起こそうとする。膝を立てるが、その膝は、瑞香の足の間である。顔をあげる。こぶしひとつもない距離に、ふたりの鼻先がある。遊楽の長い前髪が瑞香の顔に触れる。互いに、互いの息を感じた。

 遊楽は、だが、目を強く瞑って、どんと拳骨を畳にあて、ひと息に身体を起こした。


 その袖に、瑞香の手が伸びた。

 つかみ、引き寄せる。

 遊楽はふたたび、まっすぐ自分に向けられた瑞香の大きく黒い瞳を、至近距離で見つめることとなった。


 「……なぜ、わたしを……」

 

 瑞香は発声しながら、その声は自分のものではないと考えた。遊楽を掴んだ右腕は、自分の意思を離れていると理解した。こんなにも心臓が跳ねているのに、少しも遊楽を恐れる気持ちが起こらないのは、屹度きっと、遊楽がなにか悪い術をつかったのだろうと、みずからを欺瞞した。

 自身の行動を、いま、瑞香は驚嘆しながら観察している。


 「なぜ、わたしを、お選びになったのです……」

 「……」

 「この街には、沢山のひとがいます。身体のつよいひとだって、文章も、わたしなんかよりずっと上手なひとが、いくらでも……なぜ、わたしを、選んで……飼われた、のですか」


 遊楽の瞳は、瑞香を捉えたまま、かすかに揺れた。

 

 「……君の作品はなしが気に入ったからだ」

 「嬉しいです。でも、他にもたくさん、立派なご本があります。わたしのものが一等いちばんすぐれているとは、思えません」

 「……」

 「それに、あの日も。なぜ、駆けつけてくださったのです。父から聴きました。ずっと、を張って、監視してくださっていたと。何故なにゆえでしょうか。どうしてわたしに、そこまでのことを」

 「……いではないか。それでたすかったのだ。文句はあるまい」

 

 ふらりと横を向こうとする遊楽の頬に、瑞香は、手を当てた。 

 ぴくりと動くが、抵抗はしない。

 手は首に移動し、後ろにまわり、遊楽の頭を、瑞香のほうへ引き寄せた。


 「……わたしは、先生に、飼われました。もとよりこの生命は、先生のものです。如何様いかようにもお使いください。ですが……」


 言葉を運ぶ吐息は、わずかな香りを帯びている。

 沈丁花の甘くとろりとした芳香。遊楽も、瑞香も、それを纏っている。

 共有する香りが、ふたりの意識をゆっくりと融合とかしつつある。


 「……どうか。わたしにも、あなたを選ばせていただきたいのです。この生命を、ぜんぶ、あなたのために役立つかうために。そのことを、覚悟するために」


 ふたりの頬が、ふたたび重なる。

 相手の背に、瑞香は腕を廻す。

 上半身の重みが瑞香にかかる。

 

 「……そんなことを、云うな」


 耳元で囁く遊楽の声は、微笑と哀しさを含んでいると、瑞香は感じた。


 「俺の為に、使うなど、と……君は」

 「……」

 「君は、もう、自由なのだ……病からも、遠い、呪い、からも……」

 「……え」

 「……だから、君は、きみ、自身の、ため……に」


 言葉の続きを待つ瑞香の髪に、やがて、ふうと寝息が吹き付けられた。

 

 「……先生」


 揺する。が、動かない。意思をもたぬ遊楽の上半身は、揺れるたびに瑞香を圧迫するのみであった。

 しばらく動かずにいるうちに、ふわふわと揺れていた自分の中心が平常ふだんの位置に戻ってきた。すると、強烈な羞恥も帰着する。

 いまさらながらに声を伴わない悲鳴をあげた瑞香は、遊楽と自分の位置関係をそろりそろりと入れ替え、床に横たえさせた。気持ちよさそうにすうすうと寝息を立てる男の腹に、布団を載せてやる。

 しばらくの間、行燈の光に浮かぶ遊楽の寝顔に目を落としながら、彼の言葉を反芻した。


 遠い、呪い。

 またらないことばが増えた。

 この男は、わたしのなにを、識っているんだろう。

 わたしもわからぬ、わたしのことを。


 あやかし。飼われる。

 先刻の自分の、大胆な行動。

 わたしは、自分で思っているような人間なのだろうか。


 酒は飲んでいないのに、遊楽の息に当てられたか、どこかぽうとする心持ちとなり、瞼が下がってきた。

 見回し、遊楽の隣から掛け布団を引っ張って、部屋の隅に移動した。

 膝を抱えて頭から布団を被る。

 布団は、酒と、遊楽の匂いがした。


 微かな光を感じて目を開くと、すでに朝だった。

 遊楽の姿はない。

 ごく細い明かり取りから陽光が差し込んでいる。

 丁度ちょうど、襖の向こうから咳払いが聴こえた。はいと応えると下女が顔をだし、お風呂ができております、と告げた。着いてゆき、浸かる。高窓から空が見える。香が焚きしめられている。気持ちの良い入浴だった。

 部屋に戻ると、膳がひとつだけ置いてある。なにやら寂しい気持ちでもくもくと平らげ、待っていると、柳太郎がやってきた。


 「あ、柳太郎……さん」


 どういうことか、襖を細く開けて顔の半分だけを見せている。

 昨夜の失態、狼藉に腹をたてているのかもしれないと、瑞香は考えた。だから柳太郎のほうに向き直り、ふかぶか頭を下げたのだが、その瞬間に相手が飛び退ったので、首を傾ける羽目となった。


 「……あの。昨日は、ご迷惑をおかけしました」

 「う、いえ……おしょ、くじ……終わった、ですか」

 「あ、はい。いただきました。ごちそうさまでした」

 「……遊楽さんから、言付け、です。今度の、例の会場を牡丹さんと見てくるから、先に戻っていてくれとのことで……くるま、もう、呼んであります」

 「あっ、ごめんなさい。お待たせしちゃったんですね……おやかたさまに、ご挨拶しなきゃ」

 「おやか……祢禰ねねさまは、日中はお目覚めになりません。お代のことなどもありませんから、大丈夫です」


 頷きながらも、遊楽は自分と顔をあわせることを避けたのだろうかと、瑞香は薄く寂しく、考えた。

 立ち上がり、柳太郎と並んで廊下をゆく。そこでも柳太郎はできるだけの距離をとろうとし、いま、戸口の外で俥に乗るにあたっても、向こうに転落するのではないかというくらい、車幅いっぱいに身体を寄せている。


 「……あの……」


 俥が走り出し、しばらくしてから瑞香が声をかけた。

 ぴょんと腰を浮かせ、柳太郎は恐る恐るという体で、振り向いた。


 「は、はい」

 「柳太郎さんも、花神巫はなかんなぎでいらっしゃるのですよね」

 「あ、はい……椿つばき、です」

 「やっぱり、誰かを、その……飼ったり、されるんですか」


 柳太郎はなにか辛い記憶を想起したような表情をしていたが、やがて首を振った。


 「い、いえ……誰かをあやかしとして、か、かか、飼うというのは、沈丁花じんちょうげだけ、です」

 「そうなんですか。じゃあ、わたしみたいな人、他にはおられないんですね……」

 「……沈丁花でも、ひとをあやかしにすることができたひとは、ここ何代かで遊楽さんだけ、だと思います。ものすごい力、必要になるので」

 「遊楽先生、そんなにすごい方、なんですね……」

 「そ、そうですね……あ、あの」

 「はい」

 「……先日は、その、すみませんでした……」

 「ああ」


 瑞香は口に手を当て、ふふと笑った。


 「なにやらわたし、柳太郎さんに悪戯いたずら、仕掛けられたんですよね。ぜんぜん覚えてないんです。気がついたらお部屋に戻ってて。ね、どんな悪戯だったんですか。酒屋の小僧さんだなんて、わたし、すっかり騙されちゃって」

 「あ……いえ……たいした、ことでは」


 柳太郎は脇に流れる汗を気取られぬよう、早い呼吸をさとられぬよう、背筋を伸ばしてみせた。あらぬ方を見て、言葉を重ねる。


 「……瑞香さんは、その……望んで、遊楽さんのあやかしに、なられたんですか」

 「……わたし、そのときには意識がなくて。良くないことに巻き込まれていたのを、先生に救けていただいたんです。ただ、そのとき先生に呼びかけられたのはよく覚えています」

 「よび、かけ……」

 「はい。君の世界を、造れ、君はそこでどんな姿をしている、って。だからわたしは、ずっとずっと思い描いてた、ほんとうのわたしの姿を……」


 そう応えて、瑞香はふと、手元に目を落とした。


 「……ほんとうの、わたし……?」


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