第4話 海①

祝津の燈台が、回転するたびにキラッキラッと光るのが、ずっと遠い右手に、一面灰色の海のような霧の中から見えた。それが反対方向へ回転してゆくと、霧の向こうに何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫を何海里もサッと引いた。


留萌の沖あたりから、細くジュクジュクとした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹のハサミのように赤くかじかんだ手を、ときどき懐の中につっこんだり、口のあたりを両手でまるく囲んで、はーっと息をかけたりしながら働かなければならなかった。


——納豆の糸のような雨が留まることなく、同じ色の不透明な海に降った。が、稚内に近くなるにしたがって、雨が粒々になってきて、広い海面が旗でもなびくように、うねりだしてきて、そしてうねりが細かく、せわしなくなった。

——風がマストに当ると不吉に鳴った。鋲がゆるみでもするように、ギィギィと船のどこかがひっきりなしに軋んだ。


宗谷海峡に入ったときは、三千トンに近いこの船が、しゃっくりでもしているかのように、ギク、シャクと音をたてた。何か強大な力でグイと持ち上げられるかのように船が一瞬間宙に浮かぶ。

——が、グッと元の位置に沈む。エレベーターで下りる瞬間の、小便が漏れそうになる、くすぐったい不快さをそのたびに感じた。

雑夫は萎えた土気色の顔で、船酔いらしく、眼だけが険しく睨みつけて、ゲェゲェとしていた。


波のしぶきで曇った丸い舷窓から、ひょいひょいと樺太の、雪のある山並みの堅い線が顔を出した。しかしすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。

寒々とした深い谷ができる。それがみるみる近付いてくると、窓のところへドッと打ち当たり、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後ろへ、後ろへ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。


船は時々子供のように身体を揺すった。棚からものが落ちる音や、ギィ——と何かたわむ音や、波に横っ腹がドブンと打ち当る音がした。——その間じゅう、機関室からは機械の音がいろいろな器具を伝って、少しの震動を伴ってじかにドッ、ドッ、ドッ……と響いていた。ときどき波の背に乗ると、スクリューが空回りして、翼で水の表面を叩きつけた。


風はますます強くなってくるばかりだった。二本のマストは釣竿のようにたわんで、ビュウビュウと鳴き出した。波は丸太棒でもちょっと一跨ぎするくらい無雑作に、船の片側から反対側へ、ヤクザのように暴れ込んできたと思うと流れ出て行った。その瞬間、出口がザァーと滝になった。

船は、みるみる盛り上った波の山の恐ろしく大きな斜面に、玩具のようにちょこんと横から乗っかることがあった。と、瞬間、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ちこんでゆく。今にも、沈む!と思うのだが、谷底にはすぐ別な波がムクムクと立ち上ってきて、ドシンと船の横腹に体あたりをする。


オホーツク海へ出ると、海の色がもっとはっきり灰色がかってきた。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆、唇を黒紫色にして仕事をした。寒くなればなるほど、塩のように乾いた、細かい雪がビュウビュウ吹きつのってきた。それはガラスの細かい欠片のように甲板に這いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突き刺さった。

波が一波、甲板を洗って行った後は、すぐ凍えて、デラデラとした滑る氷の床となった。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自おしめのようにブラ下がって作業をしなければならなかった。

——監督は鮭を叩き殺すための棍棒をもって大声で怒鳴り散らした。


同時に函館を出航した他の蟹工船は、いつの間にか離れ離れになってしまっていた。それでもアルプスの絶壁のような思い切り大きな波に乗り上ったとき、溺水者が両手を振っているように、ゆらゆらと大きく揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどに小さく見える排煙が、波とすれずれに吹きちぎられて飛んでいった。……波浪の叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間をおいてヒュウヒュウと聞えた。が、次の瞬間、こっちがアップ、アップと溺れるかのように、船は波の谷底に攫われて行った。


***


蟹工船には付属する川崎船(注:発動機付きの小型船)を八隻のせていた。船員も漁夫も、それを波にもぎ取られないよう縛りつけるためだけに、自分たちの命を賭けなければならなかった。波は幾千匹もの鮫が白い歯を剥いてくるように荒々しく猛った。

——「貴様等の一人、二人がなんだ。川崎船を一隻でも取られてみろ、たまったもんではないんだ」

——監督は漁夫たちに聞こえるようにはっきりそう言った。


カムチャッカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツガツに飢えている獅子のように挑みかかってきた。船は兎よりももっと弱々しかった。空一面の吹雪は、風の具合で、白い大きな旗がなびくように見えた。夜近くなってきても時化はやみそうもなかった。


仕事が終わると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷えて、感覚なく身体にくっついているだけだった。皆は蚕のように各々の棚の中に入ってしまうと、誰も一口も口をきく者はいなかった。ゴロリと横になって鉄の支柱につかまった。

船は、背に食らいついている虻を追払う馬のように、身体をやけに振っている。漁夫はあてのない視線を昔は白かっただろうペンキが黄色く煤けた天井にやったり、ほとんど海の中に入りっきりになっている青黒い円窓にやったりしていた。中には、呆けたようにキョトンと口を半開きにしている者もいた。誰も、何も考えていなかった。漠然とした不安を自覚して、皆が不機嫌に黙った。


顔を仰向けにして、ぐいっとウイスキーをラッパ飲みにしている。赤黄色に濁ったにぶい電燈のなかでチラっと瓶の角が光ってみえた。——ガラッ、ガラッと、ウイスキーの空瓶が壁の二、三カ所にジグザグに転がってあたり、棚から通路に勢いよく投げ出された。皆は頭だけをそちらに向けて、眼で瓶を追った。

——隅の方で誰か怒った声を出した。時化にとぎれて、それが片言のように聞えた。


「日本を離れるんだと」言いながら円窓を肘で拭っている。

「糞壺」のストーブはブスブスと燻ってばかりいた。その中で生きている人間は、鮭や鱒と間違われて冷蔵庫へ投げ込まれたように、ガタガタ震えていた。粗い麻織物で覆ったハッチの上をザア、ザアと波が大股で跨いでいった。そのたびに太鼓の内部みたいな「糞壺」の鉄壁に物凄い反響を起した。

ときどき漁夫の寝ているすぐ横が、グイと男の強い肩で突かれたように、ドシンとくる。

——船は断末魔をあげながら荒れ狂う大波の間に身体をのたうっている鯨、そのものだった。

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