第25話 獣
衝撃波。
直撃を受けていない。
であるのに、つよい圧力が
巨大な岩を硬い土に投げ落としたような、重く鈍い音。
反射的に膝を曲げ、手を上げて頭部を守るような姿勢をとった柳太郎は、圧が去ってから、頭上が暗いことに気がついた。
幹ほどの腕。
それを、
立ち上がり、両手を交差させ、天井ほどもある
黒い髪、細い手足。淡い
瑞香は、瑞香の
ただ、瞳が、
瑞香のいろを残しながら、赫を帯びて輝く瞳は怪異を上目に睨んでいる。その瞳が瞬時、柳太郎に振り向けられた。
瑞香とも、りるるとも異なる瞳に怯えながら、意図を掴んで柳太郎は膝を折った。左の腕を床に突く。脚を限度まで畳み、全力を載せて蹴り出した。その爪先は怪異の腹と思しき部分を精確に捉え、撃ち抜いた。
振り下ろされていた腕が揺らぐ。瑞香はそれを跳ね除け、柳太郎の横に跳び、抱いて、床を蹴った。
逃れた場所に第二撃が振り下ろされる。轟音とともに床材が折損した。
「……瑞香さん」
瑞香は身体四つ分ほど怪異から離れた場所に柳太郎の身体を置き、膝をついて、がはっと息を吐いた。苦しそうに背を上下させ、喉を押さえる。
柳太郎は瑞香の肩に手を置いて、泣き出しそうな声を出した。
「ごめんなさい、やっぱり僕じゃ、
言葉が途中で打ち切られた。
柳太郎の胸、襟元を瑞香は両手で掴み、顔をぐいと引き寄せたからだ。
「……逃げない。早く、わたしを、とき、はなって」
拳ひとつ分ほどの距離で光る赫い瞳が、荒い息のなかで送り出される勁いことばが、果たして本当に瑞香のものであるのかを柳太郎は疑った。
だが、柳太郎の背後から殺到したいくつかの影が思考を中断する。
振り向き、回転を利用して右の甲で手近の怪異の横面を弾き飛ばす。別の手は目前に迫った怪異の喉元に送られた。燐光を帯びた掌底が、それを突く。悲鳴のような音とともに宙に放り飛ばされた影。その落下を待たずに柳太郎は踏み出し、続いて襲う影に膝を送り、撃ち抜いた勢いのまま、別の影の頭部を蹴り抜いた。
が、複数の影が同時に柳太郎の背に跳んだ。張り付き、爪をたて、肩に齧り付く。うめき声をあげ、柳太郎は身を捩った。
割れた窓から複数の影がさらに這入り込む。這いずるように、あるいは跳ね、天井を伝い、転がりながら、ふたりに迫る。
一頭が、柳太郎の喉元に口を開いた。
長い牙。柔らかい柳太郎の喉の皮膚が、裂けた。
と。
絶叫。
柳太郎のものではない。
瑞香は叫び、柳太郎に折り重なるように縋る怪異たちのうえに、跳んだ。腕を叩きつけ、引き剥がし、頭を掴んで放り投げ、爪で、斬る。
爪。瑞香の手に、長い獣のそれが生じている。
瞳とおなじように、あるいはいま、薄く輝き出した髪と同じように、赫色を帯びる。
瑞香は咆哮を上げながら、怪異たちを潰し続けた。が、尽きない。窓から、戸口から、あるいは闇の中から。無数に湧き、襲う。
掘り起こすように柳太郎の身体を持ち上げる。顔が血に
瑞香の表情が、消えた。
怯えも、怒りも、そこにはない。
顔を上げる。
口角が吊り上がっている。
その背に怪異が降ってきた。
瑞香はぶんと、頭を振る。
その口に怪異の首が、垂れている。
柳太郎を抱えながら歩いて、店の隅までゆき、緩慢な動作で下ろして、その横に膝をついた。額の髪を撫でつける。赫く光る
赫の燐光を帯びるまっすぐな黒髪は、ゆらりと揺れて持ち上がり、波を打ちはじめている。
「……待って、て、ね」
掠れた声を出し、立ち上がって、振り向いた。
店の内も外も、色が失われている。光もない。午後であるのに昏かった屋外は、いま、深夜とも異なる濃度の闇に沈んでいる。
怪異の数が多すぎるためとも、怪異を呼んだものが引き起こした現象とも思われた。
が、違う。
色のない世界に這入ったのではない。
瑞香が、自ら以外の色を否定しているのだ。
屋外に目を転じれば、路地も、屋根の上も、あらゆる場所が怪異で埋められている。さまざまな形状の
その視線を受けて、瑞香はふうと息を送った。
刹那。
ざぞぞと、動いた。
すべての怪異が瑞香の喉を目指した。
瑞香は右手を上げ、黒い波として押し寄せる怪異に向けて振り下ろした。その一撃は、数十の怪異を瞬時に消失せしめた。遅れて轟音。大気が裂かれる。調度の一部が軟い粘土のように削られた。
残る怪異は、脚を止めた。
瑞香が、伏せていた目を上げる。
縦に裂け、赫く燃える獣の瞳。
柳太郎の意識はいま、ない。だが、もし瑞香の姿を見たとすれば、首を振っただろう。瑞香ではなく、りるるでもない。
獣。
赫の獣は背を丸め、指を前に突き出し、ぐるる、と、喉を鳴らした。
首筋に獣毛を生じている。尾は、ふたつ。棘を持つそれを、獣は、左右に振ってみせた。
それでも香りは、沈丁花。
凄まじい、と表現すべきほどのつよい芳香。
それが怪異を誘った。
再び殺到する。
獣は、動かない。
背に柳太郎を置いたまま、もはや黒い波といえるほどの数量となった怪異を退け続ける。掴み、引き裂き、喰いちぎり、撃ち断ち、貫く。
怪異は地に落ちると同時に揺らめいて消えてゆく。
獣の所作は、だが、美しかった。舞うようでもあり、あるいは、貪欲に魚の群れを飲み込んでゆく
美しく、残忍に、古代の悪鬼は行為を愉しみ続けた。
やがて、怪異が減じた。
先ほどと類似の大型の怪異が複数、迫る。が、とんと跳んで回転した右足が瞬時にしてその影を四散させると、わずかに残った怪異は、退いた。
静穏が戻る。
小さく肩を上下させ、獣は、立ち尽くしている。
手のひらを見る。左右を見回す。
部屋が明るくなってきた。彼岸との境界を失っていた世界が、戻ってきた。午後の陽光が割れた窓から差し込む。
だが、戻らないものがある。
獣は、苦しげな表情を浮かべた。かららと、鉄を叩くような音を立てる爪を、自らの喉にあてて、掻く。瞳が宙を迷う。赫い炎は、裂けた瞳のうちに燃え続けている。酸素を求めるように上を向き、がはっと息を吐いて、背を曲げる。
欲していた。
獲物が必要だった。
振り返る。
壁際に寝かせられた柳太郎の胸が、かすかに上下している。
見下ろす目は、彼をそこに寝かせた時とは異なる温度を持っている。
口が、薄く開く。牙を濡らしているのは、つよい芳香を放つ唾液。
沈丁花の吐息を吐きながら、にいと、獣は表情を歪めた。
歩み寄って、膝をつく。
首筋を、掴む。引き上げる。力を失ってだらりと垂れた柳太郎の頭。頬に舌を這わせる。舌は、耳元を経由して頸動脈の上に移動した。
ひゅ、と、喉が鳴ったのは、獣の情欲の表象だったのだろう。
室内に差し込むようになった陽光を受けて、牙がちらりと光った。
その光を消したのは、室内に飛び込んできた影。
「瑞香さん!」
獣は即座に反応した。
柳太郎から手を離し、背を丸めて左の床を蹴り、右に反転して逃れた。
「……柳太郎」
血に塗れた少年の顔を見遣って、牡丹はちいさくつぶやいた。
振り返る。脚をひらき、爪先に力を込める。
左の脇を引き、なにかを掴むように指を撓め、右の人差し指を額の前に置く。
「遅くなってごめんなさい……瑞香さん、いま、救けるからね」
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