第5話 たびだち


 ほんとうにこの世なのだろうか。


 瑞香みづかは、疑っている。

 改札口で硬直している。


 そうしていると、ずしりと重い鞄に引っ張られるように身体がかしいできた。慌てて、ふん、と、背を伸ばす。

 

 駅舎の正面からずっと向こうへ道路が繋がっている。

 広い。五間九メートルほどもあろうか。

 その広い街路を埋めるような、ひと、ひと、ひと。

 おもい思いの鮮やかな装束に身を包んでいる。楽しげに歩き、道の両脇に立ち並ぶ店をひやかし、あるいは縁台に座ってなにかを食べている。

 店屋の看板というのはこんなにも彩りのあるものだったか、と、瑞香は今朝けさがた出てきた自宅の周辺と引き較べている。


 背で、ぼう、と汽笛。

 振り返ると、駅舎の外まで流れ出る蒸気を残して、巨大な鉄の塊が動き始めたところだった。先ほど瑞香が乗ってきた汽車だ。


 瑞香は生まれてからいちども、自分の町を出たことがない。

 鉄道どころではない。俥夫しゃふの引く車ですら、年に一度も乗らない。最後に乗ったのは今日の朝ではあるが、その前は、昨年の春。瑞香の具合が悪く、少し遠い医者へ往復するためだった。

 小さいとはいえ、地方ではほどほどに栄えた町だったから、少し歩けば必要なものは手に入った。遠方の親戚もない。父、利蔵りぞうは商用で月に一度ほど帝都へ出たが、瑞香が同行することもなかった。

 

 そもそも、町のなかですら、自由に歩けたことなどほとんどない。

 幼い頃には体調が良いときもあったから、父に手を引かれて稲荷のお祭りに出かけたりもしたものだ。紙芝居が来るというので、瑞香は、数日前から眠れなかったのをよく覚えている。

 が、長じてからは、自室が彼女の世界のすべてになった。

 喜びも、憧れも、背を紐で綴じられた木綿紙の上にあったのだ。


 そうして、いま。

 彼女は、どんな挿絵でも見たことがない賑わいを、目の当たりにしている。

 自分の脚で立ち、自分の目で見ている。

 汽車に乗ってやってきた、この街で。


 あの日。


 帰宅した父が連れてきた、男。

 おぼえていない。

 憶えているのは、喰われる、という恐怖だけだった。

 瑞香は意識を保つことを放棄した。死の痛みを耐えるためだった。

 

 が、生きていた。

 気がつけば、利蔵と、別の男が瑞香を見下ろしていた。

 瑞香の目が開くと、利蔵は彼女を抱きしめ、大きな声をあげて泣いた。

 男はしばらく厳しい表情で瑞香の目を見つめていたが、やがて安堵したように息を吐き、胡座あぐらになった。頭をくしゃりと掻いて、笑う。

 その笑いを、瑞香は忘れることができないでいる。


 男は、綺燐堂きりんどう 遊楽ゆうら、と名乗った。

 いまだ目覚めきらぬ脳裏で瑞香はその名を探し、合致するはずのない記憶の倉庫で、それを見つけた。

 布団の上に横坐りをしていたのだが、膝で飛び、胸元をあわせてにじり退がった。せん、せい、と声を出すと、遊楽はふたたび小さく笑って、だが、口を引き結んだ。


 俺はこれで戻ります、調べなければならないことがある。

 そう云い、遊楽は立ち上がった。

 君が意識を失っている間に、父上には詳細ことこまかに説明してある、あとで聴いておいてくれ。

 遊楽の言葉に、利蔵は眉を曇らせ、それでも、畳に手をついて深く頭を下げた。その父の腹に血が滲んでいることに、そのときはじめて瑞香は気がついた。


 遊楽は大島紬おおしまつむぎをひらめかせ、玄関へは向かわず縁に出ようとし、思いついたように部屋の隅に向かった。大きな箪笥がある。それに手をかけ、ふっと声を出して引いた。

 引く先は壁だが、庭が見えている。焦点の合わない思考で、瑞香は、こんなとこに穴があいてたかな、と考えた。その穴を、遊楽が引いた箪笥が塞いだ。

 

 縁に座って黒の皮長靴ブーツを履きながら、遊楽は瑞香に振り返った。

 待っているよ。

 声をかけ、立ち上がり、にぃと笑った。

 忘れないでくれ。

 君は、俺の所有ものだ。

 それだけ云い置いて、立ち去った。


 意味を取れず、瑞香はただ、手をついて頭を下げた。利蔵も横で同じ姿勢をとっている。

 それから利蔵は外に出て、大きな物音に驚いて出てきた隣近所に詫びて周り、戻って、鍋をだし、菜と鶏を煮て、米をざっと加えて雑炊に仕立ててから、器ふたつとともに、瑞香の枕元に運んだ。


 湯気を挟んで、父娘おやこは向かい合った。

 箸を使いながら利蔵がとつとつと話す内容は、瑞香を驚かせた。が、不思議に彼女は、穏やかな気持ちでいる。

 自分のなかに残った何かが、善い、と告げている。

 

 瑞香があやかしとなったくだりは、利蔵は、おおきく省略した。特に、獣との対峙についてはすべてを省いた。それでも瑞香は、おおまかを把握した。

 下を向き、小さく、ごめんね、ありがとう、と呟く。

 利蔵は首を振った。箸を置く。


 あのひと、遊楽先生から、言伝ことづてがある。

 三日間。それ以上、あのひとから離れていると、お前は……。

 伺うような瑞香に、利蔵は下を向いたまま、生命、落とす、と、小さく告げた。それが、契約……飼われる、ということだ、と。

 懐から書付を取り出し、瑞香に手渡す。住所が記載されていた。遠い街。

 ひとりで来いとのことだ、と、利蔵は告げて、下唇を噛んだ。


 君は、俺の所有ものだ。

 遊楽の言葉は、その晩、瑞香の眠りを長い時間にわたって妨げた。


 翌朝、支度をはじめた。

 荷物は少ない。身の回りのものと、何冊かの本。

 利蔵が手伝ったのだが、途中からは瑞香ひとりで行った。

 身体が、利くのだ。腕も脚も、軽い。息も詰まることがない。

 瑞香は首を傾げ、ぴょんと飛んで、回った。


 その夜は、利蔵と並んでやすんだ。

 幼い頃からのはなしを、ずいぶん長いこと、話した。

 昨夜もあまり眠ってはいないが、瑞香は、おそらくもう生きては再会うことのないだろう肉親との時間を慈しんだ。


 朝になると利蔵は走り、くるまを呼んできた。

 利蔵は、ここで見送ると、真っ赤な目で車上の瑞香に告げた。

 握った手が離れ、互いの姿が木立に紛れるまで、瑞香も利蔵も、動かなかった。


 目指すべき駅の名は、遊楽の書付に記されていた。

 鉄道の利用のしかたがわからない瑞香は、利蔵に教えられたとおり、駅にいた身なりの良い婦人に声をかけた。婦人は親切に教え、瑞香は、ほどなく汽車に揺られることとなった。

 

 半日ほどを揺られ、いま、瑞香は見知らぬ街に立っている。


 「……ふう」


 吸って、吐いた。

 匂いが違うように、瑞香は感じた。


 荷物が少ないとはいえ、利蔵が用意してくれた丈夫な鞄は、それ自体でもう重い。先日までの瑞香であれば、持ち上げることすら叶わなかったはずだ。

 が、いま彼女はそれをぶら下げ、賑やかな通りを歩いている。

 懐から取り出した書付を見る。

 目指すべき住所は、皆目わからない。見当もつかない。

 が、なんとかなる。

 腕のちからと同様に、瑞香のなかの何かが変化している。


 半時間も歩いただろうか。

 ゆく人に訊ね、あるいは軒先で声をかけて、やがて瑞香は、目指す住所に近づいたことを知った。

 教えられたとおりにゆくと、通りからひとつ入った場所に、その建物を見つけることができた。

 明るい色の石造りの、三階建。

 当世流行の瀟洒な造りだった。


 間違った、と、瑞香は判断した。

 

 遊楽の作風。利蔵から聴かされた、その異能。

 あやかし、獣、そうして、自分を待ち受けるであろう過酷な生活。

 いずれから連想するものも、いま目の前にある建物に繋がらない。

 瑞香の目が探していたものは、鬱蒼の草木に囲まれた古びたやしろ、あるいは、かつて凄惨な事件のあった、呪われた屋敷。


 紙片にもういちど目を落とし、踵を返した。役人に訊ねよう。瑞香は警邏けいら邏卒らそつを探して、目を泳がせる。

 と、後ろから声をかけられた。


 「あの……瑞香さん……です、か?」


 振り返ると、女給メイドふうのなりをした女が、建物の一階の戸口から顔を出していた。

 瑞香が戸惑っていると、女は破顔した。縁に飾りのついた白い前掛けにぽんぽんと手を打ちつけながら、ととと、と、走り寄ってくる。

 瑞香の前で立ち止まり、桜色の唇をふわりとたわめてみせた。


 「先生から聴いてます。よかった! 優しそうな女性ひとで」


 

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