第1話 生きたい


 二月、衣更着月きさらぎ

 帝都東京にも遅い雪がうっすらと積もったという。それより北に位置するこの町は、尚のこと冷えた。


 瑞香みづかは布団からもぞもぞと手を出し、枕元の冊子を取り上げた。

 鬼灯ほおずき、と表紙に書いてある。

 それを顔の前にかざして、っと眺めている。


 貸本屋、琴丹ことに書房の店主、瑞香の父である利蔵りぞうは朝からでかけてしまった。夕方までには戻ると言い置いていったが、午後四時となる現在もまだ、戻らない。

 店は休業の札を出している。瑞香は店番をすると云ったのだが、こんな寒い日に店先に座っているのは身体に障ると、利蔵は手を振ったのだ。


 火鉢にかけた鉄瓶がかすかに音を立てるほかは、家の中はしんとしている。

 瑞香は冊子の下端を胸に乗せ、ゆっくりと頁を繰った。

 もう、指の感触で覚えている。

 目指す頁はすぐに見つかる。

 そこに、彼女の名が書いてある。


 瑞香は、店番が好きだった。

 貸本が積まれた店の奥に座って、接客をし、帳面をつけ、本を整え、埃を払い、そうして、空いた時間には好きな本を手に取るのである。

 ふるい時代の怪奇幻想譚、美しいあやかしが登場し、あるいは異能の陰陽師が活躍する、そんな小説がとくに好みだった。

 そうした本が入荷すると、進んで店番を引き受けたものだった。朝から夕まで没頭して、客が声をかけても耳に届かず、つつかれて慌てて顔をあげるということもしばしばあった。


 好きなことは、もうひとつあった。

 読んでいるうちに、自分ならこうするのに、あんな人物を登場させるのにと、考えを巡らせるようになったのである。

 はじめは頭の中だけであった。が、やがて不要の書付の裏に、言葉を綴りはじめた。人名を並べ、台詞を書き、情景を描写して、やがてひとまとまりの文章となっていった。

 読み書きは、彼女が十歳のときに世を去った母が教えた。教え方が良かったのもある。が、彼女が言葉をあやつる力は、天賦と思われた。


 利蔵は、彼女がそうすることを喜んだ。

 その母と似た体質で生まれた瑞香は、幼い頃から身体が弱く、外で遊ぶことも、友だちと出かけることもままならなかったのである。ずっと室内で、本を読むか、絵を描くか。瑞香の世界は、紙の上に存在していた。

 だから、自らで物語を綴り始めたことを心から喜び、奨励し、応援した。

 商用で日本橋などにでかけると、原稿用紙を土産にした。商売が上手ではないから、家は貧しい。であるのに、自分の食事を削ってでも、舶来の上等なペンをってきた。


 小説、というようなものがいくつか出来上がった。

 利蔵と二人、夕食のあとに、卓で感想と意見を披露し合った。

 それは二人にとって、無上の楽しい時間となった。


 そうしてある日、利蔵が勧めたのだ。

 文芸誌に原稿を送ってみたらどうだろう。

 瑞香はその提案に驚愕し、動揺し、首を振った。

 そんな、わたしなんかが、だめ、ご迷惑になる……。


 それでも、一週間後、彼女は、父親に油紙をねだった。原稿を包んで発送するために必要だったのである。

 利蔵は喜び、その日のうちに原稿は逓信所へと持ち込まれた。

 宛先は、彼女がもっとも好きな雑誌、鬼灯。

 そうして、憧れの作家の名も併記した。


 綺燐堂きりんどう 遊楽ゆうら


 色恋を絡めた耽美の妖異譚を得意とする若手の文士である。

 癖のある、だが、一読すれば離れられないと評される文章を綴ることで知られていた。著名とは言えないが、瑞香は遊楽の作品はすべて、そらんじることができるほどに読み込んでいた。


 遊楽の手に自分の原稿が触れる。

 その想像は瑞香の体温を数ヶ月間、上げ続けた。


 上がった体温が、報われた。

 利蔵は、体調がすぐれずに伏せていた瑞香の枕元に走った。玄関で受け取り、差出人の名前を確認し、予感したのである。不思議そうな顔をする瑞香に冊子を手渡す。

 おもてには、鬼灯、と記されている。

 なかほどに瑞香の名があった。

 次の冬、新人紹介の特集を組む。

 そうした言葉とともに、瑞香が送った原稿の一節が示されていた。

 推薦人は、綺燐堂 遊楽、とあった。


 瑞香の背骨は、利蔵の強い抱擁に悲鳴をあげた。

 彼女も同じように返したが、力が足りない。

 代わりに、大きく笑って見せた。

 笑ったつもりなのだが、溢れる涙とひしゃげた口が邪魔をした。


 それが、先月のことである。

 先月には、もうひとつの出来事があった。


 瑞香の生命は次の冬は迎えられない。

 往診した医者は簡潔にそのことを説明した。


 利蔵は、医者が立ち去ったあとも半時間ほどその場に立ち続けた。やがて気づいて、誰もいない戸口に頭を下げた。

 部屋に戻ると、瑞香は、微笑んだ。

 お父さん。

 そう云い、手を伸ばした。玄関での会話は聴こえていたのである。

 堪えていたのだろうが、やっと十八を迎えたばかりの、恋も知らぬ乙女に受け入れられる事実ではない。

 肉の落ちた顔を歪めて、唇を噛んで、瑞香は、それでも、声は出さずに泣いた。利蔵もそれは、同様だった。


 瑞香はいま、文芸誌、鬼灯をいくどもいくども、繰っている。

 大事に読んでいる。が、すでに平綴じの背も擦り切れはじめているのである。

 自らの名前が記された頁を開き、閉じ、開いて、指先でなぞる。

 しぜんと、涙がこぼれる。 


 生きたい。


 生きて、冬を迎えたい。

 越えなくてもいい。ただ、ただ。

 琴丹ことに 瑞香の物語が歩き出すときを。

 情景が、登場人物たちが、色が、匂いが、空気が、手触りが、のぼる太陽と沈む紅が、口煩うるさくさえずる星々が、瑞香が見届けることができないであろう、とおいとおい時間の象徴が。

 歩き出すことを、確かめたかった。


 目を拭うと、咽せた。こん、こんと咳をつける。

 薬をとろうと身を起こした、その時。


 「帰った」


 板戸の引かれる音とともに、利蔵の声が聞こえた。

 瑞香は胸元を引き合わせ、布団をはぐった。

 廊下を歩いてくる足音。

 が、それは一人のものではなかった。


 「瑞香。開けるよ」


 襖の向こうから声をかけられ、はい、と答える。

 するりと開けられた襖の向こうには、利蔵のほかにもうひとりの影。

 客だろうか。布団の上に瑞香はなおり、手をついた。

 神職が身につける狩衣のような白い装束。ざんばらの髪。腹が出ている。

 贅肉の多い首に不釣り合いのちいさな目を歪ませ、男は、野鄙やひの声を出した。


 「これは、別嬪べっぴん。なお肉があればよかろうもの」


 瑞香はどう返答してよいか分からず、ふたたびこうべを垂れた。

 利蔵は、わずかに眉を動かし、それでも愛想笑いをつくった。


 「娘です。瑞香。十八となりました」

 「十八か。もう少し早う、呼んで欲しかったの」


 男は笑った。その息は部屋の空気を濁したと、瑞香は感じた。


 「支度を」

 「はい」


 男は利蔵に命じ、部屋にはいってどかりと胡座を組んだ。

 利蔵は瑞香のそばに寄り、膝をついて、肩に手を置いた。


 「瑞香。着替えられるか」

 「……お父さん、こちらは……」

 「ああ、案ずるな。たいへん有名な先生だ」

 「せん、せい……」

 

 利蔵は、ちらと男のほうを見遣って、頷いてみせた。


 「瑞香のために、来てくださったのだ」

 「お医者さま……?」

 「ああ。そうしたようなものだ。さあ、着替えて」


 肩を支えて瑞香を立ち上がらせる。帯に手をかける。

 男は、その様子を眺めている。遠慮する様子もない。

 利蔵は薄い一枚着を手に持っていた。瑞香が見知らぬものだ。肩を出した瑞香にそれを掛けてやりながら、利蔵は、小さくつぶやいた。


 「……瑞香。おまえは、お父さんの大事な娘だ。どんな姿になろうとも」


 その言葉を咀嚼できず、瑞香はただあいまいに、頷いた。


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