第4話 生まれいづる


 まばゆい光はすぐに失せた。

 室内にとろりとした夕のかげりが戻る。


 が、情景は先刻と同一ではない。

 部屋の奥、天井の隅でさかしまにへばり付いている獣の腕の数。

 それが、異なった。

 ひとつ減じている。

 腕いっぽんとなった獣は、どうと音を立てて床に落ちた。

 

 霧のような、淡く蒼く、涼やかな光。

 それが波のように漂いながら、部屋をしずかに満たしている。

 

 女が、いる。

 部屋の中央、畳床に片膝と両の拳をついている。

 背で踊る腰までの髪は、蒼く、穏やかに発光している。

 部屋を満たす光は、その髪と、彼女のやや伏せた瞳が宿す蒼い炎に由来しているようだった。

 肩をゆっくり、上下させている。

 頭頂に立つ尖った耳は、空気を捉えようとするように時折り、ぴくりと動いた。

 呼気を吐くたび、光の霧がゆらりと揺れる。


 やがて、女はゆっくりと顔を上げた。

 伏せた瞳を正面に向ける。

 縦に割れた瞳は強い光を湛えている。

 その瞳を、端に紅を置いたおおきな目のなかで動かし、左右を見た。

 

 と、首をぶんと振る。なにかが飛んだ。

 遊楽と利蔵の足元に、太く黒いものが転がった。

 獣の腕だった。女の歯形が刻まれている。

 切断面にはおぞましい、蛇のようなものが多数生じている。

 利蔵はそれを視認し、失血の影響もあったか、昏倒した。


 遊楽は、目を見開いている。

 寒気を感じたように、いちど、ぶるりと上体を震わせた。

 ひとこと、漏らす。


 「……美事みごと……」


 女は、銀の牙の覗く口元を、ぐいと甲で拭った。

 立つ。

 背に、髪とは別のものが揺れている。

 長い尾は、頭頂の耳と同じ、薄い蒼色の獣毛で覆われていた。


 何も身につけていない。

 過剰なまでに存在感を示す隆起を、だが、女は気にする様子がない。

 腕を持ち上げ、手のひらを顔の前でひらめかせる。

 爪紅つまべにをつけているよう思えたが、その長い鉤爪は、紅ではない。瞳と同じ、煌めきを含んだ蒼は、彼女が指を動かすたびにくろがねが接触するような音をたてた。


 ふたたび左右をめ回して、女は、伸びをした。

 右手を天に掲げ、左は、頭の後ろに曲げている。

 上腕のしなやかな筋肉が滑らかな曲線を描いている。


 「ふ、ああ」


 伸びと欠伸を収めて、女は目元に涙を浮かべた。

 と、遊楽の立つほうへ目を向ける。

 しばし、珍しいものを見つけたという表情をつくっていたが、やがて、にいと口元を歪めた。長い牙が覗く。目を半月にして、女は、踏み出した。

 品を作るように、あるいは勿体ぶるように、遊楽に近づく。


 「……ね」


 手が触れる距離になる。

 並べば、遊楽よりは低い。が、そう変わらない。

 女は右手を差し出した。遊楽の胸に手のひらを置く。

 人差し指を出し、上になぞる。

 あごに至り、口元に辿り着き、長い爪で、かり、と唇を掻いた。


 「呼んで、おくれよ」

 「……なにをだ」


 遊楽は表情をつくらず、短く応えた。

 女は上目で、愉しむような声を出した。


 「あたしの、名を、さ。っているのだろう」

 「……最前さいぜん、聴いた」

 「あは……ね、あんたさ、佳い匂いがするねえ」

 

 遊楽はわずかに眉を歪めたが、反駁しない。女は目を細めた。


 「おんなじだ。あたしとおんなじ、匂い」

 「……」

 「匂いを、溶かしてさ。互いに溶かして、ひとつになってさあ。ああ、堪らない。背の骨がぞわりとするよ……ね、ちょいとさ、あたしのくび、歯、立てとくれよ」

 「……なにを云っている」

 「なにでもいいからさあ、ね。魂縛ちぎりだよ。証が欲しいじゃないかさ……あんたが確実たしかに、あたしのもんだって」

 「……いつ俺が、君のものになった」


 女は一歩退がって、艶めいた唇を大きく開いた。はあ、と息を天に吐く。沈丁花の香気が一段、濃くなった。下目に遊楽を見遣る。


 「あは。あはは、はあ……ああ。いいねえ」


 遊楽の首に、両手を廻す。手のひらを頭の後ろに這わせる。ぞろりと撫でて、顔を近づける。遊楽の左の頬は、女のそれに、重なった。

 耳許に、女は囁いた。


 「……あたしの名は、りるる」

 「聴いたと云った」

 「ね、どうして、んだんだい。あたしを」

 「召んだのではない。君は、みづ」


 遊楽の口が言葉を出そうとするのを、りるるは強い抱擁によって封じた。


 「……いたかったんだろう、あたしに。そうに相違ちがいない。そうだろう。相違ないよ……」


 りるるは遊楽の両肩に手を置き、いちど離した。

 先ほどから遊楽の瞳は銀に輝いている。

 それを眺めて、りるるは、満足そうに男の胸に撓垂しなだかった。


 遊楽は嘆息したが、りるるの肩越しに、気付いた。

 

 「おい」

 「んん……も少し、こうさせておくれよ」

 「場合ではない。気がついておらぬのか」

 「なにがさ」

 「後ろだ」


 遊楽の視線の先で、獣が立ち上がっていた。

 失った腕が再生しかけている。

 あかうごめく組織が肩から先で腕の形状をとっている。

 太い牙の覗く口端からどろりとした泡を吹いている。


 「……見るんじゃないよ、そんな汚いもの」

 

 りるるはわずかに眉をしかめ、それでも遊楽の胸で目を閉じたまま、夢を見るようなゆるりとした声を出す。


 「ねえ、そんなことよりさ。あたしの髪、どうだい。耳は。爪も、ほうら、綺麗だろう。好いてくれるかい。ねえ」

 「……みづ……りるる」

 「ああ、呼んでくれたねえ。嬉しや……ね、も一度。ねえ」


 と、獣が踏み出した。

 遊楽はりるるを軽く押し除け、懐に手をいれる。

 が、りるるが邪魔をした。胸を押し付け、手を封じる。


 「おい」

 「……あたしの、あんた。ね、今夜は、さ……」


 獣は、屈み込んだ。踏み切る。

 跳んだ身体が、りるるの背に殺到した。

 りるるは、腕を離した。


 獣の姿がない。

 数泊遅れて、轟音。

 裂かれた空気が悲鳴を上げた。風が打ちつける。破片が舞う。

 遊楽から見て左の壁が崩壊していた。

 轟音の中で、りるるはふわりと着地した。再び遊楽の胴に腕を廻す。

 

 離れた瞬間、りるるは音の速度で回転していた。

 回転した右足は獣のこめかみを精確に打ち抜き、胴と頭部を分けた。

 獣だったものは壁に衝突し、崩壊しながら構造を突き破った。

 庭先に転がった肉片がごぼりと音をたてて形象を喪失しつつあるが、それは彼らには見えていない。


 「……あたしのことだけ、見ていておれよ」


 遊楽はしばらく壁に開いた穴の向こうを見つめていたが、やがてふうと息をつき、りるるに視線を落とした。


 「……君はちと、暴力が過ぎるようだ」

 「なんだ。救けたんじゃないか」


 不満そうに口を尖らせ、りるるは上目に遊楽を睨んだ。

 と、遊楽は構わず、りるるの肩を掴んで引き剥がす。

 掴んだまま身体の向きを変え、あるいは後ろを向かせ、腕を上げさせ、指を伸ばし、しげしげと眺める。

 りるるは不思議そうな表情で、されるままにしていた。


 「……しかし。実際、美事みごとなものだ」

 

 その言葉に、りるるはにいと口角を上げてみせた。


 「惚れたかい。佳い身体つきだろう」


 遊楽は応えず、二枚外套インバネスコートを脱いだ。ぱさりと投げて寄越す。


 「着ておけ」

 「要らないよ」

 「君に云っているのではない。瑞香くんにだ」


 と、ちょうどその時。

 りるるの表情がやにわに強張こわばった。腕をあげ、手のひらを見る。その手が小さく震え出す。

 震えはすぐに全身に降りた。膝を折りかける。呼吸が荒くなる。

 先ほどまでの挑戦的な、自信に溢れた表情が失せている。遊楽に縋るような目線を向ける。

 遊楽はその肩をぐいと抱き寄せた。

 りるるを燐光が包んだ。徐々に強くなり、眩しい光となり、周囲を満たしてゆく。

 光はりるるの姿を隠して、やがてふと消失した。


 遊楽の腕のなかで、瑞香は意識を失っている。

 その薄く細い背を支えて、ゆっくりと床に下ろした。

 黒髪が床に流れている。


 「……沈丁花、か」


 何も知らぬげな瑞香の表情。穏やかに目を瞑っているその横顔をしばらく眺め、気づいて外套を掛けてやりながら、遊楽は小さくつぶやいた。


 

 

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