第7話 時化①

霧雨が何日もあがらない。霧雨でぼかされたカムチャッカの海岸線が、八つ目鰻のようにするすると延びて見えた。

沖合四海里のところに、博光丸が錨を下ろした。——沖合三海里までがロシアの領海なので、それ以内に入ることはできないことになっていた。

網の用意が終わって、いつからでも蟹漁ができるように準備ができた。カムチャッカの夜明けは午前二時頃なので、漁夫たちはすっかり身支度を整えて股まで伸びたゴム靴を履いたまま棚の中に入ってゴロ寝をした。


斡旋屋にだまされて連れてこられた東京の学生あがりは「こんなはずではなかった」とブツブツいっていた。

「独り寝ができるだなんて、うまいこといいやがって!」

「いんや、確かに独り寝さ。みんなでゴロ寝の独り寝だべ」

学生は十七、八人来ていた。——はじめ、彼らは青鬼、赤鬼の中に取り巻かれた地獄の亡者のように、漁夫の中にひとかたまりに固まっていた。

給料六十円を前借りして、汽車賃、宿代、毛布、布団、それに斡旋料を取られると、結局船へ来たときには一人七、八円の借金!になっていた。それがはじめて分ったとき、金だと思って握っていたのが枯葉であったとしてもそうはならないほど、彼らはキョトンとしてしまった。


函館を出航してから、四日目ごろから、毎日のボロボロな飯といつも同じ汁のために、学生はみな身体の具合を悪くしてしまった。寝床に入ってから、膝を立てて、お互いに脛を指で押していた。何度も繰りかえして、そのたびに引っ込んだとか、引っ込まないとか、彼らの気持ちはその瞬間その瞬間に、明るくなったり暗くなったりした。脛をなでてみると、弱い電気に触れるように、しびれるのが二、三人出てきた。棚の端から両足をぶら下げて、膝頭を手刀で打って足が飛び上るかを試した。

さらに悪いことに便通が四日も五日も無くなっていた。学生の一人が医者に便秘薬を貰いに行った。帰ってきた学生は、興奮から青い顔をしていた。——「そんなぜいたくな薬なんて無いとよ」

「んだべ。船医なんてそんなものよ」そばで聞いていた古い漁夫が言った。

「どこの医者も同じだよ。俺のいたところの会社の医者もそんなものだった」鉱山やまあがりの漁夫だった。


皆がゴロゴロ横になっていたとき、監督が入ってきた。

「皆、寝たか——ちょっと聞け。秩父丸が沈没したっていう無線が入ったんだ。生死の詳しいことは分らないそうだ」

唇をゆがめて、唾をチェっとはいた。癖だった。

学生は給仕から聞いたことがすぐ頭によぎった。現に自分が手をかけて殺した四、五百人の労働者の生命のことを平気な顔で言う。海に叩き込んでやっても足りない奴だ、と思った。皆はムクムクと頭をあげ、話を聞くと、急にザワザワお互いに話し出した。浅川はそれだけ言うと、左肩だけを前の方に振って出て行った。


行方の分らなかった雑夫が、二日前にボイラーのそばから出てきたところで捕まった。二日隠れていたけれども、腹が減って、腹が減って、どうにもできずに出てきたのだった。捕まえたのは中年過ぎの漁夫だった。若い漁夫がその漁夫を殴りつけて怒った。

「うるさい奴だ、煙草呑みでもないのに、煙草の味が分かるか」煙草を二箱手に入れた漁夫はうまそうに呑んでいた。


捕まった雑夫は監督にシャツ一枚にされると、二つある便所のうちの一つの方に押し込まれて、表から錠を下ろされた。

はじめ、皆は便所へ行くのを嫌がった。隣で泣きわめく声をとても聞いていられなかった。二日目にはその声がかすれて、ヒエッ、ヒエッという呻き声だけが聞こえた。そして、その呻きが間をおくようになった。その日の終わり頃に、気掛りになっていた漁夫が仕事を終えてすぐに便所のところへ行ったが、もうドアを内側から叩きつける音もしなかった。こっちから合図をしても、それが返ってこなかった。

——その日の遅く、便器に片手をもたれかけて、便所紙の箱に頭を入れうつ伏せに倒れていた宮口が出されてきた。唇が青いインクをつけたように染まり、明らかに生気を欠いていた。


朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ午前三時だった。漁夫たちはかじかんだ手を懐につっこみながら、背を丸くして起き上ってきた。監督は雑夫や漁夫、水夫、ボイラー夫の室まで見回って歩いて、風邪をひいている者も病気の者も、かまわず仕事に引きずり出した。


風は無かったが、甲板で仕事をしていると、手先やつま先がすりこぎになったかのように感覚を無くした。雑夫長が大声で悪態をつきながら、十四、五人の雑夫を工場に追い込んでいた。彼の持っている竹の先端には皮が張ってあった。それは工場で怠けている雑夫を機械の枠越しに、向こう側からでも殴りつけることができるように作られていた。


「昨夜出されたきりで、口もきけない宮口を今朝からどうしても働かせなければならないって、さっきから足で蹴ってるんだよ」

学生あがりになじんでいる弱々しい身体の雑夫が、雑夫長の顔を見ながらそのことを知らせた。

「どうしても動かないんで、とうとうあきらめたらしいんだけど」

そこへ監督が、身体をワナワナふるわせている若い雑夫を後ろからグイグイと突きながら押して来た。寒い雨に濡れながら仕事をさせられたために、その雑夫は風邪をひき、それ以降、肋膜を悪くしていた。寒くないときでも、始終身体をふるわせていた。子供らしくない皺を眉の間に刻んで、血の気のない薄い唇を妙にゆがめて、ピリピリとひきつけを起こしたような眼差しをしていた。

彼が寒さに堪えられなくなって、ボイラー室でウロウロしていたところを監督に見付けられたのだった。


出漁のために川崎船をウインチから降していた漁夫たちは、その二人を何も言えずに見送っていた。四十歳くらいの漁夫は、見ていられないというふうに顔をそむけると、イヤイヤと頭をゆるく二、三度振った。

「風邪をひいてもらったり、不貞寝をされてもらったりするために、高い金を払って連れて来たんじゃないんだぜ。——馬鹿野郎、余計なものを見なくたっていい!」

監督が甲板を棍棒で叩いた。


「監獄だって、ここにひどいことにはお目にかかりゃしない!」

「こんなこと内地くにさ帰って、なんぼ話したって本当のことだと信じちゃくれねェ」

「そうさ。こんなことって第一あるわけなかろうよ」


船首でウインチがガラガラ回り出した。川崎船は身体を空にゆすりながら、一斉に降りはじめた。水夫やボイラー夫も狩り立てられて、すべる足元に気を配りながら甲板を走りまわっていた。それらのなかを、監督はトサカを立てた牡鶏のように見回った。


仕事の切れ目ができたので、学生あがりが一寸の間、風を避けて、荷物のかげに腰を下していると、鉱山やまあがりの漁夫が口のまわりに両手をまるく囲んで、ハア、ハアと息をかけながら、ひょいと角を曲ってきた。

「命懸けだな!」それが——心から不意に出た実感が、思わず学生の胸を衝いた。

「やっぱし炭山と変らないで、死ぬ思いばしないと、生きられないなんてな。——ガス事故も恐っかねぇど、波もおっかねぇしな」

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