第15話 永い時間
目をあけた。
なにも見えない。
が、すぐに視界が開けた。
相手が顔を、離したからだ。
室内が薄暗い。
行燈のほのかな明かりが、いま、瑞香に覆い被さる人影の長い髪を染めている。染める色は、銀。純白を超えて透明と評すべき髪は、およそ十四か五ほどと思われる少女の背に、肩に、あるいは瑞香の顔の上にもいく筋か踊っている。
「……くふ。思わぬ
少女は背を起こした。左の小指で、艶やかな紅の置かれた下唇をそろりと撫でる。細く開けられた形の良い口が、彼女の小さく白い顔のなかで、切れ長の大ぶりの目とともに異様ともいえる存在感を示している。
髪と同じ色の眉を愉快そうに撓めて、少女は、周囲を見まわした。
「いやはや、しかし、派手にやってしもうたの。壊れた調度の
「……申し訳もございません」
瑞香が顔を横に向けると、遊楽が大きく息を吐き、どすんと床に胡座を組むところだった。
その向こうでは腹を押さえた
少女が瑞香に手を伸ばした。大仰とも見える金銀の
「大事は無いかの」
「……は……は、い……」
半身を起こした瑞香が捉えたのは、転がった脇息、裂けた襖、朱色の梁のひとつが折れ、ぷらりと垂れている。振り返れば、下女たち数人が、不安げに廊下から室内を覗き込んでいる。
その下女らに、少女は手を振って遠ざけた。そうして瑞香の頬に両手をあて、改めて瞳を覗き込んだ。
「覚えておらぬか」
「……は、い……」
「そなたはの、
「え」
絶句する瑞香の顔を離し、少女はぽんと立ち上がって、腰に手をあてた。
「にゃはははは。大立ち回りじゃったぞ。止めようとした柳太郎も轟天丸も、あの有様よ。しかし愉しかった。あれだけ慌てる遊楽は初めて見たぞい」
「……恐れ入ります、おやかたさま」
「遊楽。その呼び方は止めいと云うた。可愛く無いのは嫌いじゃ。
少女、祢禰はふんと鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「まあ、已むを得まい。遊楽も正統じゃが、この
「……」
「ふ。じゃがまあ、
唇と云われ、瑞香が指を当てると、わずかな紅がついた。自身のものではない。
その様子を見下ろし、祢禰は艶然と微笑んだ。幼いと
と、振り返り、部屋の奥で呆然と座り込んでいる牡丹と柳太郎に声を出す。
「ほれ、柳太郎。そのあたり、片付けよ。せっかく久しぶりに遊楽が遊びに来てくれたのじゃ。膳とお
「は、はい」
柳太郎は腹を押さえながらぴょんと立ち上がり、転がっている調度を整えはじめた。目が時折り、瑞香の方を向く。怯えているようだった。
「それから、牡丹よ、支度部屋で着物をひと揃え、選んでおくれ。淡い
「……承知いたしました」
牡丹もふるんとひとつ、頭を振って、立ち上がった。落ちていた肩掛けを拾い、瑞香に歩み寄り、それをかけてやる。
「瑞香さん、立てそう? あっちで着物、選ぼう」
「……え、着物」
「だって、それじゃあ」
牡丹が目の遣りどころに困っていることに気がつき、瑞香は視線を落とした。かろうじて肩から布地が垂れているものの、もはや衣服の体裁をなしていない裂けた着物の隙間から、腹も脚も、胸元も覗いているのである。
悲鳴が小さく押さえられたのは上首尾であった。
支度部屋から戻ると、すでに膳が据えられていた。
奥に、祢禰。遊楽と柳太郎が右に並んでいる。左の膳の奥に牡丹が座ったが、瑞香は部屋に
祢禰は、苦笑しながら手を振った。
「瑞香、と申すそうだな。今宵は頼みがあって、儂が招いたのじゃ。楽にしてくれ。先ほどのことは、気にするな」
「……いえ……」
頭を上げようとしない瑞香に、祢禰は自ら立ち上がって歩み寄り、背をぽんぽんと叩いた。顔を近づける。甘い芳香を瑞香は感じた。その耳元で、囁く。
「……儂とそなたは、よう似ておるのだ。我が身に何が起こっておるのか、何故、このようなことになっておるのか。なにも解ってはおるまい。儂もそうじゃった。
「……」
「儂の名は、祢禰。主人がつけてくれた名じゃ。ほんとうの名は忘れてしもうた。もう、幾年経ったかもわからぬ。冬も春も、千度ほど越えたようには思うがの」
云いながら、瑞香の身を起こし、助けるように座に就かせる。就かせて、柳太郎の背を通りかかりながら、頭をぽんと打った。
「あとはそなたが説明せ、柳太郎。それから稚児の衣装、脱いで好いとは誰も云うておらぬぞ」
「へ、は、はい」
転がっていた冠を慌てて被りながら、柳太郎は座り直した。
やっぱり罰じゃねえか、と遊楽はちいさく呟いて、盃を舐めた。
「あ、お、おやかたさま、祢禰さまは、
「ちょっと、違うの。儂は花神巫でのうてな」
祢禰は盃を持ち上げながら、眉を少し持ち上げた。牡丹が徳利を差し出す。柳太郎はあわわと手を口に当て、咳き込むような仕草をした。
「し、失礼しました……祢禰さまは、最初の荊薔薇の花神巫、つまり帝から荊薔薇を授けられた武者の、あの、その……」
「なんじゃ」
「よ、宜しいので」
「にゃはは。
「ごほん、はい、ええと、あの、荊薔薇の武者が通った遊郭の、娼妓、すなわち遊女であらせられて、武者さまが身罷られる際に、すべての力を引き継がれ、そうして、その後ずっと、我ら花神巫の頭領として……」
「……なんと云うか、の。もそっと、情緒のある云い振りはできぬものか。牡丹」
とうとつに指名された牡丹は、口に運んだ卵焼きを喉に詰まらせた。どんと胸を叩いて、声を出す。
「んっ、は、はい、ええと……い、荊薔薇の武者は、生涯、妻を取りませんでした。掟により、
祢禰は、黙って聴いている。
「荊薔薇の力を、その女性に残そうとしたのです。自分の力のこと、そうして、報いとして、受け取ったものは永い時間を独りで生きてゆかねばならないこと。打ち明けられた女性は、それでも、頷きました。形見を身に残すことを選んだのです。ずっと時間が経ち、ときの帝がこれを知って、彼女を、花神巫の頭領に任じました。その方の名は、祢禰、と仰います……」
盃を膳にぽんと置き、祢禰は、ふうと伸びをした。
「不思議にの。あの頃の暮らしなどなにも覚えておらぬ。じゃが、主人の匂い、声、肌の心地。そうして、儂を見る、あの瞳の色。いまもそこにあるようじゃ……瑞香」
ふいに呼びかけられ、目元を押さえて、瑞香は顔をあげた。
いつくしみと、冷たさ。祢禰の声の色は、いまだ十八の瑞香には読み取ることのできない濃淡を帯びている。
「遊楽を、よう見よ。声を聴いておけ。後悔することのないようにの」
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