第20話 異国の教会
帝都の中心部近くではあるが、坂と緑の多い
広い通りから入って、坂をしばらく登ると、目指す建物が見つかった。
「……ふむ」
遊楽には建築に関する造詣などなにもないから、その様式の名称も由来も見当がつかない。が、物書きとして、その秀麗をあらわす単語はいくらでも見つけることができた。
異国の教会、というのがもっとも直截な表現だった。
物珍しさもあり、所期の目的である周囲の地理条件なり建物の開口部の確認といったことはまず捨象して、のんびりとした気持ちでしばし眺めた。
会合につかうというから役所、あるいは料亭のような建物を想像していたが、了見が外れたかたちである。
近寄り、植え込みに沿って建物のまわりを歩いてみる。三方は木立に囲まれていた。宗教施設としての荘厳を保つ意味もあるのだろうが、防火と保安も兼ねているのだろうと遊楽は考えた。
入り口は正面、張り出した日除けの奥にある。その横に窓があるのが見えたから、室内も覗けるのだろうかと歩み寄った。
と、まだ新しい明るい色の木の扉が、かちゃり、と音を立てて薄く開いた。
「ダブロ パジャラヴァーティ……?」
目深に紺の頭巾を被った女が顔を出し、小首を傾げてみせた。髪が隠れているが、この国のものでないことは顔つきですぐに判断できた。
室内にひとの気配を感じていなかったから、遊楽は、慌てた。
「あ……や、失敬。用もないのです。
右手を前に出して振る遊楽の顔を、女は不思議そうな表情でしばらく眺めていたが、やがてふふと笑みを浮かべた。
「ヴァイジーチェ、パジャールィスタ……どうぞ、おはいりください」
多少、音程の異なるところはあるが、聴き取りやすい本邦のことばで女はそう云い、身体をずらして扉を大きく開いて、暗い室内に右手のひらを向けてみせた。
遊楽は困惑したが、強硬に立ち去るのも返って怪しいのだろうかと考え、では、と頭をさげて足を踏み入れた。
外観から想像するより、内部は大きい。
礼拝堂なのだろう。高い天井の明かりとりから細く落ちる陽光が、簡素ではあるが丁寧な細工の施された長椅子を照らしている。長椅子は、奥の祭壇らしきものに向かって、二列、十脚ばかりが並べられている。
入り口の正面が、その長椅子の間の通路にあたっており、入れば祭壇の背の色硝子の宗教画が大きく目に入るという寸法となっていた。
「……これは、立派なものですね」
そう云い、奥に踏みだそうとして、遊楽は足を止めた。
「シトスルチーラス? どうされたのですか」
天井あたりに顔を向ける遊楽に、女は声をかけた。
数泊ほどそのまま眉根を寄せていたが、女に向き直り、微笑してみせる。
「いえ、異国の設えが珍しいものですから。つい、見惚れてしまいました」
「そうですか。どうぞ、長椅子に。今日は礼拝もありませんから、ご遠慮なさらず、ごゆっくりご覧ください。いま、お茶をお淹れしましょう」
「ああ、どうかお構いなく」
「ちょうどお茶の時間なのです。チョールニー……紅茶は、お好きですか」
「ええ、よく淹れています」
「それならよかった」
女は改めて長椅子を示し、遊楽がその端に腰を下ろすのを見届けてから奥の戸口に入っていった。しんとする堂内。遊楽は、なにかを感じ取ろうとするように、細く目をあけ、俯いて待った。
女はほどなく白い盆を捧げて戻ってきた。洋風の急須らしきものと、器がふたつ載っている。遊楽の横に静かに下ろし、それを挟んで、おなじ長椅子の反対、右側に女は座った。急須から器に茶を注ぐ。華やかな茶葉の香りが広がった。
「お砂糖は」
「いえ、結構」
皿受けに器を乗せ、遊楽に差し出す。受け取り、膝に乗せ、器を持ち上げて遊楽は息を吸い込んだ。
「……
「そうですか。お気に召したのなら
女はそう云い、自分の分の器をやはり膝に乗せた。と、反対の手で頭巾を持ち上げ、後ろに落とす。隠れていた髪が明かりとりの陽光を受けて、暗い堂内で華やかに輝いた。
金髪。長い髪を首の後ろで結って、外衣の裏に流していた。薄い青の瞳がみずからの髪の光を受けて輝いている。
遊楽は女の白い横顔に無遠慮な視線を向けていた。気づいているのか、女はちらと遊楽のほうを見て、器を持ち上げ、音も立てずに紅茶を含んだ。
「……美味しいですね。このお茶、実はわたしの国から持ってきたものではありません。この国で手に入れました」
女は器を揺すって、小さな茶葉の踊るようすを眺めていた。
遊楽はことばを返さない。
わずかに笑みをつくりながら、女は、小さく声を出す。
「この国には、佳いものがたくさんあります。茶葉だけではありません。穏やかで美しい風景、繊細な衣服、音楽、絵画、そして、ひとの心」
「……」
「長い伝統のなかで育まれた、ひとびとの、魂。木々に、鳥に、空と土と海に、神を見出す、その有り
「……この国のことを、
「ええ。祖父が、この国の出身なのです。小さい頃から話を聞かされました。この国では、色にも、音にも、雲にも、たくさんの名前があるのだと。それは、名が、記号ではないから。それを使う者、ひとりずつの心映えの投影。そのひとだけの世界の表現だから、と……ああ、すみません、こんなお話」
「いえ」
遊楽は手元の器に目を落とし、ひといきにそれを飲み干した。世辞にも上品のやり方ではなかったが、女は、その様子を好ましそうに見つめた。
「……今日は、おひとりですか」
「ええ。連れが居ましたが、戻りました。体調不良で」
「それは、ご心配ですね」
「昨日、酒宴が過ぎましてね。そのためと思っていたが、どうやら違うようだ」
「……と、申しますと」
遊楽は手元の器を盆に戻し、懐に手を入れた。手巾を出し、口元を拭う。手巾を戻すと、その手で、何枚かの紙片を抜き出した。紙片にはいずれも、なんらかの文字、あるいは文様が記されている。
紙片を指先で揺らしながら、遊楽は、わずかに口角を上げた。
「
女は穏やかな表情を崩さぬまま、遊楽の横顔を静かに見ている。
「牡丹に手を出し、わざわざ俺を
「……そんなことをしていないのは、
女はそう云い、口元に手を当て、ふふと息を漏らした。
「菖蒲。わたしの国では、イーリス、です。わたしの名前も、また同じ。イーリス、とお呼びください……これから永いお付き合いに、なるのですから」
女、イーリスが目を伏せた。
再びあげたときには、その中心が縦に裂け、薄い青に燃えていた。
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