第28話 鬼の復活


 牡丹ぼたんの唇が、瑞香みづかのそれに。

 イーリスの唇が、遊楽ゆうらのそれに。


 触れかける距離まで近づき、ともに小さく、呟いた。

 同じ文言。このくにの言葉ではない。

 まったく同時に、寸分のずれもなく、それぞれの唇が動く。

 言葉は、祈りであり、新たな呪いでもあった。

 完全に同期した二つの声が、空間を超えて、世を侵食した。


 と。

 瑞香と遊楽、いずれも、どんと背を叩かれるように動いた。

 声を漏らす。


 「ぐあ……う」


 瑞香は背を仰け反らせる。

 遊楽も呻き、垂れていたくびを天井に向ける。

 送られる声も、苦悶の声も、まったく重なっている。


 言葉は休みなく紡がれた。

 生まれた音は、昏かった。

 昏い粒子として実体化し、どよりとした霧となり、あるいは流れて形象をとった。形象は文字なり紋章として、瑞香と遊楽の周囲を巡った。


 「が……はっ……」


 瑞香は、もがいた。赫い獣毛を生じた腕を振り、指を曲げ、空を掴むように突き上げる。牡丹は肘を瑞香の胸のうえにあて、抑え込む。が、瑞香の力が上回る。どん、どんと背を床に叩きつけるように、暴れる。顔を振る。

 振っている顔が、瑞香を離れつつあった。

 瞳の色は、朱を増した。

 縦に裂けて光を湛える。

 吐く息の香気はせ返るほどとなる。

 牡丹の頸を掴む。握りしめる。牡丹は顔を歪め、それでもひときわ強い声を出した。

 

 ゆらり。

 瑞香の姿が、霞んだ。

 わずかにずれた二つの影。

 瑞香と、鬼。

 残像のように、錯誤のように。

 影はどちらも咆哮をあげ、宙を掻き、牡丹の肩に爪をたてた。ざり、と削り取られる肉。強烈な痛みに、牡丹は声をたてずに絶叫し、それでも眉を逆立て、目を強く瞑り、祈るように、削るように詠唱を続けた。


 「……分離が始まりました」


 教会の堂内で、儀式用の外衣の男が顔をあげ、声を出した。

 意識を失いながらも苦悶し、震える男の頬に手をあてながら、イーリスは振り向きもせずに頷いた。小さく謳うように詠唱を続けている。

 

 「その男、遊楽の支配を逃れたと思われます。あとは憑依体との霊的分離……」


 言葉の中途で、イーリスの詠唱がほんのわずかに揺らいだことを感知したから、男は口をつぐんだ。上官の不機嫌の兆候が、どういう現象となって現れるかを彼はよく知っていたのである。

 云われるまでもなく、イーリスも、遠く離れた鬼灯亭ほおずきていの様子を捉えている。


 作戦ストラツェーギャ花泥棒ヴォール ツヴィトーヴ。推移は順調といえた。

 イーリスが与えた力、最新の呪的研究の成果である呪禁の言葉を牡丹は精確せいかくに詠唱している。遠隔からイーリスたちが注ぎ込み続けている力が、瑞香の肉体から悪鬼、りるるの霊体を分離しつつある。

 同時に、りるると契約し、その存在を此岸このよに紐づけている遊楽に干渉し、その契約自体を霊的に破棄させる。破棄の方法は、力づく、である。その行為には凄まじい痛みを伴うことを、イーリスはっている。魂持きもちの弱い人間であれば、生命を失うこともあるとも、理解している。


 が、遊楽は耐えている。

 意識を失いながら、イーリスが送り込む言葉をく吸収している。

 数分以内にりるるは半実体化して瑞香から離れ、即時に至近の肉体、すなわち牡丹に取り込まれるはずだった。


 それでも、イーリスは消せない。

 最前からの違和感の根を、どうしても掴めない。

 

 遊楽の伏せた瞳を覗き込む。薄く開いている。が、光はない。意識を喪失している。イーリスは軽く首を振り、詠唱の声を強めた。


 その時。


 「大佐ポルコーヴニク! 」


 悲鳴のような声に、イーリスは振り向いた。

 壇の下、半円に居並ぶ男たちのひとりが、喉に手を当てている。驚愕したような表情。目を見開き、がくがくと震え、やがて蒼白となった表情を凍り付かせて、倒れた。

 喉には、噛み跡。獣の牙だった。

 周囲の男が走り寄ろうとして、同じように喉を、あるいは胸を抑えて、膝をつく。


 「畜生チョルト ヴァジミー防御ザッシータ!」


 イーリスは鋭く命じ、祭壇の上部から飛び降りようとして、硬直した。

 神の教えは、神の力は、あらゆる摂理を包括すると、彼女は教育されてきた。それは真実のひとつに違いなかった。

 だが、摂理のそと。埒外の、外道げどう

 その言葉が空虚な概念ではないことを、イーリスは学習した。


 鬼は、居るのではない。

 すべてが鬼の影であり、鬼は、すべての背にあった。


 右の耳の、すぐ横。

 呼吸音は聴こえない。

 物音すらたてない。

 頬に、わずかに触れるものがある。

 振り向けば、おそらく確認できたはずである。

 熾火おこしびのような昏い炎を纏い、縦に裂けた獣の瞳が彼女を覗き込んでいることを。牙の間からぬるりと差し出された舌が、彼女の頬に触れていることを。

 その瞳に映った存在が、数刻後には肉体を失う運命であることを。

 

 イーリスは防御の手印を組もうとして、失敗した。

 自分の魂がすでに生存を諦めていることを、その事実をもって知覚した。


 鬼灯亭ほおずきてい

 牡丹の頸に、鬼の指がかかっている。

 姿勢が逆転している。上になった鬼、瑞香は、薄い二枚の紙に描いた姿を重ねるように、時折り揺れ、ずれている。

 牡丹の詠唱は止まっている。呼吸が困難となっているためだ。


 薄暗い。室内に差し込む陽光が途絶えている。

 離れた場所から観察するものがあったとすれば、鬼灯亭を中心に、この街の広い範囲を昏い霧が覆いつつあることに気がついただろう。

 霧は、大きくなってゆく。

 そこから、ぽとりぽとりと落ちるように、あるいは、茂みから、物陰から、墓場から、立ち上がるように。無数の影が湧いてゆく。

 影は、通りをゆくものに縋りついた。家に這入りこみ、気づかれぬように首を齧った。逃げるものを追い、なぶった。


 鬼とともに封印された怪異ばけものたちが、鬼とともに蘇った。

 怪異は、悲鳴と絶叫を副食として、絶望を喰った。

 飽食までは長大な時間を要するはずだった。

 そのことと、世の終焉と。

 いずれが早いのかを、判断できるものは存在していない。


 「……な……さ、い」


 わずかに漏れ出る息に載せ、牡丹が声を絞り出した。


 「ごめ……な、さ、い……やっぱり、わたしじゃ、だめ、だった……」


 鬼は、反応しない。

 牡丹の目に、涙が浮かんだ。


 「みづか、さん……こんなめに、あわせて。やっぱり、おやかたさまの、おっしゃる……とおり……ばかだ、わたし……ね、みづ、か、さん……」


 鬼の腕を抑えていた腕を解き、伸ばす。鬼の、瑞香の頬に触れる。


 「わたし、たべ、て……ふう、じる、つれてく、わたしも、はなかんなぎ……ゆうらせんせいに、できるのなら、わたし、だって……」


 云い、顔を逸らし、頸を晒した。

 白い肌に浮く血の筋に、鬼は吸い寄せられるように顔を寄せた。


 「……みづか、さん……わた、し……わたし、ね、みづかさんの、こと……」


 牙が突き立てられる寸前、牡丹は微笑んだ。

 目を閉じる。

 閉じたために、溜めていた涙がぽろと落ちた。


 と。

 情景が、破裂した。


 すべてが、白。

 光であるのか、喪失であるのか。

 

 無限に続く白のなかで、遊楽が鬼の腕を取っている。

 鬼はもがき、腕を振る。が、遊楽がまさっている。膂力なのか、別の力が働くのか。鬼の腕を取ったまま、ぶんと投げ、転がした。

 すぐさまに反発し、鬼は爪を突き出す。それも遊楽はかわした。躱して、肘を打ち込む。鬼は首筋を打たれ、それでもよろめきながら拳を遊楽に送った。複数の打撃を、遊楽は、今度は避けない。が、命中もしない。

 遊楽の薄く透けた身体を、鬼の爪は通過した。


 「……と、いうわけだ」


 遊楽は、笑ってみせた。

 傷だらけで半身を起こしている牡丹にとって、そうした遊楽の笑顔は、ほとんど初めて見るものであった。


 「……せん、せい……」

 「遅くなったな」


 声は、遊楽の口から出ているはずである。が、すべての方向から、牡丹の耳に届いた。震えるような、風にそよぐ樹々の葉のささやきのような。

 柔らかな音が、牡丹に浸透した。


 「努力したことは認める。瑞香君を、よくぞここまで止めてくれた。まあ、もっとも、あの菖蒲あやめの花神巫の力を借りたのでもあろうがな」

 「……あ……」

 「だがな、俺の仕事は、譲れん」


 再び、鬼の拳が遊楽の頬を打とうとする。打撃は再び彼の身体をすり抜けた。慣性のままに遊楽に向かう。鬼が自らの身体を透過しようとするとき、遊楽は両の手のひらをあげて見せた。

 ぶん、という音。

 鬼の身体を蒼に輝く鞭が縛っている。

 転倒しようとする鬼は、遊楽の手の動きに合わせ、中空に浮いた。


 もがく、鬼。

 だが遊楽の視線は、牡丹の横にある。

 う、と声を出し、横たわったまま薄く目を開いた瑞香を、遊楽は愛おしげに見下ろしている。


 「……瑞香君を、頼むぞ」


 小さく呟くような声は、それでも牡丹に届いていた。



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