第5話 たびだち
ほんとうにこの世なのだろうか。
改札口で硬直している。
そうしていると、ずしりと重い鞄に引っ張られるように身体が
駅舎の正面からずっと向こうへ道路が繋がっている。
広い。
その広い街路を埋めるような、ひと、ひと、ひと。
おもい思いの鮮やかな装束に身を包んでいる。楽しげに歩き、道の両脇に立ち並ぶ店をひやかし、あるいは縁台に座ってなにかを食べている。
店屋の看板というのはこんなにも彩りのあるものだったか、と、瑞香は
背で、ぼう、と汽笛。
振り返ると、駅舎の外まで流れ出る蒸気を残して、巨大な鉄の塊が動き始めたところだった。先ほど瑞香が乗ってきた汽車だ。
瑞香は生まれてからいちども、自分の町を出たことがない。
鉄道どころではない。
小さいとはいえ、地方ではほどほどに栄えた町だったから、少し歩けば必要なものは手に入った。遠方の親戚もない。父、
そもそも、町のなかですら、自由に歩けたことなどほとんどない。
幼い頃には体調が良いときもあったから、父に手を引かれて稲荷のお祭りに出かけたりもしたものだ。紙芝居が来るというので、瑞香は、数日前から眠れなかったのをよく覚えている。
が、長じてからは、自室が彼女の世界のすべてになった。
喜びも、憧れも、背を紐で綴じられた木綿紙の上にあったのだ。
そうして、いま。
彼女は、どんな挿絵でも見たことがない賑わいを、目の当たりにしている。
自分の脚で立ち、自分の目で見ている。
汽車に乗ってやってきた、この街で。
あの日。
帰宅した父が連れてきた、男。
憶えているのは、喰われる、という恐怖だけだった。
瑞香は意識を保つことを放棄した。死の痛みを耐えるためだった。
が、生きていた。
気がつけば、利蔵と、別の男が瑞香を見下ろしていた。
瑞香の目が開くと、利蔵は彼女を抱きしめ、大きな声をあげて泣いた。
男はしばらく厳しい表情で瑞香の目を見つめていたが、やがて安堵したように息を吐き、
その笑いを、瑞香は忘れることができないでいる。
男は、
いまだ目覚めきらぬ脳裏で瑞香はその名を探し、合致するはずのない記憶の倉庫で、それを見つけた。
布団の上に横坐りをしていたのだが、膝で飛び、胸元をあわせてにじり退がった。せん、せい、と声を出すと、遊楽はふたたび小さく笑って、だが、口を引き結んだ。
俺はこれで戻ります、調べなければならないことがある。
そう云い、遊楽は立ち上がった。
君が意識を失っている間に、父上には
遊楽の言葉に、利蔵は眉を曇らせ、それでも、畳に手をついて深く頭を下げた。その父の腹に血が滲んでいることに、そのときはじめて瑞香は気がついた。
遊楽は
引く先は壁だが、庭が見えている。焦点の合わない思考で、瑞香は、こんなとこに穴があいてたかな、と考えた。その穴を、遊楽が引いた箪笥が塞いだ。
縁に座って黒の
待っているよ。
声をかけ、立ち上がり、にぃと笑った。
忘れないでくれ。
君は、俺の
それだけ云い置いて、立ち去った。
意味を取れず、瑞香はただ、手をついて頭を下げた。利蔵も横で同じ姿勢をとっている。
それから利蔵は外に出て、大きな物音に驚いて出てきた隣近所に詫びて周り、戻って、鍋をだし、菜と鶏を煮て、米をざっと加えて雑炊に仕立ててから、器ふたつとともに、瑞香の枕元に運んだ。
湯気を挟んで、
箸を使いながら利蔵がとつとつと話す内容は、瑞香を驚かせた。が、不思議に彼女は、穏やかな気持ちでいる。
自分のなかに残った何かが、善い、と告げている。
瑞香があやかしとなった
下を向き、小さく、ごめんね、ありがとう、と呟く。
利蔵は首を振った。箸を置く。
あのひと、遊楽先生から、
三日間。それ以上、あのひとから離れていると、お前は……。
伺うような瑞香に、利蔵は下を向いたまま、生命、落とす、と、小さく告げた。それが、契約……飼われる、ということだ、と。
懐から書付を取り出し、瑞香に手渡す。住所が記載されていた。遠い街。
ひとりで来いとのことだ、と、利蔵は告げて、下唇を噛んだ。
君は、俺の
遊楽の言葉は、その晩、瑞香の眠りを長い時間にわたって妨げた。
翌朝、支度をはじめた。
荷物は少ない。身の回りのものと、何冊かの本。
利蔵が手伝ったのだが、途中からは瑞香ひとりで行った。
身体が、利くのだ。腕も脚も、軽い。息も詰まることがない。
瑞香は首を傾げ、ぴょんと飛んで、回った。
その夜は、利蔵と並んで
幼い頃からのはなしを、ずいぶん長いこと、話した。
昨夜もあまり眠ってはいないが、瑞香は、おそらくもう生きては
朝になると利蔵は走り、
利蔵は、ここで見送ると、真っ赤な目で車上の瑞香に告げた。
握った手が離れ、互いの姿が木立に紛れるまで、瑞香も利蔵も、動かなかった。
目指すべき駅の名は、遊楽の書付に記されていた。
鉄道の利用のしかたがわからない瑞香は、利蔵に教えられたとおり、駅にいた身なりの良い婦人に声をかけた。婦人は親切に教え、瑞香は、ほどなく汽車に揺られることとなった。
半日ほどを揺られ、いま、瑞香は見知らぬ街に立っている。
「……ふう」
吸って、吐いた。
匂いが違うように、瑞香は感じた。
荷物が少ないとはいえ、利蔵が用意してくれた丈夫な鞄は、それ自体でもう重い。先日までの瑞香であれば、持ち上げることすら叶わなかったはずだ。
が、いま彼女はそれをぶら下げ、賑やかな通りを歩いている。
懐から取り出した書付を見る。
目指すべき住所は、皆目わからない。見当もつかない。
が、なんとかなる。
腕のちからと同様に、瑞香のなかの何かが変化している。
半時間も歩いただろうか。
ゆく人に訊ね、あるいは軒先で声をかけて、やがて瑞香は、目指す住所に近づいたことを知った。
教えられたとおりにゆくと、通りからひとつ入った場所に、その建物を見つけることができた。
明るい色の石造りの、三階建。
当世流行の瀟洒な造りだった。
間違った、と、瑞香は判断した。
遊楽の作風。利蔵から聴かされた、その異能。
あやかし、獣、そうして、自分を待ち受けるであろう過酷な生活。
いずれから連想するものも、いま目の前にある建物に繋がらない。
瑞香の目が探していたものは、鬱蒼の草木に囲まれた古びた
紙片にもういちど目を落とし、踵を返した。役人に訊ねよう。瑞香は
と、後ろから声をかけられた。
「あの……瑞香さん……です、か?」
振り返ると、
瑞香が戸惑っていると、女は破顔した。縁に飾りのついた白い前掛けにぽんぽんと手を打ちつけながら、ととと、と、走り寄ってくる。
瑞香の前で立ち止まり、桜色の唇をふわりと
「先生から聴いてます。よかった! 優しそうな
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます