第5話 海②

「飯だ!」まかない係がドアから身体の上半分をつき出して、両手で口を囲んで叫んだ。「時化てるから汁はなし」

「何だって?」「腐れ野郎が!」漁夫たちが怒鳴りつけると、まかない係は顔をひっこめた。

思い思い身体を起した。

飯を食うことにかんしては皆、囚人のような執念さを持っていた。ガツガツだった。


塩引の皿を、胡坐をかいた股の間に置いて、湯気を吹きながらバラバラした熱い飯をほおばると、舌の上でせわしくあちこちへやった。最初に熱いものを鼻先にもってきたために、鼻水がひっきりなしに下がってきて、ひょいと飯の中に落ちそうになった。


飯を食っていると、監督が入ってきた。

「乞食のようにガツガツ食らうな。仕事もロクにできない日に、飯ばかりたらふく食われてたまるもんか」

ジロジロ棚の上下を見ながら、左肩だけを前の方へ揺らして出て行った。


「一体あいつにあんなことをいう権利があるのか」

——船酔いと過労で、ゲッソリ痩せた学生あがりが、ぶつぶつと言った。

「蟹工船に浅川あり、いや浅川に蟹工船あり、って感じだな。蟹工の浅じゃなくて、浅の蟹工かってな!」

「天皇陛下は雲の上にいるから、俺たちにゃどうでもいいんだけど、浅ってなれば、どっこいそうは行かないからな」


別な方から唇を尖んがらかした声がした。

「ケチケチすんじゃねえ、なんだ、飯の一杯、二杯!浅なんか、殴ってしまえ!」「偉い偉い。そいつを浅の前で言えれば、なお偉い!」

皆はどうしようもない理不尽さに、腹を立てたまま笑ってしまった。


***


夜半過ぎてから、雨合羽を着た監督が、漁夫の寝ているところへ入ってきた。船の揺れに脚をとられぬよう、棚の枠につかまって体を支えながら、一人ひとり漁夫の間にカンテラを差しむけて歩いた。カボチャのようにゴロゴロしている頭を、無遠慮にグイグイと向き直しさせて、カンテラで照らしてみていた。漁夫たちは疲れ果てて、踏んづけられたって、目を覚ます筈がなかった。全部照らし終わると、ちょっと立ち止まって舌打ちをした。

——どうしようか、そんな風だった。が、すぐ次のまかない係の部屋の方へ歩き出した。

青っぽいカンテラの光が扇のように広がって揺れるたびに、ゴミゴミした棚の一部や、脛の長い防水ゴム靴、支柱に掛けてあるゴザやはんてん、それに行李などの一部分がチラ、チラっと光っては消えた。——足元に光が震えながら一瞬とどまる、と今度は、まかない係のいるドアに幻燈のよう丸い光の輪を写した。


——次の朝になって、雑夫の一人が行方不明になったことが知れた。


皆は前の日の川崎船での無茶な仕事を思いだし、「波に攫われたのだ。無茶に疲れ果てて、波に攫われても抵抗する気力すらなくなったのだ」と思った。嫌な気持ちがした。しかし漁夫たちはその日、未明から追い回されたので、そんな会話をお互いにすることもできなかった。


「こんな冷たい海に、誰が好き好んで攫われるって言うんだ!隠れてやがるんだ。見つけたら、畜生、叩きのめしてやる!」

監督は棍棒を玩具のようにグルグル回しながら、船の中を探して歩いた。

時化はピークを過ぎていた。それでも、行く先へ盛り上った波に船が突き入ると、船首の甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何の雑作もなく乗り越えてきた。一昼夜の時化との闘争で、満身に痛手をおった船はどこかびっこをひいたような音をたてて進んでいた。薄い煙のような雲が、手が届きそうなくらい真上を、マストを打ちつけながら、急角度を切って吹きとんで行った。うすら寒い雨がまだ止んでいなかった。四方でもりもりと波がふくれ上がってくると、海に射し込む雨足がハッキリ見えた。それは原始林の中に迷いこんで雨にあうよりも、もっと不気味だった。

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