第8話 牡丹の正体


 遊楽ゆうらの言葉に、牡丹ぼたんは、ま、というかたちで指先を口に当てた。目を丸くしたまま、瑞香みづかの顔をそっと見る。


 が、瑞香は、ぼうとしていた。

 彼女には変化へんげの記憶がない。だから、あの時、というのが何を指すのか腑に落ちていない。とこに伏せていたところを見られたのだろうか、あるいは騒動で着乱れた姿を、云われたのだろうか。

 いずれにしても恥ずべき、浅ましいことだと、瑞香は哀しい気持ちになったのである。遊楽の言葉は大人の気遣いだと、受け取った。

 だから、謝ることにした。


 「……その節は、たいへん失礼、いたしました」


 頭を下げた瑞香に、遊楽は狐に摘まれたような表情を向けた。どう返したものか判断のつかない様子で、んん、と、喉から音を出す。顔を本に戻し、そのまま片付けを続ける。

 と、瑞香は歩み寄り、遊楽の横で膝を曲げた。本を積み、持ち上げる。自分で驚くほどの冊数を抱えることができた。


 「大きな分類ごとに仕分ければ宜しいですか」


 立ち上がり、遊楽に訊ねる。遊楽は振り返らず、再び、ん、と応えた。瑞香は、はい、と小さな笑顔をつくって、作業を開始した。

 牡丹はその様子を腰に手をあてて眺めていたが、やがて、大きなため息をひとついた。前掛けを外して畳み、袖をたくし上げる。


 「ああもう、仕様がない。皆でやっつけて仕舞しまいましょうか」

 「……今日は、階下みせ、構わないのか」

 「最近、夕方は暇ですから。夜になったら店主マスター来るから、そのときまでですよ」

 「恩に着る」

 「ほんと。しっかり、着てくださいね」


 あとはみな、必要なことしか云わずに黙々と手を動かした。 

 窓の近くの書籍が下されて、沈みかけた西日がやっと入るようになった。

 穏やかな光が部屋をみたす。古びた本の表紙がしずかな柿色に染められ、瑞香の顔に照り返す。

 緩慢に動く遊楽と、その尻を叩くようにてきぱきと立ち働く牡丹。ふたりの姿も瑞香と同じ、懐かしいような色を纏っている。

 それを見ている瑞香は、どうしたことかまた涙が浮かぶのを覚えたが、抑えた。


 その陽も落ちて、まだしばらく経った頃。

 

 「……あああ。終わったああ」

 

 その声と同時に、丁度、ぼおん、と時計が鳴った。叫びながら伸びをした牡丹は、盤面を見上げて、う、という声を漏らした。


 「もう七時。どうりでお腹、減ったあ」


 ぺたんと足先を左右に広げて座り込む牡丹に、瑞香はふふと笑顔を向けた。


 「牡丹さん、真っ白」

 「へ」


 牡丹は頭に手をやり、再びうめいた。棚やら本から落ちた埃。御納戸おなんど色の着物の肩にも頭にも、うっすら白いものが降りている。牡丹はばたばたと身体中をはたいて、瑞香に口を曲げて見せた。


 「瑞香さんも少し被ってますよお。も、どうすんですこれ、先生」

 「……すまん」


 と、その時。からん、という扉鈴ドアベルの音が響いた。階下の店からのようだった。ぼたんさん、いるかね、と、牡丹を呼ぶ声。

 彼女は、はあいと返事をして、眉を寄せた。


 「しまった。マスター、来ちゃった。どうしよう。これじゃ出られない」

 「まだ背中も真っ白だぞ」

 「誰の責任せいですか」


 遊楽を睨む牡丹の背に、瑞香が走り寄ってはたこうとする。が、牡丹は手を振った。


 「だめだめ、瑞香さんも被っちゃいます。脱いでばさばさやったほうが早いし」


 そういい、帯に手をかけた。

 え、と、瑞香が目を丸くする。


 「おい。こんなところで脱ぐんじゃない」


 遊楽が眉を顰める。牡丹は、べ、と舌を出して見せた。


 「見ないでくださいよお。えっち」

 「……えっち、というのは何だ」

 「あ、らないんですか。いま女学生の間で流行ってるんですよ。変態、を、英吉利イギリスの言葉で書くと、頭がえっちと云う文字になるそうです」

 「……下らん」


 遊楽がぷいと横を向いたので、牡丹は笑いながらくるくると脱ぎ出した。着物が落ちる。薄い桃地に白く牡丹の花を染め抜いた柄襦袢がらじゅばん

 なんて綺麗な、と感嘆しつつも、瑞香ははげしく動揺した。


 「ちょ、ちょっと、牡丹さん……」


 手をわたわたと上げて遊楽と牡丹の間に立とうとする。が、牡丹はむしろ、冗談めかしてくるりと背を向け、胸のあたりを抑えて見せた。悪戯を見つかった子供のような表情。


 「えへへ。お行儀悪くてごめんなさい。瑞香さんはちょっと、あちらを向いててくださいね」

 「……いえ、でも、先生に見えちゃいますから……」

 「あ、それは大丈夫です」


 牡丹が云うと、遊楽は腕組みをしながら、うんざりしたような声を出した。


 「そいつは、男だ」


 瑞香の時間は、暫時、停止した。

 巨大なつち打擲ちょうちゃくされたような表情を浮かべたまま、たっぷり百を数えるほどのあいだ、微動だにせずその場に立ち尽くしていた。


 牡丹はその間に着物を手に掴み、開閉が可能となった窓を開け放って外にぶら下げ、ぽんぽんと叩き、裏表を確認して再びくるりと纏っていた。前掛けを付け直して、じゃ、あとで、と二人に陽気な声をかけて階下へ走ってゆく。


 「……気にするな。みな、間違う」

  

 遊楽は気の毒そうな声を出した。瑞香は牡丹が出ていった扉のほうを指差し、口をぱくぱくさせてみせた。瞬きをすることを失念しているような彼女の表情に、遊楽は眉を渋くして頷いた。


 「弟子なんだ。去年から居着いてしまった。あれでも物書きだ」

 「……」

 「初めてここに押しかけて来た時は普通の格好なりだったんだがな。帰る家がないと云うから仕方なく置いたら、いつの間にか階下のカフェで働くようになって、いつの間にか、ああった」

 「……」

 「まあ、他にもいろいろと、彼奴あれには事情がある。が、おいおい説明しよう……君も疲れたろう。いま、座るものを持ってくる。布団もいるな。探してこよう」


 遊楽は言い残し、出ていった。

 瑞香はふわふわと窓のそばに流れてゆき、その桟にもたれ掛かった。

 街の灯が点々と浮いている。宵となっても、通りをゆく人々の流れは途絶えず、みな笑っていた。許容量を超えつつあった瑞香の脳の内容も、その光景にゆっくり冷却されていった。


 遊楽が戻るより先に、牡丹が戻った。

 階段をととと、と上がる音が止むと、扉がぱんと開かれ、牡丹が顔を出した。

 

 「今日はもう店閉めて、瑞香さんの歓迎会にしようって、マスターが……あれ、先生は?」


 牡丹は左右を見回し、窓際で怖気をたてるように身を引いている瑞香を発見した。


 「え、瑞香さん、どうしたの」

 「……い、え……」

 「……もしかして、先生に、えっちなことを……」


 と、後ろから頭をはたかれた。室内に響き渡る佳い音だった。牡丹は後頭部を抑え、口を尖らせる。


 「いったあい」

 「下らぬことを云うな」


 遊楽は肩の上に座布団と毛布の束を抱え、器用に右手を振るったようだった。部屋の入り口にそれを置き、また戻っていった。


 「先生。歓迎会」

 「聴こえた。いまゆくから、降りていろ」

 「はあい……瑞香さん、大丈夫? ごはん、食べられる?」


 瑞香が慣れぬ労働に疲れ切っているものと、牡丹は考えたようだった。整えられた眉根を寄せて、気遣わしげな声を出す。

 瑞香は、笑顔を返した。

 多少は引き攣っていたが、上出来といえた。



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