沈丁花は碧血を所望する〜神憑き文士の飼われあやかし〜

壱単位

プロローグ 瑞香と、りるる


 女の目は虚ろに空を見上げている。


 背の高い草の陰で身体を横たえている。 

 そよと吹いた風が、彼女の前髪と周囲の草を揺らした。

 春の夜は穏やかに濃度を増しつつある。温かな空気は芽吹きはじめた花々の香りを微かに運んでいる。


 帝都に接するとはいえ、いまだ瓦斯がす灯のひとつもない小さな町である。そのはずれ、木立に囲まれた小径こみちだから、揺れた枝の隙間からときおり照らす月明かりに依ったとしても、彼女の心臓がすでに停止していることを判別するのは困難だったはずである。


 緋色のかすりの上質な着物は、襟元がおおきく開いている。

 夜目にも白いそのくびに、いく筋かの暗い色。

 流れた血液が下草を濡らしている。


 傍に人影がある。

 六尺二メートルほど離れたあたり、小径のうえに、立っている。

 小柄な老婆だった。薄鼠色の着物と肩掛け。杖をついている。穏やかな表情。わずかに微笑みすら浮かべている。横たわる女に気づいているとも思えない。


 奇妙なことは三つある。

 骸の横に立っていること。

 先ほどから微動だにしないこと。

 そうして、月明かりを受けて、影をつくらないこと。


 老婆は、待っている。


 「……わあ」


 琴丹ことに 瑞香みづかは、げんなり、という形容が似つかわしい声をあげ、嘆息した。

 小径を歩いてきた彼らは、角を曲がったところでこの光景に出会でくわしたのである。

 斜め前を歩く、黒の二枚外套インバネスコートの男の背に、瑞香は消沈した声をかけた。


 「なんかいます」

 「いるな」


 男は短く返した。振り返りもしない。


 「戻りましょう」

 「遠回りになる。この道がいちばん早い」

 「……あれ、道に立ってます」

 「立っている」

 「そのまま通してくれるとは思えません」

 「だろうな」

 「……遊楽ゆうら先生」


 瑞香は立ち止まった。

 男、綺燐堂きりんどう 遊楽も足を止め、振り返る。

 端正な色白の頬が月明かりに浮かんでいる。雑に散らした前髪の隙間から瑞香を不思議そうに見つめている。

 瑞香は、傍の包みをぎゅっと胸に抱えて、憤然と声を出した。


 「今日こそわたし、この町の同人の皆さまにご紹介いただけるんですよね」

 「……その予定だが」

 「ずっと楽しみにしてたのに、もう三回、潰れてます。ぜんぶ、お役目です。集まりが夜半だから仕様しようがないけど」

 「俺の責任せいではない」

 「わかってます知ってます、だからせめて、お役目じゃないときくらい……あんなの相手にしてたら、集まり、遅刻します」


 と、遊楽が動いた。

 道の向こうを見やり、目線を瑞香に戻す。


 「残念だが、向こうさんが俺たちに用があるみたいだな」

 

 瑞香は遊楽の背越しに道の向こうを見て、きわめて深い息を吐いた。

 老婆は、こちらをじっと見ていた。


 「あああ。ほらあ、早く戻らないから……きゃっ」


 ぶん、と、空気が歪むような音。

 遊楽が外套を翻し、振り返りざまに左腕を振り上げた。

 その指先にはなんらかの紙片。

 紙片は、薄く発光していた。


 老婆は、紙片を中心として形成された燐光の壁に張り付くように、中空に静止していた。十間十八メートルの距離をひといきに跳躍したようだった。

 獣の顎のような形に曲げられた指が壁を破ろうとしてうごめいている。

 黒く落ち窪んだ両の目。大きく開けられた口には、長い犬歯が見えている。


 遊楽は瑞香のほうへ振り返り、眉尻を下げてみせた。


 「ほら。早く仕給したまえ」

 「……嫌です。着物が汚れます」

 「かまわぬ」

 「わたしがかまうんです! これから文士の皆さまにご挨拶するんですよ! せっかくい帯してきてるのに」

 「脱げばよかろう」

 「……は」


 と、老婆の爪が結界を破った。光の膜を喰らうように頭を振り、遊楽へ掴みかかる。腕が届こうとする刹那、遊楽はなんらかの手印を組んだ。老婆の身体は吹き飛ばされ、木立のなかへ転がった。


 「そら。俺の力では遠ざけるのが精一杯だ。奴はしつこいぞ。一晩、ここで相手することになるぞ。いいのか」

 「……だから、戻りましょうって、云ったのに……」

 「君が速やかに仕事を済ませればよいだけのことだ」

 「……絶対、載せてくださいね、文芸誌。わたしの新作」

 「さあ、それは同志諸君に訊ねてみなくては」

 「あああ! 載せるって云うんですそういうときは! ほら! 視界妨げてくださいよ誰も這入はいって来ないように」

 「こんな夜更けに誰も来ぬ」


 瑞香が上目にっと睨む。遊楽はふと息を吐いて、肩をすくめた。指先で模様を描く。周囲の暗さに、重量が加わる。月明かりが失せる。

 これで彼らは、誰の目にも触れない。

 瑞香は再び嘆息し、帯に手をかけた。袖を落とす。襦袢を外す。

 月明かりの下に、瑞香の薄く細い肢体が白く浮かび上がっている。

 

 遊楽が歩み寄る。

 瑞香は身体を斜めにし、屈みながら、恨むような視線を遊楽に向ける。

 だが、その瞳にわずかな期待の色が浮かんでいることを、男は知っている。

 遊楽の瞳も、輝いた。輝くのは、銀に、である。

 銀の光を宿した瞳が、縦に裂ける。

 先ほどまでの洒脱な印象の表情が失せている。

 瑞香は、震えた。いくど見ても慣れぬ、遊楽の本性。

 

 遊楽は、自らの小指を咥えた。

 先端の皮膚を喰い破る。

 血が滴り落ちる。

 遊楽の白い手首に紅い線が描かれる。

 その指を、遊楽は、瑞香の顔に近づけた。

 瑞香は本能的に顔を背け、しかし、ゆっくりと向き直った。

 その小さな唇が薄く開けられている。

 隙間に、遊楽の指が、差し込まれた。


 どくん。

 瑞香の背が、る。


 「……あ……あっ……!」


 胸を抱える。背を丸める。

 しゃがみ込み、地に膝をつく。

 震え。目を見開く。怯えるような、痛みに耐えるような表情。

 遊楽はその様子を側で見下ろしている。

 紅を引いたような薄い唇が、愉悦に歪められている。


 その時。

 空気を裂くような音。

 老婆が再び跳躍した。

 鉤爪を突き出し、遊楽に迫る。

 

 鉤爪は、しかし、届かない。

 遊楽の前に立った影がその牙で受け止めたためである。

 ごり、という鈍い音を残して、爪は、噛み砕かれた。

 老婆が飛び退る。


 影は、女だった。

 長い尾を振っている。

 天を指して立つ耳とその尾とが、静かに発光している。

 遊楽と同じに縦に裂けた瞳に、蒼の炎を宿している。

 

 「……あたしの男に、手ぇ、出すんじゃねえ」


 ぷっと爪の残骸を吐き出して、女は、謳うように声を出した。いかにも気持ち良さげに両手を広げ、伸びをする。女の各部の寸法は、瑞香とは、あらゆる意味で適合あわなかった。


 老婆が低く唸った。

 同時にその背が割れ、いく本かの枯れ木のような腕が伸びた。

 いずれも長い鉤爪を有している。


 「……うげ。気色わりぃな」


 女は鼻の上に皺をつくり、顔を顰めてみせた。

 と、その背から遊楽が声をかける。


 「りるる。あまり時間がない。急げ」


 女、りるるは不満げに振り返った。


 「なんだよ先生、そう、くこたぁねえよ。せっかくこの姿になれたんだ。ゆるりと愉しみたいじゃないか」

 「急ぐと云ったのは君だ」

 「あたしじゃねぇよ、瑞香だよ……ま、いいや。ね、仕遂しとげたらさ、今夜さ、すこうしだけ、齧らせとくれよ。あんたの、くび。ね、いだろう。そこの茂みでさ」


 遊楽の細い顎に指を這わせ、口に長い爪をかける。頬を寄せ、耳朶をあまく噛む。遊楽は、嘆息した。


 「……好きにしろ」


 言葉が終わらぬうちに、風が立った。

 りるるの体躯は天にある。

 巨大な月を背景に、さかしまに跳んでいる。


 老婆だった怪物の上に、りるるが降る。

 怪物は上を向き、すべての腕を鋭く突き出す。

 殺到した爪はりるるを捉えられない。

 腕の間を縫って背に立ち、腕を振り上げ、打ち下ろす。

 怪物は身体を捻って逃れ、反転した。

 りるるも地を蹴る。

 影が交錯した。

 なにかが転がった。

 怪物の、首。

 胴体が、どうと斃れると同時に、首も身体も、しゅうと蒸発した。


 「……さ、約束だよ」


 いつの間にか、遊楽の後ろに、りるるが立っている。

 男の胴に左腕を廻す。

 右腕が、顎を捉える。

 振り向かせ、傾け、喉に牙を当てる。


 と、遊楽がなにかを呟いた。

 懐でなにかが発光したようだった。

 どさり、と、遊楽の背で音がする。


 彼は振り返り、意識を失って倒れている瑞香のそばに膝を立て、その耳元に口を近づけた。

 

 「遅れるぞ、瑞香先生」

 

 そうして、思いついたように、耳朶を噛んだ。

 おそらく報復なのだろう。


 

 

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