第17話 犠牲者①

ウインチがガラガラとなって、川崎船が下がってきた。ウインチの腕が短いので、ちょうどその下に漁夫が四人くらい待ち構えて、降りてくる川崎船をデッキの外側に押してやって、海までそれが降りられるようにしてやっていた。


——よく、危ないことがあった。ボロ船のウインチは、脚気の膝のようにギクシャクとしていた。ワイヤーを巻いている歯車の具合で、グイと片方のワイヤーだけが不均一にのびて、川崎船が燻製ニシンのように、すっかりと斜めにぶら下がってしまうことがある。そのとき、不意をくらって、下にいた漁夫がよく怪我をした。


——その朝まさにそれがあった。「あっ、危ない!」誰か叫んだ。真上から叩きのめされて、下の漁夫の首が胸の中に、杭のように入り込んでしまった。

漁夫たちは船医のところへ怪我人を抱えこんだ。彼らのうちで、今でははっきりと監督などに対して「畜生!」と思っている者たちは、医者に「診断書」を書いて貰うように頼むことにした。監督は蛇に人間の皮を着せたような奴だから、何とかかんとか言って、きっと難癖を抜かすに違いなかった。そのときの抗議のために診断書は必要だった。それに船医はわりかし漁夫や船員に同情を持っていた。

「この船は仕事をして怪我をしたり、病気になったりするよりも、ひっぱたかれたり、叩きのめされたりして怪我したり病気したりする方が、ずっと多いんだからねえ」と驚いていた。こと細かに日記につけて、後の証拠にしなければならない、と言っていた。

それで、病気や怪我をした漁夫や船員などをわりかし親切に診てくれていた。


診断書を作って貰いたいんですけれどもと、ひとりが切り出した。

はじめ、びっくりしたようだった。

「さあ、診断書はねえ……」

「この通りに書いて下さればいいんですが」

歯がゆかった。

「この船では、それを書かせないことになっているんだよ。勝手にそう決めたらしいんだが。……後々のことがあるんでね」

気の短い、吃りの漁夫が「ちェっ!」と舌打ちをしてしまった。

「この前、浅川君に殴られて、耳が聞えなくなった漁夫が来たので、何気なく診断書を書いてやったら、とんでもないことになってしまってね。——それがいつまでも証拠になるんで、浅川君にしちゃね……」

彼らは船医の部屋を出ながら、船医もやはりここまでくると、もう漁夫たちの味方ではなかったことを考えていた。


その漁夫は、しかし不思議とどうにか生命を取りとめることができた。そのかわり、日中でもよく何かに躓いて、のめるほど暗い隅に転がったまま、その漁夫がうなっているのを、何日も何日も聞かされた。

彼が治りかけて、うめき声が皆を苦しめなくなった頃、前から寝たきりになっていた脚気の漁夫が死んでしまった。——二十七だった。東京、日暮里の斡旋屋からきたもので、一緒の仲間が十人ほどいた。しかし、監督は次の日の仕事に差し支えるというので、仕事に出ていない病気の者だけで、お通夜をさせることにした。


湯灌をしてやるために、着物を解いてやると、身体からは、胸がムカーっとする臭気がきた。そして無気味な真白い、平べったい虱が慌ててゾロゾロと走り出した。うろこ状に垢のついた身体全体は、まるで松の幹が転がっているようだった。胸は、肋骨が一つ一つ、むき出しにでていた。脚気がひどくなってから、自由に歩けなかったので、小便などはその場で漏らしたらしく、一面ひどい臭気だった。褌もシャツも赤黒く色が変って、つまみ上げると、硫酸でもかけたように、ボロボロにくずれそうだった。臍の窪みには、垢とゴミが一杯につまって、臍は見えなかった。肛門のまわりには、糞がすっかり乾いて、粘土のようにこびりついていた。


「カムチャッカでは死にたくない」——彼は死ぬときそう言ったそうだった。

しかし、今彼が命を落すというとき、きっとそばで誰も看てやった者がいなかっただろう。そのカムチャッカでは誰だって死にきれないだろう。漁夫たちはそのときの彼の気持ちを考え、中には声をあげて泣いた者がいた。

湯灌に使うお湯を貰いにゆくと、コックが「可哀相にな」といった。「沢山持って行ってくれ。随分、身体が汚れてるべよ」


お湯を持ってくる途中、監督に出会った。

「どこへゆくんだ」

「湯灌だよ」

というと、

「ぜいたくに使うな」まだ何か言いたげにして通って行った。


帰ってきたとき、その漁夫は、「あの時くらい、いきなり後ろからあいつの頭に、お湯をぶっかけてやりたくなったときはなかった!」といった。興奮して、身体をブルブル震わせた。

監督はしっこく回ってきては、皆の様子を見てまわった。

——しかし、皆は明日居眠りをしても、のめりながら仕事をしても——例のサボをやっても、皆でお通夜をしようということにした。そう決まった。


八時頃になって、ようやく一通りの用意ができ、線香やローソクをつけて、皆がその前に坐った。監督はとうとう来なかった。船長と船医が、それでも一時間くらい坐っていた。

片言のように——切れ切れに、お経の文句を覚えていた漁夫が「それでいい、心が通じる」そう皆にいわれて、お経をあげることになった。お経の間、シーンとしていた。誰か鼻をすすり上げている。終わりに近くなるとそれが何人もに増えていった。

お経が終わると、一人ひとり焼香をした。それから正座を崩して、各々ひとかたまり、ひとかたまりになった。仲間の死んだことから、生きている——しかし、よく考えてみれば、なんとか危うくも生きている自分たちのことに、話題は移っていった。


船長と船医が帰ってから、吃りの漁夫が線香とローソクの立っている死体の側のテーブルに出て行った。

「俺はお経は知らない。お経をあげて山田君の霊を慰めてやることはできない。しかし僕はよく考えて、こう思うんです。山田君はどんなに死にたくなかったべか、とな。

——イヤ、本当のことをいえば、どんなに殺されたくなかったか、と。確に山田君は殺されたのです」

聞いている者たちは、抑えられたように静かになった。

「では、誰が殺したか?

——言わなくたって分っているべよ!僕はお経でもって、山田君の霊を慰めてやることはできない。しかし僕らは、山田君を殺したものの仇をとることによって、とることによって、山田君を慰めてやることができるのだ。

——このことを、今こそ、山田君の霊に僕らは誓わなければならないと思う……」


一番先に「そうだ!」といったのは船員たちだった。


蟹の生臭いにおいと熱気が立ち込める「糞壺」の中に線香の香りが、香水か何かのように漂った。九時になると、雑夫が帰って行った。疲れているので、居眠りをしているものは、石の入った俵のように、なかなか起き上らなかった。ちょっとすると、漁夫たちも一人、二人と眠り込んでしまった。

——波が出てきた。船が揺れるたびに、ローソクの灯が消えそうに細くなり、またそれが明るくなったりした。死体の顔の上にかけてある白木綿がとれそうに動いた。ずった。そこだけを見ていると、ゾッとする不気味さを感じた。

——船腹から波が鳴り出した。

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