第9話 花神巫
「……らからね、云ったの。
「え、ううんと、なんだ、ろう……」
遊楽は小さく首を振る。
店内の照明は落とされている。
入り口には閉店の札が出されているらしい。
店内の中央あたりの、他より若干おおきな卓に、いま、遊楽と牡丹、そして瑞香がついている。そこだけが、卓上の小さな
遊楽の前には中徳利。瑞香は、葡萄の果汁の入ったグラスを持っている。
卓にはいくつかの惣菜が並んでいる。芋と菜を煮たものなど、瑞香に馴染みのあるものもあるが、見たことのないような鮮やかな色の西洋料理も置いてある。
牡丹はそれらの料理を厨房から運ぶと、自らもいそいそと席についたのだ。その左の脇には強い酒の大瓶が抱えられていた。
何度目かの乾杯をひとりで終えて、いま、牡丹はひどく破損している。
「せんせいね、君に小説なんぞまだ早いって、わたしが
「おい、軽々に」
花神巫、という言葉を牡丹が口に出すと、遊楽は盃をとんと置いて睨んでみせた。牡丹は頬を上気させ、桃色の小ぶりな唇をぺろりと舐めながら、上目遣いで遊楽を指差した。
愛嬌のある大きな目が、据わっている。
「いいじゃないれすかあ。どうせここには身内しかいないんれすから」
「瑞香くんがいるだろう」
「……瑞香さん……かあ……」
卓に肘を置いて、器をぷらぷらと揺らしながら、牡丹は瑞香をぎろと睨んだ。瑞香は電流に撃たれたように背を伸ばし、ごくりと喉を鳴らした。
「いいれすねえ……瑞香さんは……
「え」
「おい」
声を出すのは、瑞香と遊楽と、同時だった。
遊楽は腰を浮かしたが、牡丹は気にする様子もなく言葉を続けた。
「せんせ、ちゃんと、説明したほうがいいですよお。まだ何も云ってないんですよね、きっと。瑞香さんの
「……」
「ほうら、やっぱり……ね、瑞香さん」
言いながら、ふらりと身を起こし、それでも胸を張って座り直した。不思議に威厳のようなものを感じた瑞香も、改まる。
「わたし、牡丹です」
「あ、はい……牡丹さん」
「んん、そうじゃなくて。わたしの花は、牡丹。そうして先生は、沈丁花」
「……?」
「陰陽師って、わかります?」
「あ、はい、小説とかでは……」
「そんな感じの人たちが、ご先祖さま。先生も、わたしも」
「……え」
牡丹は、ふふんと、鼻から息を吐いた。どうだ、というような表情。遊楽はなかば諦め顔で、云うに任せている。横を向き、足を組んで、徳利をひとりで持ち上げた。
牡丹は目を瞑り、ふらつきながらも、とらい
「むかし、むかあしの、おはなし。都には天変地異が続いておりました。飢える者も多く、疫病も流行って、人死にが後を絶ちません。道も
「悪くはないが、物語の冒頭は重要だ。一息で読者を掴む必要がある。背景の説明から入るのは俺は感心せんな」
「……小説のご講評いただいてるんじゃないんで黙っててもらえますか」
「続けろ」
「……帝に対しておん恨み
瑞香ははじめ面食らった様子で牡丹を見ていたが、やはりこうした話になれば心がざわめく。頷いて息を呑み、続きを欲する表情に、牡丹は満足げに口角を持ち上げた。
「……さて帝は大変お心を痛められ、とうとう宮中の秘伝を使われる決心をなされました。それが、
「はな、ことほぎ……」
「帝が愛された七つの花にちなんだ力、花は古来から彼岸に通じる力を秘めると云われます。帝は博士たちに命じて、その力をぎゅうっと深め、蓄え、そうして思うままに使役する秘術を創り出されていたのです」
「……」
「帝は心得のあるものを集めて
そこで牡丹は、ぴ、と瑞香を指差した。指された方は、びくりと身体を震わせる。
「ひとをあやかしに変えることができる
牡丹はそこまで云うと、ひとつ欠伸をし、ふにゃっと身体を
「……激しい戦の果てに、変化はついに、討ち果たされ……そうして、帝は約束を守られました……七人の術者たちの子孫はその後、授かった力を代々、受け継いできたのです。象徴となった、花の名と共に……子孫たちは、花神巫、と、呼ばれたのです……」
「……牡丹、さん……」
「……その時、もっとも功のあった術者には、沈丁花が授けられました、とさ」
牡丹は組んだ腕の上に頭を置いて、とろんとした目で瑞香を見上げた。
「これでお
すう、という寝息。目を閉じてしまった牡丹の肩を、瑞香は小さく揺すった。が、気持ちよさそうに背を上下させるだけで反応しない。
「……どんなお偉方も知らぬ話を、まあ、簡単にしゃべってくれることだ」
遊楽は手元の盃に酒を充し、くいと飲み干した。
「だが、そうだな。君にはいつか説明しなければならないことだった」
「……先生が、その、沈丁花の力を受け継がれたのですね」
応えずに、遊楽は下を見ている。再び酒を呷る。瑞香が尋ねるであろう、次の質問が
その予想どおりに、瑞香は拳を胸にあて、小さな声を絞り出した。
「そして……わたしは……あやかしに、変ぜられたのですね」
「……」
「先生のお手で。先生に、飼われる、ために」
「……そう、だな」
「なぜ、わたしを選ばれたのです。生涯いちど、と、牡丹さんは仰いました。あの時、どうしてわたしを救けて下さったのですか」
遊楽はなにかを答えようと口を動かしかけたが、やめて、頭の後ろを掻いた。瑞香は言葉を待ったが、遊楽はぽんと立ち上がった。黒の薄丹前の前を、なにか誤魔化すように合わせて見せた。
「……マスターは料理を作るだけつくって、居なくなってしまったようだな。何か買ってこよう。あらかた、牡丹くんが喰ってしまった」
そう云い、からんと扉を開けて出ていってしまった。
瑞香はその背を見送って、膝の上にあわせた手の上に目線を落とした。
時計が時刻を刻む音と、牡丹の小さな寝息だけが聞こえている。
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