第21話 一命をもって
入り組んだ用水をいくつかの橋で越え、柳の角で折れて小豆色の
その一軒の軒先に寄せて、車夫は脚を止めた。
「へ。着きやした」
声をかけられ、
「……ああ。ご苦労さまです。いま、降ります」
云いながら俥の手すりに手をかけ、ゆっくりと脚をだすが、もつれて転倒した。ずり落ちるように地に倒れたから、車夫は面食らって駆け寄ったが、牡丹は笑って手を振った。ゆっくり立ち上がり、埃も払おうとせず、戸口へよろりと歩いてゆく。
昼ひなかであるが、そういう趣向の客もいるから、店はあいている。番頭が出てきた。牡丹が所定の符牒を告げると、頷いて奥へ入った。
が、その返答を待たず、牡丹は上がり込む。案内も得ずに廊下を進む。
その背に、ちょっと、と、番頭の声がかかる。それも気にせず、牡丹は、わずかに脚を引きずるような姿勢で進んでゆく。
番頭と、もうひとりの男が背に近付く。手をかけようとする。わずかに振り返った牡丹の瞳が発光したことに、男たちは気がつかない。即時に身体ふたつぶんも弾き飛ばされ、壁に打ち付けられて意識を喪失したためである。
ひとつの部屋にたどり着く。以前にいちど、案内されたために
布団の上に、向こうを向いて丸くなっている影。膝を抱えている様子だった。暗い室内に、千々に乱れた白銀の長髪が浮いている。
布団の手前に、牡丹は膝を畳んだ。手をつき、額を床につける。
「……牡丹か」
祢禰は振り向きもせず、姿勢も変えずに声を出した。
「云うておるではないか。昼に、来るなと。眠いのだ」
「……恐れ入ります。気が急きましてございます」
「ん、なんじゃその腹の傷は。如何した」
「……大事、ございません」
「大事ないことは、無かろう。
気怠そうに手をつき、身体を起こして、祢禰は牡丹のほうへ振り返った。眠そうな瞼が
寝巻きの袖から細い右手を差し出す。その手に、牡丹は左手を置いた。ぽう、と、祢禰の身体がわずかに燐光を生じる。あわい光が、ゆっくりと腕を伝って牡丹の方へ流れた。
眉根を寄せ、歯を食いしばっていた牡丹の表情が、徐々に穏やかになってゆく。
「……刃物でもない。削られたのでもない。裂けたか。牙、じゃな。
「……恐れ、いります」
「どうした。なにがあった」
短い時間で治癒がなり、祢禰は手を引いて、腕を組んだ。変わらず眠そうな目だが、言葉はいくぶん、
「……お尋ねしたき、儀が」
「なんじゃ」
「……
「遊楽が、如何した」
牡丹は改めて手を揃え、首を垂れた。
目に、決然のひかりがあった。
「……先生を、そして瑞香さんを、お見捨てになる。誠でございますか」
ほぼ、同じ時刻。
異国の教会の堂内。
木組の長椅子で、紺の外衣の金髪の女、イーリスが遊楽を正面から見つめている。その瞳の中心は縦に裂けている。薄く、青く、燃えている。
「……永い、つきあい。どういうことでしょう」
遊楽が指先で紙片をふらりと揺すりながら、独り言のようなのどやかな声を出した。視線は指先にある。足も組んでいる。が、わずかの油断も生じていない。
イーリスも器をゆっくりと盆に戻し、片手を胸に当ててみせた。
「文字どおり、です。あなたは、ずっと、わたしの側にいることになるのだから」
「意味が取れませんね」
イーリスの瞳の光輝がいちだん、強くなる。と同時に、堂内の空気が帯びる闇が深くなった。明かり取りから指しているはずの陽光が、
遊楽は周囲を見回し、ふうと息をついた。なんらかの覚悟を定めた様子だった。それでも表情は、変わらず穏やかなまま。
「……わたしも遊楽先生に、伺いたいことがあるのです」
「なんでしょう」
「どうして、真実を云わぬのです」
「誰に。真実とは」
「あの
手をぽんと合わせて、イーリスは眉を上げた。
「先ほども申し上げましたが、わたしはこの国の言葉、文化に強く惹かれています。だからこそ、追っていた人物を見つけて、その名を知ったときには驚きましたよ。瑞香……みづか、ずいこう。ふたつの読み方がある名前、そしてその意味するところは、沈丁花」
「……」
「感動しました。わたしの手の者の調査でも、少なくとも彼女の父は何も識らない。なのに、瑞香という名を、娘に与えた。沈丁花の娘に」
沈丁花の娘、というところで、ふらふら揺れていた遊楽の指先が止まった。
「運命、宿命。わたしの国の宗教では、そうした考えを容れません。ですが、わたしは、信じる気持ちになった。そして確信しました。この娘こそが、そしてあなたこそが、花神巫の呪いの、最期のふたりだと」
「……なにを云っているのか、
「わたしたちが終わらせて差し上げましょうと、そう、申し上げているのです」
「……わたしたち、とは」
「国。政府。あなたが知らない、広い世界。この国は美しい。ですが、足りないものがある。広さです。深い、深いところで、あなたたち、花神巫は、この国のあやかしたちは暮らしてきた。その深さを、わたしたちは驚嘆して眺めるほか、ありません。素晴らしいものです。でも、足りない」
そう云い、イーリスは手のひらをふわりと上に向けた。沈んでいた空間に光の粒子が浮かび、彼女の手のひらに集約する。小さな球となり、回転し、やがてそれはこぶしほどの大きさとなった。
それを見る遊楽の目は、しばらく大きく見開かれ、それでもすぐに復した。が、出した声がいくぶん、棘を持つようになった。
「……
「いいえ、違います。ですから、足りない、と申し上げたのです」
謳うように云い、イーリスは手のひらで光の球を転がした。生き物のようにうごめくそれは、時折りながい耳のようなものを立て、あるいは小さな鼻を見せた。ふんふんと匂いを嗅ぐようなしぐさをするそれを、イーリスは指先で突いてみせた。
「……花神巫の力。神秘的で、偉大です。そして同じ属性を、わが国、わが宗教は、備えるのです。より広く、より、大きく」
「……」
「あの、
そこでイーリスは息を荒くし、中空を見上げた。頬を紅潮させている。
「最後は、ほとんど相打ちでした。決したのは技ではない。わたしのことば。それが、あのひとの臓腑を貫きました。そして、応じたんです。交換に」
「……交換」
「ええ、交換。正闘などではありません。取引、です」
イーリスは中空に向けた顔を、ことんと遊楽のほうへ倒してみせた。半月に歪んだ目。さきほどまでの司祭然とした鷹揚たる態度はすべて演技なのだと、彼女じしんが表情をもって説明していた。
「呉れてやると、云いました。わたしの望みを叶えたなら、と」
イーリスの手のひらから光の珠が落ちた。震えながら膨張する。
ひとの背丈を超える高さほどとなった
「古代の悪鬼、最恐の怨霊、りるる。沈丁花の真の役目は、それを一命を以って止めること。封じること。そうしてついには、共に滅すること」
イーリスは上を向き、あはあと、吐息とも嘲笑ともとれる息を吐いた。
「馬鹿げたことです。あなたほどの力を、あなたのような、美しい花を、あんな外道とともに失うなど。人類の損失です。だから……」
艶めかしい微笑を浮かべ、手首をもちあげ、指を立てた。
轟天丸の咆哮が堂内を貫く。
「引き剥がしてあげようと云うのです。あの悪鬼を、あなたから」
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