第6話 海③

麻のロープが鉄管を握るかのようにバリバリに凍えている。学生あがりがすべる足下に気を配りながら、それに掴まってデッキを渡ってゆくと、タラップの段々を一つおきに片足で跳躍して上ってきた給仕にあった。

「ちょっと」給仕が風のあらない角に引っ張っていった。「面白いことがあるんだよ」と言って話してきかせた。


***


——今日の午前二時頃だった。ボート・デッキの上まで波が躍り上って、間をおいて、バジャバジャ、ザアッーとそれが滝のように流れていた。夜の闇の中で、波が歯をむき出すのが、時々青白く光ってみえた。時化のために皆寝ずにいた。そのときだった。

船長室に無線係が慌ててかけ込んできた。

「船長、大変です。S・O・Sです!」

「S・O・S?——何船だ!?」

「秩父丸です。本船と並んで進んでいたんです」

「ボロ船だ、それはァ!」——浅川が雨合羽を着たまま、隅の方の椅子に大きく股を開いて腰をかけていた。片方の靴の先だけを、小馬鹿にしたようにカタカタ動かしながら笑った。「もっとも、どの船だって、ボロ船だがなァ」

「一刻をあらそう事態のようです」

「うむ、それは大変だ」

船長は、舵機室に上るために、急いで身支度もせずにドアを開けようとした。しかしまだ開けないうちだった。いきなり、浅川が船長の右肩を掴んだ。

「余計な寄り道をしろなど、誰が命令したんだ」


誰が命令した?私は船長ではないか。

——が、あまりに咄嗟のことで、船長は棒のようにキョトンとした。しかしすぐ彼は自分の立場を自覚した。

「船長として命令するまでだ」

「船長として、だァ——!?」

船長の前に立ちはだかった監督が、尻あがりの口調で侮辱して抑えつけた。

「おい、一体これは誰の船なんだ。会社がチャーターしているんだぞ。金を払って。ものをいえるのは会社代表の須田さんとこの俺だ。お前なんぞ、船長といってりゃ、大きな顔をしてるが、便所の紙くれえの値打ちもねえんだ。分かってるか。——あんな遭難船にかかわってみろ、一週間もフイになるんだ。冗談じゃない。一日でも遅れるんじゃない。それに秩父丸にはもったいないほどの保険が掛けてあるんだ。ボロ船だ、沈んだほうが、かえって得するんだ」


給仕は今にも恐ろしい喧嘩がはじまる!と思った。喧嘩だけで済む筈がない。

——だが!船長は喉へ綿でも詰められたように黙って、立ちすくんでいるではないか。給仕はこんな場合の船長をかつて一度だって見たことがなかった。船長の言ったことが通らない?馬鹿な、そんな事が!

だが、今それが起っている。給仕にはどうしても分らなかった。

「人情味なんか柄でもなく持ち出して、国と国との大相撲がとれるか!」浅川は唇を思いっきりゆがめて唾をはいた。

無線室では受信機がときどき小さな青白いスパークを出して、ひっきりなしに鳴っていた。とにかく経過を見るために、皆は無線室に行った。


「ね、こんなに打電よこしているんです。——だんだん早くなりますね」

無線係は自分の肩越しに覗き込んでいる船長や監督に説明した。

——皆はいろいろな機械のスイッチやボタンの上を、無線係の指先が器用にあちこちすべるのを、視線の先が指先に縫いつけられたかのように追いながら、思わず肩と顎に力をこめてじいっとしていた。

船の動揺のたびに、腫物のように壁に取付けてある電燈が、明るくなったり暗くなったりした。横腹に思い切り打ちつけられる波の音や、絶えず鳴る不吉な警笛が、風の具合で遠くなったり、近くなったり、鉄の扉を隔てて聞えていた。


ジイ——、ジイ——ィと、長く尾を引いて、スパークが散った。と、そこで、ピタリと音がとまってしまった。それが、その瞬間、皆の胸がドキリとした。無線係は慌てて、スイッチをひねったり、機械をせわしく動かしたりした。が、それっきりだった。

もう無線がくることはなかった。


無線係は身体をひねって、回転椅子をぐるりとまわした。

「沈没です!……」

頭から受信器を外しながら、そして低い声でいった。

「乗務員四百二十五人。最期なり。救助される見込なし。S・O・S、S・O・S、これが二、三度続いて、それで切れてしまいました」


それを聞くと、船長は頸と襟首の間に手をつっこんで、息苦しそうに頭をゆすって、頸をのばすようにした。無意味な視線で、落着きなくあたりを見回わしてから、ドアの方へ身体を向けてしまった。そして、ネクタイの結び目あたりを抑えた。——その船長を見ていられなかった。


……………………


学生あがりは、「ウム、そうか!」と言った。その話に惹きつけられていた。

——しかし暗い気持ちがして、海に眼をそらした。海はまだうねりにうねりかえっていた。水平線が見る間に足の下になったかと思うと、二、三分もしないうちに、谷から狭められた空を仰ぐように下へ引きずりこまれていた。

「本当に沈没したかな」と独り言がでる。気になって仕方がなかった。同じように、ボロ船に乗っている自分たちのことが頭によぎる。


——蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホーツクの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役にはどうでもいいことだった。資本主義が決まりきったところだけの利潤では行き詰まり、金利が下がって金がダブついてくると、文字通りにどんなことでもするし、どんなところへでも死に物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘でまんまと何十万円が手に入る蟹工船、——彼らの夢中になるのは無理がない。


蟹工船は「工船」つまり工場であって、「航船」ではない。だから航海法は適用されなかった。二十年ものあいだ繋ぎっ放しになって、沈没させるしかどうにもならないヨロヨロの梅毒患者のような船が、恥ずかしげもなく、うわべだけの濃化粧を施されて、函館へまわってきた。日露戦争で、名誉にもビッコにされ、魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。

——少し蒸気を強くすると、パイプが破れて、蒸気が噴いた。ロシアの監視船に追われて(そんなときは何度もあった)、スピードをかけると船のどの部分もメリメリと鳴って、今にもその一つひとつがバラバラにほぐれそうになり、中風患者のように身体をふるわせた。

しかし、それでも全くかまわない。なぜなら、今こそ日本帝国のため、どんなものでも立ち上るべきときだったから。それに蟹工船は純然たる「工場」だった。しかし工場法の適用も受けていない。これほど都合よく勝手にできるところはなかった。


利口な重役はこの仕事を「日本帝国のため」と結びつけてしまった。嘘のような金が、ごっそり重役の懐に入ってくる。彼はしかしそれをもっと確実なものにするために代議士に出馬することを、高級車をドライブしながら考えている。

——が、恐らくそれときっかり一分も違わない同じときに、秩父丸の労働者が、何千マイルも離れた北の暗い海で、割れたガラスくずのように鋭い波と風に向って、死の戦いを挑んでいるのだ!


……学生あがりは「糞壺」へのタラップを下りながら、「ひとごとではないのだ」と考えていた。


「糞壺」のはしごを下りると、すぐ突きあたりに、誤字だらけで、

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雑夫、宮口を発見したモノには、タバコ二箱、テヌグイ一本を報シュウとして与へる。

浅川監督。

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と、書いた紙が、糊代わりの飯粒を不器用にデコボコうかせて、貼り出されてあった。

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