第27話 儀式


 目は開いている、はず。

 瑞香みづかはそう考えている。


 なのに、見えない。

 薄い光だけを感じる。

 その光のなかで、なにかが動いている。

 それと、声。

 苦しげな声が、絶え間なく聴こえている。

 意識の粒子がひとつところに戻るにつれて、声の主を確かめたいという気持ちがつよく興ってきた。


 もがき、うめいて、身を捩る。

 やがてゆっくりと情景が鮮明になってきた。


 誰かの、あるいは何かの、背。

 瑞香の目の前、視野のほとんどを埋めているのは、赫く燃える背だった。

 燃える背を持つなにかが、絶叫していた。


 ひとではない。

 叫ぶたびに、二本の尾が激しく振られ、地を叩く。

 肌と同じ、いや、さらに強く昏い緋を纏って、その背に長い髪が暴れている。

 瑞香の視線に気づいたか、それはふいに動きをとめて、振り向いた。

 裂けた口端には、長い牙。

 見下ろす瞳は、獣のそれだった。


 瑞香を捉えて、獣は、大きく目を見開いた。腕を伸ばす。瑞香は逃れようとしたが、動けない。動けないのは、自分が獣の影だったからである。

 

 爪が刺さる。ぐしゃりと、潰される。潰されて、獣の口へ運ばれながら、影である瑞香は奇妙なことに、安堵を感じている。痛みはない。恐怖も、諦めすらもない。ただ、ただ、静かに。

 獣の一部に戻る自分を、瑞香は、静かに眺めている。


 と。

 白い光の世界が、割れた。

 衝撃と轟音が静寂に取って替わった。

 それと、呼び声。


 「……瑞香さん!」


 ぼんやりとした視界。

 薄く開けた目に、牡丹ぼたんが映っている。

 膝に頭を載せられ、いま、瑞香は横たえられていた。


 「……牡丹……さ、ん」


 少しずつ周囲の情景が見えてくる。

 破壊された設備、散乱した調度、壁が崩れている。そうして、だらりと力なく床に置かれている自分の腕は、赫かった。

 獣毛で覆われた腕。力をいれれば、長い爪が硝子の擦り合うような音をたてる。

 牡丹の顔に目を戻す。泣き顔。その頬に、あるいは首筋に、いくつもの傷が開いている。血が流れている。

 ようやく意識の焦点が合い、瑞香は跳ね起きようとし、失敗した。首より下が動かせない。戸惑う瑞香に、牡丹は微笑を浮かべてみせた。


 「ごめんね。いま、縛らせてもらってる。わたしの力で」

 「……え」

 「こうでもしないと、止められなかった。わたし、元々あんまりつよくないからさ。新しい力、菖蒲あやめから貰ったけれど、それでも……痛いところ、ない?」


 そう問いかける牡丹の息こそ、なかば苦悶に近く、荒い。痛みを堪えるように眉根を寄せている。

 瑞香はしばらく呆然とその顔を眺めて、はっと気がつき、顔だけを周囲に振り向けた。


 「あの、柳太郎さん、怪我、してます。急に襲ってきた、怖いものと、闘って……」

 「……ああ、大丈夫。傷は深くなかった。手当はしたよ。あいつも頑張ったんだね」


 そう云い、牡丹は瑞香の向こうに転がっている柳太郎を見遣った。が、ふいに、背を突かれたような顔で宙を見る。

 誰に云うともなく声を出す。眉を寄せ、怒りを浮かべる。声に、けんが乗る。


 「……違う。見てたんでしょ。柳太郎は、あんたたちが放ったあやかしにやられた。そこまでする必要はなかったのに……それは、確認した。もう居ない。残ってない。ぜんぶ、瑞香さんが……りるるが」


 そこまで云い、牡丹は瑞香に視線を戻した。

 慈しむような、哀しげな表情を浮かべて、右手の指を瑞香の前髪に通した。


 「……心配、しないで。なにもかも上手く行く」


 同じ時刻。

 遊楽ゆうらが宗教的主題の彫刻のように、両手をあげて壁に射止められた、その教会の堂内。


 「大佐ポルコーヴニク

 「聴いた。初撃しょては全滅したようだな」

 「……信じられません。我らが放った異現体ばけものども、中級以上の戦闘能力を持つものばかりです。悪鬼りるるが追い詰められたところで、あの牡丹ピオンの能力者が救う手筈だったのに」


 イーリスの傍で、なにかと会話するかのように耳に手のひらを当てていた男が首を振った。


 「それだけの怨霊のろいだったのだろう。遊楽の云うことも一理あったな。が、案ずるな。攻め立てて、悪鬼を……りるるを引き出す。そのことは達した。最後は我らが上回る。神の栄光を」

 「か、神の栄光を」


 彼女と同じ紺の儀式用外衣の男は、慌てて胸に手を当て、言葉を返した。

 イーリスは男を見ずに、祭壇の上部に縫い付けられている遊楽を振り仰いだ。しばらくの間、なにかを思うように見つめていたが、やがて目を伏せた。

 首を振り、なにもない空間に話しかける。


 「……始めるぞ、牡丹ピオン。用意は」


 鬼灯亭ほおずきてい

 牡丹は、ち、と舌打ちをした。

 なんの音もない宙を見ている。


 「そんな名前じゃない。わたしは、牡丹ぼたん。そう呼びなさい」

 『では、ぼたん。手筈どおりに』

 「……それより、約束は遵守まもられるんでしょうね」

 『……ああ』

 「瑞香さんの生命は、救ける。そして、りるるは……沈丁花のあやかしは、わたしが貰う。わたしが、飼う。忘れないでよ」

 『……理解わかっている』

 

 牡丹は声を打ち消すように頭を振った。

 瑞香の頬に、手のひらを当てる。

 頸から耳のあたりまで、赫い。口元から小さな牙が覗いていることに、瑞香じしんは気づいていないようだった。

 薄く発光している瞳を、不安げに牡丹に向ける。

 

 「……大丈夫。安心して。わたしに、任せて」

 「……遊楽、先生は……」

 「うん、別のところにいる。心配ないよ」

 「……牡丹さん、怪我……もしかして、わたし、が」


 牡丹は応えず、瑞香の額に手を載せた。

 瞼にやわらかく当てられる手のひらの温度を感じながら、瑞香は目を瞑った。


 「見なくていいの。もうすぐだから」

 「……なに、が」

 「瑞香さんも、先生も。自由になるんだよ。もう、嫌な目には遭わない」

 「……そう、なの……?」

 「うん」


 牡丹は小さく呟いたが、瑞香に視線を置いておくことができず、逸らした。

 と。


 『牡丹』


 呼びかけの声。

 返すことなく、牡丹はいちど目を瞑り、俯いて、祈るような仕草をみせた。瑞香はもちろん、それを見ていない。

 瑞香の額に置いた左の手のひらをそのままに、肘で身体を支えて、牡丹は胸を重ねるように瑞香に寄った。


 「……瑞香さん」


 小さく、呼びかける。

 瑞香は口を薄く開いたが、声を出さない。

 その唇に、牡丹は顔を寄せた。


 教会の堂内。

 儀式用の外衣マントに身を包んだ男たちが半円を描くように並んでいる。いずれの指も複雑に組み合わされ、身体の前に掲げられている。

 囲んでいるのは、祭壇。

 祭壇の上部には遊楽が縫い付けられている。

 両手を広げ、足を交差させ、丁字のかたちに射止められている。

 首が垂れている。意識の有無は判然としないが、動かない。


 いつ点灯したものか、数本の蝋燭が祭壇に添えられている。そして、香。つよい香りを発する香皿が炙られ、堂内を急速に菖蒲あやめの色に染めている。

 

 「……大佐ポルコーヴニク


 蝋燭の揺れる灯りに照らされる端正の顔を、イーリスは祭壇に向け、放心したように立っている。その背に男が近寄り、遠慮がちに声をかけた。


 「整いました」

 「……ああ」


 イーリスの瞳が揺れているのは、そこに映る蝋燭の炎が空気の流れに踊るためである。が、表象しているものは必ずしも物理法則に限らない。

 ふっと息を吸い込み、ごく小さく細く、吐き出す。

 顔を動かさないまま、背後の男に問いかけた。


 「……わたしは、誤っているか」

 「……いいえ」

 「わたしは、摂理を犯そうとしているのか」

 「摂理は、常に大佐と……我々と、ともにあります」

 「……そうだな」


 数泊置いて、イーリスは踏み出した。祭壇に向かう。その横手に設えられている段をゆっくりと上がる。

 祭壇の下では男たちの詠唱が始まった。低く昏い声が聖堂の空気を微かに震わせる。


 間近で見る遊楽の頬は、青白かった。

 頬に指を這わせる。

 乾いた血が飛んでいることに気づき、こりと、爪で掻く。

 そのまま手のひらを顎に当てる。

 持ち上げ、自分に向ける。


 遊楽の唇に自分のそれを重ねる直前。

 イーリスは小さく、許せ、と、呟いた。


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