第2話 飼われあやかし
胸を抱き、男に背を向けている。
与えられた着物の生地が薄い。
細く骨ばった身体の線が
「ふん。ま、なんとかなろうかの」
男は瑞香の背に侮蔑のような息を投げ、脂ぎった顎をずるりと撫でた。
それでも口を引き結び、頭を下げてみせた。
「恐れ入ります。では、先生……」
「うむ」
男は膝に手をついて立ち上がった。瑞香の方へ踏み出す。彼女より頭ふたつも背が高い。近寄ると、雨に濡れた獣のような匂いがした。
瑞香は、身を引いた。
男は薄笑いを浮かべた。
「逃げるでない。いまから
瑞香は助けを求めるように父親を見た。
利蔵は、膝をついている。その膝に拳を当てている。拳は、血が滲みそうなほどに握りしめられていた。
瑞香を、見ない。顔を横に逸らして目をぎゅっと
「さあ」
男の左腕が瑞香の後頭部を抑えた。ぐいと引き寄せる。瑞香はよろめいた。その身体を、男の右腕が支えた。
「おっとと……しかしなんとも、貧相な。だがまあ、堪忍しよう」
そういい、瑞香の頬のあたりに口を近づける。強い口臭に瑞香は咽せた。男は愉しげに瑞香の背を大きく撫でた。手は、やがて瑞香の腰まで落ちた。身を捩って逃れようとする。が、男は腕に力を入れた。なお強く、瑞香は抱えられることになった。
耳元で男は小さく告げた。
「そなたはのう、ひとを辞めるのだ」
「……え……」
「辞めて、
「……い、や……」
男の胸に手をあて、引き剥がそうとする。その腕を掴み、男は瑞香の指を咥えた。こり、という感触に、瑞香は小さく悲鳴をあげた。
男はかまわず、今度は瑞香の頸に手をかける。力を込める。
動脈を圧迫された瑞香は、すぐに意識を失った。
その頸に、男は顔を近づけた。口を開く。
牙が、
と、そのとき。
「……先生。瑞香は、瑞香はいかがなりましょう」
背から利蔵が声をかけた。畳についた手が大きく震えている。
男はわずかに振り返って舌打ちをした。
「邪魔立てするでない。いまから術をするのだ。黙って見ておれ」
「瑞香を、
男は応えず、利蔵に再び背を向ける。瑞香の前髪を弄ぶ。そのまま声を出した。
「案ずるな」
「代償は、わたくしの生命と、伺っております。わたくしは構いませぬ。ですが、瑞香を、傷つけなさるようなことは……」
「くどい。そも、そなたはもうこの娘を儂に売ったのだ。契約は覆せぬ。支払いはそなたの生命で。戻すのは、娘の生命。だが……」
男は目を見開いた。
赫く光を宿した瞳が、縦に割れている。
「身体を無事で戻すとの約束は、しておらぬなあ」
「……なんと」
利蔵は膝を浮かせた。
男は構わず、瑞香の首筋に鼻を押し当てた。匂いを嗅いでいる。ふう、ふうという呼吸のたびに、男の姿が変容してゆく。
髪が伸びる。耳元から肩にかけて黒く硬い獣毛が浮き出す。爪が鋭く尖る。
膨張した筋肉を包みきれずに、神職の白い装束が破れて落ちる。
熊に類した獣が、瑞香を抱いている。
「案ずるなと申した。わが生命は千年も続こう。その間、この娘の魂は儂の身体のなかで生き続けるのだ。儂の一部としての」
くぐもった声で愉快そうに
「さて、どこから喰らうてやろうかの」
「お、お待ちくだ……娘を、瑞香をかえ」
縋ろうとする利蔵は、だが、獣の掌底により頬を打たれた。
吹き飛び、襖を倒して、転がる。
口の端から血を流しながら、それでも利蔵は、獣に向かった。背に取り付き、首に肘を回して締めようとする。
獣の腕から瑞香の身体が落ちた。が、それは利蔵の反撃による効果ではない。
「まこと
獣が身をひねると利蔵は背から剥がれ落ち、ふたたび転がった。
その身体を跨ぐように獣は立ち、襟首を掴む。
持ち上げ、利蔵の頭と同じ大きさの口を開ける。
が、咀嚼には至らなかった。
獣が、吹き飛んだ。
巨大な槌で下から叩き上げられるように天井に打ち付けられ、どんと落ちた。
ごぶり、と血を吐く。
「
庭に面した障子が開いていた。
開いた者は、残照の鈍い紅色を背に受けている。
が、その輪郭がわずかに蒼く輝いているのは、おそらく天然の現象では説明がつかない。
「店の戸を叩いたのだが、返答がなかったのでね。勝手に裏にまわらせていただいた……おお、土足であった。失敬失敬」
男はしごくのんびりと云いながら、緩慢な動作で縁に腰掛け、黒い皮の
背が高い。先ほどの男、すなわち獣に引けをとらない。
黒の
ざらざらと流した細い前髪の奥から、かすかに光を宿しているようにも見える瞳を部屋の奥に向けている。
と、端正なその白い面を歪めてみせた。
「……臭い」
視線の先にあるのは、隅で倒れている獣。
が、すぐに目を背けて見せた。
懐から純白の
「堪らん。なぜこんな下劣を呼び込んだのです」
言葉は、尻餅をついて震えている利蔵に向けられていた。
が、利蔵は口をぱくぱくさせ、なんら応えられずにいる。それをしばらく眺めたのち、男は何か思い当たったように手を打ち鳴らした。
「ああ、重ねて失敬。名乗りもせずに」
云って、青味を帯びた髪をはらりと揺らして頭を下げた。
「
「……ゆうら、せんせい……」
利蔵の耳には、娘がなんどもなんども繰り返し口にした憧れの文士の名が強く残っていた。
先生、というのを聴いて、男、遊楽は楽しげな表情を浮かべた。
「ご存知か。光栄です。瑞香さんから訊かれたのでしょう。拙作をよく愛してくださったようだ。あなたはお父上ですね」
「……は、はい……」
「送ってくださった原稿は俺が一等先に読みました。
そこで、倒れている瑞香を見下ろし、言葉を止めた。
「……こちらが、瑞香さん」
「……は、はい……」
利蔵が応えると、そばに膝をついた。顔を、彼女のそれに寄せる。
「……ふむ。佳い匂いだ。が、まもなく尽きる」
そう云い、利蔵の方を見た。
「改めて問う。なぜ、そんなものを呼び入れました。瑞香さんの病を治させようと考えましたか」
「……や、その……瑞香を……あやかし、に……」
「あやかしに、しようとしたのですか。なぜ」
「……う、噂で、あの先生は、病の者にあやかしの身体を与えてくださると……そうすれば生命を永らえられると……どんな病人でも、健やかな身体を得られると」
「ふ」
男、遊楽はわずかに笑い、懐から手帳を取り出した。何かを書きつけている。閉じて、ペンの背で耳元を掻きながら嘆息した。
「これで今月、三件目だ。どうなっているのやら」
「……あな、たは……」
利蔵の問いには応えず、遊楽は立ち上がった。
獣のほうを再びちらと見遣って、短く告げた。
「置いておけば、あと半時間で尽きます。瑞香さんの生命」
「……え……」
「あの
「あ、あ……」
「それからね、生者をあやかしに変じることができる者など、この世に数人もいない。そこの下等な
と、獣が動いた。
わずかに身を起こしたと思うと、次の瞬間には跳んでいた。まっすぐ遊楽に向かう。振り上げた手には長い爪。
遊楽は懐に手を差し入れ、引き抜いた。指先にはなんらかの紙片。文字のように見えるものが書き付けてある。
その紙片が、発光した。
蒼に眩く輝く。輝きは薄い膜のようなものとなり、男の前に障壁を形成した。
獣はその壁に打ち当たり、弾き飛ばされた。再び転がる。
床が揺れた衝撃によるものか、そのとき、瑞香が声を漏らした。
利蔵がわたわたと這い寄る。
「瑞香……瑞香」
「……ん……おと、さ……」
抱き抱える父親に、瑞香は手を伸ばした。
その白い肌はさらに白く、精気はない。指摘されるまでもなく、誰の目にも、瑞香の生命は遠からず去ると思われた。
遊楽は紙片をかざしたまま、場に不釣り合いな、浮き立つような声を出した。
「どうします。選択肢は三つ。ひとつ、このまま奴に魂を喰われて終わる。ふたつ、あなたが闘って娘御の生命を取り戻す。みっつ……」
ちらと二人を見下ろし、切長の目を細めて見せた。
「瑞香さんを俺に売る。飼われあやかしとして、ね」
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