第10話 正闘


 遊楽ゆうらは二十分ほどしても、戻らない。

 どこまで何を買いに行ったのだろう。


 瑞香みづか牡丹ぼたんを起こさないように静かに椅子を引き、立ち上がって店の扉に近寄った。硝子越しに通りを眺める。五間九メートルほどの通りの反対側には雑貨屋やら床屋が並んでいるが、もう閉めていて、あたりは薄暗い。

 

 暗いと思えば、小雨が降ってきていた。

 道ゆくひとも、叶わぬ、という様子で袖をかざして小走りである。

 ぽつぽつと地面を濡らす程度だが、瑞香は遊楽を心配した。

 夕方にはよく晴れていたのにと、思わず呟く。


 先刻、自分が口から出した言葉が、ずっと瑞香の心をつついている。

 なぜ、選ばれたのですか。わたしを。


 ここ数日の出来事は、もちろん、瑞香のなかでなにひとつ消化できていない。記憶おぼえがない中、あの夜に何があったのか、父親の説明もやすやす飲み込んだわけではない。牡丹の話も、もちろんそうだ。

 が、それでも。

 出ることのなかった、町を出た。ひとりで、家を後にした。

 立ち止まって息継ぎしなければ歩けなかった自分が、大きな鞄を下げて、知らない町で、知らないひとたちと、こうして、席を囲んでいる。


 こころの表面には浮かんでいないから、自身もまだ、気がつかない。

 生まれて初めての、自由。

 それを彼女は感じている。

 重い身体と、沈むこころ。幼い頃から馴染み、自分の本質だとさえ思っていたそれが、ふいに断ち切られた。縛っていた鎖の重さを、知らず彼女は振り返っている。いま、彼女の魂は、広大な青空に臨む小鳥のように軽いのだ。


 ひとりの男が、解いた。

 君は、俺の所有ものだ。

 そう、言葉を置いて。


 自分がここにいることには、理由がある。

 不幸の結果として吹き寄せられたのではないと、わずかに捉えた広い空が幻ではないと、もう、彼女は自分の脚で歩いて良いのだと、そう、云ってほしい。

 憧れ、そうして、救われた、あのひとに。


 瑞香は自分の心を掬い上げることも、言葉に落とすこともできずに、小さくため息をついて扉の硝子に手をあてている。


 と、その時。


 こつり、と、店の窓が音を立てた。

 顔を上げてそちらをみると、少年。

 十二、三だろうか。薄く曇った硝子の向こうで、なにやら慌てたような表情で頭を下げている。

 瑞香は店内を振り返ったが、牡丹はあいかわらず卓に突っ伏し、気持ち良さげに背を上下させている。店主マスター、と、牡丹と遊楽が呼ぶひとの姿も見えない。

 やむなく、扉を開けた。


 少年は、ととっと戸口に近寄り、もう一度ぺこりと頭を下げる。白い額で髪が揺れた。横と後ろを短く刈り上げているが、前がやや長い。

 瑞香の地元ではそうした格好の子供を見たことはなかったが、都会の流行なのだろうと納得した。桑色の明るい袴が印象的だった。


 「あの、ごめんなさい。今日、お店はお休みなんです」


 瑞香がそういうと、少年は慌てた様子で手を振った。


 「いえ、ちがうんです。僕、あっちの酒屋の丁稚でっちです。綺燐堂きりんどう先生が、大変なことになって、お知らせに」

 「えっ」

 「さっき、ふらりと立ち寄られて、一息にたくさんのお酒、召し上がられて。そうしたらばたんって、倒れられちゃったんです」

 「えええっ」


 瑞香が口に袖をあてて絶句すると、少年は深々と頭を下げた。


 「申し訳ありません、夜分にほんとうに恐縮ですが、お迎えに来ていただけないでしょうか。うちの店主が腰が悪いもので、僕ひとりでは先生をお支えできなくて」


 瑞香は改めて後ろを振り返る。牡丹の様子は変わらない。しばし考え、頷いた。


 「わかりました、伺います」

 「あいすみません。こちらです」


 少年は早足で歩き出した。傘をとりにゆくいとまもない。瑞香は、さきほど窓から見た通行人と同じように、袖で顔を隠して少年の後を追った。

 先生は、どうされたんだろう。買いに出たのではなく、わたしから離れたかったのだろうか。そんなにわたしに問われたのが、お心を痛めたのだろうか……。

 ぐるぐると、栓なき考えを巡らせながら、俯いて、瑞香は少年の後ろをついてゆく。

 

 少し歩いて、折れた。路地に入る。都会ではあるから、そう寂しい場所ではない。が、商店も、酒屋もないように思えた。静まり返った住宅と、空き地。すすきがふわふわと、小雨と夜風に揺れている。

 瑞香が左右を見回していると、少年は、立ち止まって振り返った。

 頬に手を当て、なにやら不思議そうな顔をしている。


 「……おかしい、のです」

 「……え」

 「僕はなにか、間違えているかもしれません」

 「……なに、を」

 「ちょっと、失礼しますね」


 そう云い、少年は瑞香に歩み寄った。

 戸惑う瑞香の手を取り、くいと引き寄せる。

 力は、強かった。

 少年の顔のそばまで、頬を寄せられた。

 そこに自分の頬を寄せ、ふん、と、少年は鼻を鳴らした。


 「……ふ。はあ」


 少年は顔を離し、とろりと目元をゆるめた。

 その表情を、瑞香は見たことがある。

 昼間、牡丹におなじ顔を、作られた。


 予感に、瑞香は踵を返した。走り出す。

 が、少年が走り寄るのが早かった。

 瑞香の背中、着物を掴んで、強く引く。

 平衡バランスを崩してよろめくところに身体を入れて、少年は、倒れ掛かる瑞香を斜めに抱くような形をとった。

 鼻どうしが付くような距離で、顔を合わせる。

 少年は薄く笑っていた。

 切れ長の目に、銀の瞳が浮いている。


 「……あなた。ずいぶん、鈍いのですね」

 「……や」

 「やすやすと、こんなところまで連れ出されて。せっかく結界を組み立てた遊楽先生の努力も、台無しです。途中で疑ってしまいました。人違いだったかなって。でも……」


 もう一度、瑞香の頬に、鼻を寄せる。


 「こんなに濃厚な、沈丁花の香り。ふふ。もはや、淫靡だ。ねえ、沈丁花の、あやかしさん」

 「……あなた、だ、れ」


 答えず、少年は瑞香の耳元に口を近づけた。

 のけぞり、避ける瑞香。

 が、少年の腕力は、少年らしいそれではなかった。

 すうと息を吸って、少年は、言葉を吐いた。


 「……椿つばきが命じる。眠れ。目覚めよと云うまで」


 瑞香の膝が折れる。首が、少年の腕の中で倒れる。

 その様子を満足そうに見遣りながら、少年は言葉を継いだ。


 「そうして、目覚めた時。あなたは、僕の……」

 

 が、文言は終了しなかった。

 まばゆい光が少年の背を打ったためである。

 ぐ、と呻いて、少年は振り返った。


 「轟天丸ごうてんまる! 瑞香さんを!」


 やや足の強くなった雨の下。

 通りの向こう、弱い街灯に照らされ、女給メイド姿が浮いている。

 両足をざんと地につき、立っている。

 前に掲げたその両手が、淡く穏やかな桃色に発光している。


 牡丹の声に従い、光の塊は少年から離れ、ふわんと宙で回転し、再び襲った。

 頬を掠めるが、少年は避けた。

 拍子に瑞香が腕から離れる。

 地に落ちかけたとき、光が彼女の背の下に入り、受け止めた。

 やわらかく地に横たえてから、光は膨張した。

 輝きを増しながら伸びて、やがて大人の背丈ほどとなる。

 のみならず、くびも、腕も、足も、形成されている。いずれも太い。

 ぐるる、と、光は、形をなした口元の牙を震わせた。

 瑞香を護るようにその前に立つ。


 「……やあ牡丹さん、ご無沙汰だね。寝てたんじゃないの」


 少年は牡丹と、光の人影に相対しながら、両手を低く構えている。

 牡丹は少年を薄い目で睨みつつも、どこか楽しげな表情を浮かべた。


 「轟天丸が教えてくれた。大体わたしが寝てたのなんで知ってるのさ」

 「見てたからね。このお姉さんがお店に入る時から、あなたが呑んだくれるまで、ずうっと」

 「この、変態小僧。そんな若さで覗き趣味とはね」

 「女装趣味よりいくぶん、ましだと思ってるよ」

 「……椿つばき


 呼ばれて、少年はむくれた顔を作ってみせた。


 「名前で呼んでよ。八ツ椿やつばき 柳太郎りゅうたろうって」

 「千年、早い。いいかい、あんたが攫おうとしたそこの女性ひとはわたしの客だ。なに狙ってんだか知らないが、これは牡丹への、椿の挑戦と受け取るよ。つまり、花神巫はなかんなぎの、正闘とりあいだ」

 「ああ、いいよ。明治維新ごいっしんからは初めてになるね。どう? 今日は生命まで賭けてみる?」


 応えの代わりに、牡丹は桃色の髪帯をするりと外して、口角を上げた。


 


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