第30話 最後の条件
へたり込むように腰を落とす
が、殴られるような風圧がかかった。
必死に腕を上げ、顔を守る。
持ち上げた肘の間から、恐る恐る目を開く。
鬼が腕を打ち出すたび、
そのいずれも、だが、
構えていない。
鬼を前にして、瑞香は、強い風に蒼の髪を煽られながら、頭頂の尖った耳をわずかに揺らしながら、ふわりと立っている。
鬼の腕がその頬を捉えたように見えた。が、すでにいない。わずかに横で、退屈そうにちいさく息を吐いている。
叩き潰すように打ち落とされる右の拳。それを瑞香が避けると同時に左の打撃と右の膝がほとんど同時に飛ぶ。いずれも音の速度を超えている。
その鬼の、頭頂に。
脚を天に振り上げ、右の人差し指と中指の二本を鬼の頭に置いて、瑞香はさかしまに立っている。
「……もう、いいのかな?」
とん、と腕をつき、身体ひとつぶん高く跳んで、膝を丸めるように回転した。回転の勢いのまま、手刀を鬼の首元に打ち下ろす。
衝撃波は鬼の身体を貫通し、地を割った。数泊遅れて轟音。巻き起こされた風は牡丹を鞠のように吹き飛ばした。
空間を構成する白い霞が揺らぎ、濁った。
その濁りが収束したときには、鬼も、
ざあっ、と、大量の砂粒が流れるような音が響き、世界が反転した。
白い光が薄れ、見慣れた風景がゆっくりと浮かび上がってくる。
牡丹は、最前と同じ場所で腰を落としていた。
向こうには
間に、瑞香が立っている。
瑞香は、薄く蒼く光る瞳を柔らかく牡丹に向けて、長い尾をふわと持ち上げて見せた。
「……牡丹さん。ありがとう。護ろうとしてくれて」
牡丹は瑞香から目を離せないまま、ふるふると首を振った。文字通りに、あやかしを見たような表情。
「……あなたは、誰……?」
牡丹の問いに、瑞香はわずかに目を見開き、それから口を開けて、可笑しそうに笑った。長い銀の牙が覗く。
だが、その笑いは、牡丹が見慣れたものだった。
「あはは。大丈夫、噛みつきませんから……わたしは、ね」
そう云い、何かの音を聴いたように、ふいと表情を引き締めた。顔を上げる。遠くを見遣って、そのまま、呟いた。
「わたしは、りるる。わたしは瑞香。わたしは、わたし。牡丹さんが見たいわたしを、見てくれれば善い……それじゃ」
ちらと牡丹を見下ろし、口角を上げ、目を撓めた。
「
破壊された戸口にたっと走り、わずかに屈んで、踏み切った。
どん、と地を揺らして、蒼のあやかしの体躯が天にある。
刹那に。
周囲を覆う昏い霧のなかから腕が伸びた。
鬼と共に蘇った無数の
それを瑞香は、表情すら動かさずに祓う。
跳んだまま、くるりと回転し、蹴る。掴み、投げ、打ちつける。
放物線を描いて屋根にたんと降り立つと、怪異は左右から大波のように殺到する。
瑞香は、吼えた。
全身が薄く発光する。
両手を掲げ、掴みかかるように指を広げる。爪の先端がじじっと小さく爆ぜる。わずかに溜め、高く跳躍した。追い縋る怪異たち。中空で、腕を思い切り振り払う。瑞香を中心に迸った巨大な雷光が、上空における視野のほとんどを焼灼し、昏い霧を消失せしめた。
怪異を灼いた灰が降るなか、瑞香はとんと着地し、再び踏み切って
疾走の速度は計測できない。が、通過の数秒後に生じた衝撃波が、いくつかの建物に軽微の被害をもたらした。
目的地は、識っている。
遊楽の所在を瑞香が誤るはずがない。
どこに在ろうと、たとえ、世を隔てようとも。
先生。
小さく呟く瑞香は、跳躍した上空で、
同時にそこから湧き起こる、赫い影。
影は、鬼だった。
白い空間で倒したものと同じ鬼が大量に向かってくる。
それを視認した瑞香の表情は、歓喜と表現するには昏い悦びを含みすぎている。
着地する前に、すでに相手が跳んでいる。
瑞香は脚を閉じ、頭を下にしながら身体を捻って、回転力を生み出した。そのまま一体を片手で掴み、振り回して周囲の鬼を薙ぎ払った。払ったのち、腕だけとなった鬼を放り出して、瑞香は咆哮を上げた。
怯む鬼の群れに、瑞香は飛び込んだ。掴む。引きちぎり、膝を叩きつけ、喰い破る。愉悦に表情を歪ませながら、瑞香は鬼を彼岸へ還し続けた。
教会が目前に迫る。
追い
尖塔に立ち、振り返る。
両脇を締め、腕を引き、ふうと息を吐く。指先に光が灯る。
叩きつけるように手のひらを振るうと、轟音とともに雷光が走った。
雷光は鬼を灼き、尖塔の一部を崩壊させた。
生じた穴へ、瑞香は跳んだ。
薄暗い堂内。
半円の天井が衝撃音と共に崩壊した。
陽光が差し込む。
眩しい光を背負い、蒼い影がふわりと舞い降りた。
堂内の最奥の、祭壇の前。
瑞香は、自らが
巨大な色硝子に描かれた救世主の肖像を、あるいは、壁に縫い付けられるように首を垂れている遊楽を背にして。
堂内を埋める鬼たちを睥睨し、わずかに遊楽を振り返り、何かを呟いた。口の形は、待っててね、と、読み取れた。
一度顔を伏せ、くっと前を向く。
瞳の光が蒼よりも白に近い。
持ち上げられた口の両端から牙が覗く。
送り出される吐息に込められた思念は、もはやその濃度により透明を保つことができなくなっている。
殺到する鬼。
背をのけ反らせ、天を向き、瑞香はひときわ高い咆哮をあげた。
と。
「はい、それまで」
声と共に、背を叩かれる。
影が瑞香の横に並ぶ。
その手のひらがすいと水平に振られると、鬼たちは消滅した。音もなく、灰も残さず、あたかも初めから存在していなかったように、失せた。
「それ以上は囚われてしまうゆえの。悪鬼に堕ちたくはなかろう」
静まり返った堂内に、眠気を帯びたようなゆるゆるとした声だけが小さく響く。
声の主は、瑞香を振り仰ぎ、上から下までを見下ろしてため息をついた。
「なんとも、
にゃはは、と、
「遊楽。そなたもいつまでそうしておる
「……
遊楽は身悶えし、見えない鋲で固定されていた裾を引き剥がした。痛え、というように口を動かしながら、とんと床に降り立った。段を降り、瑞香と祢禰に歩み寄る。渋面で肩を抑えている。
「凝りました。随分と、同じ姿勢でいたもので……」
「自業自得じゃの」
「いつから気づいておられたのですか」
「
祢禰の言葉に苦笑しながら、遊楽は瑞香の前に立った。
事態が呑み込めず、ぼうと立ち尽くしている彼女の頭に手を伸ばす。
狐のような耳をさわと撫で、額へ、そして頬に手を移動させる。慈しむように、遊楽を見上げる蒼の瞳を覗き込む。
「……
「……」
「
「遊楽はの、そなたに賭けたんじゃ」
横から祢禰が口を挟む。
「そなたは、恐らく、最初の沈丁花の
遊楽は頷いて、不思議そうな表情を浮かべる瑞香の頬を親指でなぞった。
「……ですが、そのためには瑞香君が、自身で願わなくてはならない。鬼の力を自らのものとすることを。鬼を喰い、あやかしに変じ、そのうえで生きることを。与えられるものではなく、
そこで遊楽は、祢禰をちらと睨んだ。
「おやかたさま。もしや、あの者ら、
「いやいや、
祢禰は手を振って、聖堂の奥を見遣った。瑞香も振り向く。
紺の儀式外衣を纏った数人の人影が転がされている。縛られている様子もないが、動けないようだ。薄暗く、表情までは見て取れない。が、息はしている。うちの一人は、金の長い髪。女性と思えた。
「じゃが、実に好い巡り合わせじゃった。いかにして鬼を引き出して瑞香と対峙させようと思うておったが、渡りに船とはこのことじゃ。よい按配に利用させてもろうた。遊楽もそれに、上手にあわせおったわい。の」
「……おやかたさまのお考え、読むのに苦心しました」
「ま、ちと、
にゃははと、再び呑気な声で笑った祢禰は、ふと表情を戻し、瑞香に振り返った。右が紅、左が翠の
「じゃがな、瑞香。鬼を
「……はい」
ようやく獣の興奮をおさめ、意識が平時に焦点を結びつつある瑞香は、それでも戻らぬ蒼の炎の瞳をまっすぐに祢禰に返した。長い牙は、慣れぬ瑞香の声をくぐもらせた。
「わたしは、すでに選びました。このあとの道も、わたしが造ります」
「……うむ。よう、云うた。その、条件というのはの……」
「ですが、少しお待ちください」
「……ああ」
瑞香は改めて遊楽に向き直った。
いまだ薄く燐光を纏う蒼い髪と長い尾が、ふわりと揺れる。
いまの瑞香は、遊楽とさほど背丈が変わらない。それでも多少、上目遣いとなる。
まっすぐ自分を見つめる目に、遊楽は、ん、と首を傾げて見せた。
ずどん。
鈍い音。
遊楽のみぞおちに、瑞香の拳が突き立った。
がはっ、と、腹を押さえ、背を曲げる遊楽。
倒れ掛かるその身体を、瑞香は受け止める。
受け止めて、背に、両手を廻す。
「……どんな試練でも、好い。わたしがどんなに傷ついても、苦しんでも、かまわない。でも、もう二度と、口に出さないで」
遊楽は呼吸ができていない。酸素を求めて喘いで、なんとか細く声を出した。
「……な、に……を……」
「わたしの前から、消えるなんて、わたしの代わりに死ぬなんて。絶対に、絶対に、赦さない。あなたは、わたしを、飼うのでしょう。あやかしの
遊楽は釈明をしようとしたが、失敗した。
言葉が封じられてしまったためだ。
封じたのは、瑞香の唇。
呼吸はさらに困難となった。
それでも、遊楽は。
瑞香がそうしているように、ゆっくりと瞼を閉じて、相手の背に腕を廻した。
「……最後の条件は、の」
祢禰が眉をあげ、頭の後ろを掻きながら、誰に聴かせるでもなく独りごちた。
「あやかしと、主。互いに愛情で結ばれること、だったんじゃが……ま、云わぬでも善いか」
そうして、ふわあと、おおきな欠伸をした。
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