第12話 奪ってお呉れ


 ぼうと立つ瑞香みづかの背に廻る。

 遊楽ゆうらはその背に胸をつけ、左の手のひらを彼女の腹のあたりに置く。右腕をゆっくり、前に送る。

 ゆらりと持ち上げ、指を出し、その先端を瑞香の口に当てた。

 

 「……血、だ」


 遊楽は誰に聴かせるでもなく、ひとりごちている。遠くを見るような表情。その瞳は銀に染まり、縦に裂けている。瑞香の背で、その銀は薄く光り、宵闇に浮いている。指先が瑞香の唇に沿って動く。

 

 「血で、縛る。言葉で呼び、肉を以って、契約ちぎる。沈丁花の本質は、不滅。滅することのできぬ、消失することの許されぬ永劫の煉獄を、わかち、共にする。互いにな。ゆえに沈丁花の力は、能力ではない。これは……」


 瑞香の背が、どくんと、揺れる。伏せられていた目が見開かれる。震えはじめる。口元が薄くひらいた。細く送り出した息には、すでに濃厚な花の香りが宿っている。

 遊楽は両手で、瑞香の胴を抱いた。


 「呪いだ。魂を喰らい、喰らわせ、冥土の深奥しんおうで互いの喉を齧り切る。果てぬ道行きのその果てまで、この血は、結ぶ」


 瑞香の身体が激しく揺れる。遊楽は背後から抑えて転倒を許さない。屈み、仰け反り、頭を抑え、声を出す。出す声は、ただ、苦悶ではない。啜り泣くような、しかしどこか甘い声を細く送りながら、瑞香は、ひときわ激しく身を捩らせた。

 

 柳太郎りゅうたろう牡丹ぼたんも、動けない。

 瑞香の全身が淡く蒼く燐光を帯びつつあるのを、微動だにせず見つめている。


 燐光が輝きを増す。遊楽は、離れた。

 瑞香はかがみ込み、胸を抑える。はあ、はあ、と激しく背を上下させる。

 と、ふいにその全身を鋭く強い蒼の光がみたして、すぐに失せた。

 失せた場所には、誰もいない。


 柳太郎の頬に、ぬるりと、なにかが触れた。

 濡れた頬を抑え、振り返る。

 縦に裂けた蒼の瞳が、嗜虐の悦びを湛え、彼の鼻先で光っていた。長い舌がちろりと燃えている。唾液すら、倫理にもとる芳香をはっした。


 「……ひ」

 「可愛いじゃないか」

 

 着物が、地に落ちている。自ら脱いだのか、過程において、落ちたのか。

 いずれにしても、りるるの胸元でその存在を強く主張するものが、いま、柳太郎の背に押し付けられている。

 りるるは腰を落とし、柳太郎の脇の下から両手を入れ、右で左の、左で右の頬を艶かしく撫でている。鋭い爪が、かり、と、頬の皮膚を傷つける。

 

 「坊や。ねえ、あたしのこと、飼ってれんのかぃ」

 「……あ……う」


 耳元に吹き付けられる呼気は、熱く重く、そして精神の平衡を失わしめるに十分な濃度を以って、少年を縛った。


 「ああ。嬉しいじゃないか。こんなきれいな子が、あたしを使役つかって呉れるなんてさあ。尽くすよ。あんたがあるじなら、あたしはなんだってする」

 「……」

 「ね、誰を殺せばいい。この街を焼こうか。それとも鬼を喰おうか。や、いい。そんなじゃないねぇ。坊やはさぁ、あたしが流す血、見たいんだろう。そんな匂いだよ。さ、そうら……」


 云いながら、首筋を柳太郎の横に差し出す。虚偽うそのように透明な肌を、柳太郎は見ることを畏れた。


 「ね。命じてお呉れよ。手前てめえくびを、手前で掻き切れって、さ……ああ。堪らない。さあ。ほうら。ああ、でも、やっぱりあんたが齧り破っておくれよ。そら、ここに太い血の筋がある。少し歯を立てて、思い切り。ねぇ、あたしの血、どんな匂いがするんだろうねえ。どれだけ飛ぶのだろうねえ。あああ、こらえきれないよ。ね、ほうら、早く」


 りるるの手が柳太郎の着物の合わせ目を割る。

 手を差し入れ、その手が、下方へ移動する。袴の紐の内側に入る。

 ぽろりと、柳太郎は涙をこぼした。

 うめいて身を捩り、りるるの腕から逃れ、飛び退った。

 たたと走り、転び、尻餅をついた。前に手をかざし、上擦った声を出す。


 「……わかった、わかりました、ごめんなさい、降参、降参です……!」

 「……なんだよ。詰まらないねぇ」


 りるるは立ち上がり、わずかな灯りを受けて輝く膨大な肢体を、惜しげもなく薄い雨の下に晒している。尖った耳が天を指している。長い尾は機嫌よさげに、ふわりと左右に振られている。

 肩を、自らで、ぺろりと舐めた。ゆっくりと柳太郎に歩み寄る。柳太郎は、尻で移動した。ずりりと、迅速に後方へ逃れた。


 「逃げることないじゃないか。つれない男だよ」

 「……遊楽さん、もう、いい、わかったから、止めて、止めて……!」

 「俺はなにもしていない」


 腕組みをして愉しげな表情を浮かべ、くつくつと笑いながら、遊楽は突き放すように声を出した。

 

 「いいじゃないか。噛み切ってやれよ、くび。千年間、誰も奪えなかった沈丁花の生命だ。君、神話になれるぞ」

 「で、できるわけ……」

 「男は度胸だ」


 くしゃりと顔を歪めた柳太郎の背に、りるるがいる。移動の気配もなかった。振り返ることもできずに硬直する柳太郎の襟口を、りるるは掴んで、引き上げた。少年の体躯とはいえ、十貫目三十八キロ以上はあるだろう。が、それを指先で、鼻の前まで持ち上げた。

 柳太郎は、浮きながら、手足を痙攣ひきつけのように細かく震わせている。

 頬に溢れた涙を、りるるは長い舌でもういちど掬い取り、ふいに興味を失ったか、手を離した。尻から地に落ち、柳太郎は両手を使ってぱたたと逃げた。


 「なんだい。ちょっとい若いと思ったのにさ。意気地いくじの無い」

 「りるる。子供にはちと、刺激が強い」


 遊楽はりるるに手を伸ばす。こちらに来い、というように、手のひらを上にする。りるるはゆったりと歩み寄り、遊楽の両腕の内側に収まった。男の首筋に唇を軽くあて、くっと歯を立ててから、りるるは地面に転がる少年に流し目を送った。


 「待ってるからねぇ。いつか、この男から奪ってお呉れ。あたしをさあ」

 「……椿つばき


 遊楽はりるるを腕におさめながら、温度のない声を柳太郎に投げた。


 「用事があったのだろう。わざわざ瑞香くんにちょっかいを出しに来たとも思えん。使いか。誰だ」

 「……わかってんなら、はやく止めてよ……」


 柳太郎は手の甲で頬をぐいと拭き、着物の前をあわせて立ち上がった。ぽんぽんと尻をはたき、今更ながらにふんと胸を張る。


 「おやかたさまだよ。ご指名だってさ、沈丁花さんに」

 「……何かあったのか」

 「聞いてない。でも、なんとなく想像はつく」

 「なんだ」

 「わかんないの? 偶には顔だしなよ、おやかたさまのとこ。ねえ、牡丹さん」


 横に立つ牡丹のほうへ目を遣る。が、返事はない。

 牡丹は、胸に手を当て、目を潤ませ、機能を停止していた。

 その目は、りるるの上にある。

 

 「……牡丹さん?」

 

 柳太郎が目の前で手を振るが、牡丹の目には映っていない。おそらく、遊楽も、背景も、見えていない。

 さかまき、薄く発光する蒼の髪と、同じ色の瞳。狐を連想させる尖った耳と、豊かに獣毛を蓄えた長い尾を持つ女から、牡丹は、視線を外せないでいる。動悸を抑えられずにいる。動けば、膝から崩れる思いでいる。

 柳太郎は遊楽に視線を移すが、遊楽も、肩をすくめた。


 「……最近、おかしいんだ。感じてるでしょ、遊楽さんも」

 「怪異もののけのことか」

 「そう。月だったり潮だったり、あいつらの行動はそういうのと連動してるはずでしょ。でもここしばらく、そんなのお構いなしに現れてる。おまけに、どいつもこいつも凶暴で」

 「ああ」

 「ひとに化けてる奴のなかには、僕ら……というか、遊楽さんの真似しているのも居るらしいよ。病人をあやかしに変じて、命を救ってやる、とか云って、騙して喰うらしい」

 

 遊楽は、胸元のりるるの顔を見た。気持ちよさそうに遊楽の首元に頬を当て、目を閉じている。ふるる、ふるる、と、喉が鳴っている。


 「……ああ。これも、その口だ」

 「え」

 「瑞香くんは病を得ていてな。冬まで保たんと云うことで、父御が怪しげな術者を呼び込んだのだ。それが、下衆な怪異だった」

 「……それを遊楽さんが、偶々たまたまたすけて、所有したがえた、ってこと?」

 「……いや」


 遊楽は、りるるの髪に指を入れ、くしけずった。


 「偶々、では、ない」


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