第10話 正闘
どこまで何を買いに行ったのだろう。
暗いと思えば、小雨が降ってきていた。
道ゆくひとも、叶わぬ、という様子で袖をかざして小走りである。
ぽつぽつと地面を濡らす程度だが、瑞香は遊楽を心配した。
夕方にはよく晴れていたのにと、思わず呟く。
先刻、自分が口から出した言葉が、ずっと瑞香の心を
なぜ、選ばれたのですか。わたしを。
ここ数日の出来事は、もちろん、瑞香のなかでなにひとつ消化できていない。
が、それでも。
出ることのなかった、町を出た。ひとりで、家を後にした。
立ち止まって息継ぎしなければ歩けなかった自分が、大きな鞄を下げて、知らない町で、知らないひとたちと、こうして、席を囲んでいる。
こころの表面には浮かんでいないから、自身もまだ、気がつかない。
生まれて初めての、自由。
それを彼女は感じている。
重い身体と、沈むこころ。幼い頃から馴染み、自分の本質だとさえ思っていたそれが、ふいに断ち切られた。縛っていた鎖の重さを、知らず彼女は振り返っている。いま、彼女の魂は、広大な青空に臨む小鳥のように軽いのだ。
ひとりの男が、解いた。
君は、俺の
そう、言葉を置いて。
自分がここにいることには、理由がある。
不幸の結果として吹き寄せられたのではないと、わずかに捉えた広い空が幻ではないと、もう、彼女は自分の脚で歩いて良いのだと、そう、云ってほしい。
憧れ、そうして、救われた、あのひとに。
瑞香は自分の心を掬い上げることも、言葉に落とすこともできずに、小さくため息をついて扉の硝子に手をあてている。
と、その時。
こつり、と、店の窓が音を立てた。
顔を上げてそちらをみると、少年。
十二、三だろうか。薄く曇った硝子の向こうで、なにやら慌てたような表情で頭を下げている。
瑞香は店内を振り返ったが、牡丹はあいかわらず卓に突っ伏し、気持ち良さげに背を上下させている。
やむなく、扉を開けた。
少年は、ととっと戸口に近寄り、もう一度ぺこりと頭を下げる。白い額で髪が揺れた。横と後ろを短く刈り上げているが、前がやや長い。
瑞香の地元ではそうした格好の子供を見たことはなかったが、都会の流行なのだろうと納得した。桑色の明るい袴が印象的だった。
「あの、ごめんなさい。今日、お店はお休みなんです」
瑞香がそういうと、少年は慌てた様子で手を振った。
「いえ、ちがうんです。僕、あっちの酒屋の
「えっ」
「さっき、ふらりと立ち寄られて、一息にたくさんのお酒、召し上がられて。そうしたらばたんって、倒れられちゃったんです」
「えええっ」
瑞香が口に袖をあてて絶句すると、少年は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、夜分にほんとうに恐縮ですが、お迎えに来ていただけないでしょうか。うちの店主が腰が悪いもので、僕ひとりでは先生をお支えできなくて」
瑞香は改めて後ろを振り返る。牡丹の様子は変わらない。しばし考え、頷いた。
「わかりました、伺います」
「あいすみません。こちらです」
少年は早足で歩き出した。傘をとりにゆくいとまもない。瑞香は、さきほど窓から見た通行人と同じように、袖で顔を隠して少年の後を追った。
先生は、どうされたんだろう。買いに出たのではなく、わたしから離れたかったのだろうか。そんなにわたしに問われたのが、お心を痛めたのだろうか……。
ぐるぐると、栓なき考えを巡らせながら、俯いて、瑞香は少年の後ろをついてゆく。
少し歩いて、折れた。路地に入る。都会ではあるから、そう寂しい場所ではない。が、商店も、酒屋もないように思えた。静まり返った住宅と、空き地。
瑞香が左右を見回していると、少年は、立ち止まって振り返った。
頬に手を当て、なにやら不思議そうな顔をしている。
「……おかしい、のです」
「……え」
「僕はなにか、間違えているかもしれません」
「……なに、を」
「ちょっと、失礼しますね」
そう云い、少年は瑞香に歩み寄った。
戸惑う瑞香の手を取り、くいと引き寄せる。
力は、強かった。
少年の顔のそばまで、頬を寄せられた。
そこに自分の頬を寄せ、ふん、と、少年は鼻を鳴らした。
「……ふ。はあ」
少年は顔を離し、とろりと目元をゆるめた。
その表情を、瑞香は見たことがある。
昼間、牡丹におなじ顔を、作られた。
予感に、瑞香は踵を返した。走り出す。
が、少年が走り寄るのが早かった。
瑞香の背中、着物を掴んで、強く引く。
鼻どうしが付くような距離で、顔を合わせる。
少年は薄く笑っていた。
切れ長の目に、銀の瞳が浮いている。
「……あなた。ずいぶん、鈍いのですね」
「……や」
「やすやすと、こんなところまで連れ出されて。せっかく結界を組み立てた遊楽先生の努力も、台無しです。途中で疑ってしまいました。人違いだったかなって。でも……」
もう一度、瑞香の頬に、鼻を寄せる。
「こんなに濃厚な、沈丁花の香り。ふふ。もはや、淫靡だ。ねえ、沈丁花の、あやかしさん」
「……あなた、だ、れ」
答えず、少年は瑞香の耳元に口を近づけた。
のけぞり、避ける瑞香。
が、少年の腕力は、少年らしいそれではなかった。
すうと息を吸って、少年は、言葉を吐いた。
「……
瑞香の膝が折れる。首が、少年の腕の中で倒れる。
その様子を満足そうに見遣りながら、少年は言葉を継いだ。
「そうして、目覚めた時。あなたは、僕の……」
が、文言は終了しなかった。
まばゆい光が少年の背を打ったためである。
ぐ、と呻いて、少年は振り返った。
「
やや足の強くなった雨の下。
通りの向こう、弱い街灯に照らされ、
両足をざんと地につき、立っている。
前に掲げたその両手が、淡く穏やかな桃色に発光している。
牡丹の声に従い、光の塊は少年から離れ、ふわんと宙で回転し、再び襲った。
頬を掠めるが、少年は避けた。
拍子に瑞香が腕から離れる。
地に落ちかけたとき、光が彼女の背の下に入り、受け止めた。
やわらかく地に横たえてから、光は膨張した。
輝きを増しながら伸びて、やがて大人の背丈ほどとなる。
のみならず、
ぐるる、と、光は、形をなした口元の牙を震わせた。
瑞香を護るようにその前に立つ。
「……やあ牡丹さん、ご無沙汰だね。寝てたんじゃないの」
少年は牡丹と、光の人影に相対しながら、両手を低く構えている。
牡丹は少年を薄い目で睨みつつも、どこか楽しげな表情を浮かべた。
「轟天丸が教えてくれた。大体わたしが寝てたのなんで知ってるのさ」
「見てたからね。このお姉さんがお店に入る時から、あなたが呑んだくれるまで、ずうっと」
「この、変態小僧。そんな若さで覗き趣味とはね」
「女装趣味よりいくぶん、ましだと思ってるよ」
「……
呼ばれて、少年はむくれた顔を作ってみせた。
「名前で呼んでよ。
「千年、早い。いいかい、あんたが攫おうとしたそこの
「ああ、いいよ。
応えの代わりに、牡丹は桃色の髪帯をするりと外して、口角を上げた。
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