第3話 選択
投げかけられた言葉が降りてゆかない。
その息が徐々に細くなっていることが利蔵にも感じ取れた。
なかば本能的に部屋の左右に目を走らせる。
と、その心底を見透かしたように遊楽は言葉を続けた。
「逃げても構いませんよ。
口調は変わらず軽妙だったが、告げる内容は酷薄なものだった。
「それともうひとつ。
「……え」
利蔵の目に色が戻る。腰を浮かして振り返り、遊楽を見上げる。
「なぜ……です」
「瑞香さんの魂がもう、あれに紐づけられてるからですよ。まあ、契約とでも云いましょうか。弱いあやかしが魂を喰うにはね、まず相手を騙して自分に喰われることを承諾させないとならない。あなた、あれに、娘を頼むと云いませんでしたか」
「……あ」
「云ったでしょう。親子の縁にあるものがあやかしに頼むと告げれば、もう、いけない。瑞香さんは半分、
利蔵はふたたび瑞香に目を落とし、沈黙した。
「だから、俺にはあれを殺すことができない。あなたたちを連れて逃げることもできない。さっき云った選択肢はね、そのまま真実なんです」
「……」
「ぜんぶ諦めるか、契約を結んだあなた自身があれを屈服させて契約を放棄させるか、あるいは……」
飼われあやかし。
「……だめ、だ」
瑞香を抱く利蔵の腕が、小刻みに震えている。
傾けた首の角度が深くなる。額に血管が浮いてくる。小さく呟いている。
「だめだ……わたしが、間違ってた、ぜんぶ、わたしの
遊楽が何か言葉をかけようとした、その時。
立ち上がる。がふ、という音とともに息を吐く。
瞳が昏い赫に燃えている。両腕を上げる。その先端の爪が変化していた。硬質な、
背を丸める。畳を蹴り、遊楽に向けて突進した。すぐに光の壁に衝突する。が、今度は倒れない。
爪をたて、壁を突き破ろうとしている。圧力は、遊楽を押した。
ち、と舌打ちをして、遊楽は左の腕を懐に入れ、別の紙片を取り出した。口で食い破り、いくつかの破片として、畳の床に撒いた。
破片は畳に接触すると同時に強く発光し、きん、という鋭い衝撃音を生じた。刃のような形状となった光は、破片の数だけ、獣の腹をめがけて飛んだ。
獣はぐうと苦悶の声を漏らし、手を緩めて退がる。
が、次撃は即座に繰り出された。
獣は同じ軌跡で走り、同じように壁に衝突すると見えた。しかし、構えた遊楽の目前で瞬時屈んで横に蹴った。
利蔵と瑞香の背に襲いかかる。
爪が届く瞬間に、遊楽が獣の腕を蹴り上げた。弾かれ、仰け反った獣は、上がった腕をそのまま振り下ろした。遊楽も腕を交差し、防ぐ。が、衝撃を消しきれない。側頭部を打たれ、遊楽は瞬時、意識を遠くした。
その隙に、獣は瑞香を
利蔵が覆い被さったが、その腹に爪を立てて弾き飛ばした。
もがく瑞香の頬を打ち、抱えて獣は天井に跳んだ。さかしまに張り付く。その両腕の間から、瑞香は目を薄く閉じ、だらんと首を垂らしていた。
「……
遊楽は頭部を押さえながら、しかし迅速にいくつかの紙片を取り出し、撒いた。部屋の四隅がびんと震え、光輝を帯びた。
「猶予がない。云え。俺に任せると。娘を、瑞香を、俺に委ねると」
「……だ、めだ」
利蔵の腹から紅黒い血が流れている。手を当て、苦悶に顔を歪めながら、利蔵はわずかに首を振った。
「瑞香、は、もう……わた、さない」
「ならば
「……」
利蔵は何も云わず、横を向いた。
遊楽は大声を上げるべく息を吸ったが、止めた。ふうと吐く。
立ち上がる。
口中で小さく何かを呟く。
すると、光の壁が失せた。部屋全体を満たしていた蒼の燐光もかき消える。
「……お二人の彼岸の旅、善いものとなるよう祈ります。迷うて出てこられぬように」
すいと背を向け、縁側に足をかける。
と。
「……たい……」
小さな声。
天井の、獣の腕の間で、瑞香が声を出していた。
利蔵はふり仰いだ。手を伸ばす。震える指を、娘に向ける。
「あ……」
「……おと……さん……き、たい……いきたい……」
「……」
「しにた、く、ない……」
瑞香に意識があるのかは判断が難しい。
いまは瞼も閉じているからだ。
が、そこから落ちた涙が、瑞香の命運を塗り替えた。
利蔵は、だんと膝を立て、畳に手をついた。
遊楽の背に向けて頭を下げる。
「どうか、願います、娘を、瑞香を、救ってください……」
遊楽は、黙っている。
利蔵は言葉を続けた。
「……委ねます。あなたに、娘を、任せます、だから、だから」
遊楽は、ふうと息を吐き、振り返った。
懐から新たな紙片を取り出す。
右の小指をかざし、その先端の皮膚を噛み切った。
鮮血が手首を伝う。
その血で、紙片に大きく、みづか、と書き付けた。
「これで二重契約となる。あとは、獲り合いです。瑞香さんのね」
と、瑞香のうめき声。
獣が、彼女の肩に牙を立てていた。
「ああ……瑞香」
悲鳴をあげる利蔵の背越しに、遊楽は先ほどの紙片をかざした。薄い蒼に発光する。同時に、瑞香の身体も同じ色の燐光に包まれた。
獣はいちど彼女の肩から口を離した。が、さらに強く齧り付く。
苦悶の声をあげる瑞香に、遊楽は声をかけた。
「瑞香さん……瑞香くん。聞こえているね」
返答はない。が、遊楽は構わず続けた。
「君は物書きだ。作家だ。世界を創ることができる。どんな世界が欲しい。どんな世界で、生きたい。そこで君は、どんな姿をしている」
やはり、返答はない。その間にも獣の牙が刺さった箇所から鮮血が
利蔵は遊楽の顔を見上げ、わなないた。
遊楽の声が、いちだん、強くなる。
「考えろ。想像しろ。君の身体を。
「……た、し」
瑞香が、かすかに声を出した。
「わ……た、し……の、せかい……」
「そうだ。君の世界だ。
「……うつく、し、い」
ぼう、と、瑞香を包む光がわずかに強くなった。
「どんな姿だ。何をしている。云え」
「……おおきなみみ……ひかる、め……ながい、おが、ふわりと、おどって……」
「そうか。ならば、手足も
「……どこにでも、ゆける、つよいあし……つめ、も、きばも、するどく……そのうで、は、どんなてきをも、うちやぶ、って……」
単語ひとつが口から流れるたびに、光輝が増してゆく。
遊楽はその言葉を己の血により流れるように紙片に記した。
文字は、その置かれるそばから、光となった。
「続けろ」
「……まえに、すすむ……じゆうに、ほんぽうに、かのじょの、みちは、かのじょの、いのちは、ずっとずっと、みらいに、ながいじかんに、つながっ……て……」
が、そこで瑞香の言葉が止まった。
光は収束する。薄れ、静寂に戻ってゆく。
遊楽は、叫んだ。
「問おう。名は」
瑞香の表情は、動かない。
生命の火が残っているかは、読み取れない。
「美しい君を、勁い君を、俺は、なんと呼べば
反応がない。
遊楽は、だが、信じて待った。
報われたのは、十を数えた頃だった。
瑞香の唇が小さく動いた。
「……り、る、る……」
刹那。
部屋のすべてが、直視することの
同時に、匂い。
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