第8話 時化②

昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄い霧が一面に——そうでないと言われなければ気づかなないほど、淡くかかった。無数の波が、風呂敷でもつまみ上げたかのように、三角に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴らして吹いていった。荷物にかけてある麻織りの覆いの裾がバタバタとデッキを叩いた。


時化がやってきた。


「兎が跳ぶどォ——兎が!」誰かが大声で叫んで、右舷のデッキを走って行った。その声が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。

もう海一面、三角波の頂点が白いしぶきを飛ばし、無数の兎があたかも大平原を跳びあがっているようだった。——それがカムチャッカの突風の前触れだった。にわかに海底の潮の流れがはやくなってくる。船が横に身体をずらしはじめた。今まで右舷に見えていたカムチャッカが、気がつかないうちに左舷に見えていた。——船に残って仕事をしていた漁夫や水夫は急に慌てだした。


すぐ頭の上で警笛が鳴り出した。皆は立ち止ったまま空を仰いだ。真下にいるせいか、斜め後ろに突き出ている煙突が、思っていたよりもずっと太く見える。その湯桶のような煙突がユキユキと揺れていた。その煙突の腹にあるハンチング帽のような形の汽笛から鳴るサイレンが、荒れ狂っている暴風の中で、何か悲壮に聞えた。

——遠く本船をはなれて、漁に出ている川崎船が、絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、時化をおかして帰って来るのだった。


薄暗い機関室への降り口で、漁夫と水夫がかたまりあって騒いでいた。斜め上から、船が動揺するたびにチラチラ薄い光の束が洩れていた。興奮した漁夫のいろいろな顔が、その一瞬一瞬に、浮き出ては消えた。


「どうした?」鉱山やまあがりがその中に入り込んだ。

「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」殺気だっていた。

監督は実は今朝早く、本船から十マイルほど離れたところに停泊していた××丸から突風の警戒報を受け取っていた。それには「もし川崎船が出ていたら、至急呼び戻すように」とさえ付け加えてあった。

その時、「こんな事にいちいちビクビクしていたら、このカムチャッカまでわざわざ来て仕事なんかできるか」——そう浅川のいったことが、無線係から洩れた。


それを聞いた最初の漁夫は、無線係をまるで浅川でもあるかように、怒鳴りっけた。「人間の命を何だって思ってやがるんだ!」

「人間の命?」

「そうよ」

「ところが、浅川はお前たちをどだい人間だなんて思っていないよ」

漁夫は何か言おうとしたが言葉にならなかった。彼は真っ赤になった。そして皆のところへかけ込んできたのだった。


皆は暗い顔に、しかし抗いようもなく底からジリジリとやってくる憤りを抱えて、立ちつくしていた。父親が川崎船で出ている雑夫が、漁夫たちの集っている輪の外をオドオドとしていた。マストを固定するステイの綱が絶え間なしに鳴っていた。頭の上で鳴るそれを聞いていると、漁夫の心はギリギリと切り苛まれた。


* * *


夕方近く、ブリッジから大きな歓声が起こった。下にいた者たちはタラップの段を二つおきに駆け上った。

——川崎船が二隻近づいてきたのだった。二隻はお互いにロープを渡して結び合っていた。

それらは本船の間近まで来ていたが、大きな波は、川崎船と本船を、ガタンコ電車の両端にのせたように、交互に激しく揺り上げたり、揺り落としたりした。

次々と二つの間に波の大きなうねりがもり上ってローリングした。目の前にいて、なかなか近づかない。

——歯痒かった。


甲板からはロープが投げられた。が、届かなかった。それは無駄なしぶきを散らして海へ落ち、そして海蛇のようにたぐり寄せられた。それが何度もくり返された。こっちからは皆、声をそろえて呼んだ。

が、向こうはそれに応えなかった。あちらの漁夫たちの顔の表情は石膏マスクのように石化して動かない。眼も何かを見た瞬間、そのまま強張ったように動かない。

——その情景は、本船にいる漁夫たちの胸を、目のあたり見ていられない凄惨さをもってえぐり刻んだ。


またロープが投げられた。はじめ渦を巻いて、それから鰻のようにロープの先が伸びたかと思うと、それを捕えようと両手をあげている漁夫の首根っこを、ロープの先端が横なぐりに叩きつけた。皆は「アッ!」と叫んだ。漁夫はいきなり、そのままの恰好で横倒しにされた。

が、つかんだ!

——ロープはキリキリとしまると、水の滴りをしぼり落して一直線に張った!こっちで見ていた漁夫たちは、思わず肩から力が抜けた。


風の具合にあわせて、ステイの綱が絶え間なく、高く、遠く、唸りをあげていた。夕方になるまでに二隻を残して、なんとかすべての船が帰ってこられた。どの船の漁夫も本船のデッキを踏むと、それっきり気を失いかけた。


一隻は浸水によって運航不能になってしまったために、波に流されぬよう錨を投げ込んで、漁夫たちは別の川崎船に移って帰ってきた。もう一隻は漁夫と共にまったくの行方不明だった。


監督はブリブリしていた。何度も漁夫の部屋へ降りてきて、また上って行った。そのたびに、皆は焼き殺すような憎悪に満ちた視線で、黙って監督を見送った。


* * *


翌日、川崎船の捜索をしながら蟹の後を追って、本船が移動することになった。浅川に言わせれば「人間の五、六匹が死んだところで何でもないけれど、川崎船を失うのが口惜し」かったからだった。


朝早くから、機関部が忙しかった。錨を上げる震動が、錨室と背中合せになっている漁夫を煎豆のように跳ねとばした。そのたびに、ボロボロになった船腹の鉄板塗装がこぼれ落ちた。

——博光丸は北緯五十一度五分の所まで、浸水して錨をなげ、遺棄された第一号川崎船を捜索した。流氷の砕片が生きもののように、ゆるい波のうねりの間々に、ひょいひょいと身体を見せて流れていた。が、ところどころでその砕けた氷が、見渡す限りの大きな集団をなして、泡を出しながら船をみるみるうちに中央に取り囲んでしまう、そんなことがあった。氷は湯気のような水蒸気をたてていた。


ふと、扇風機にでも吹かれるように寒気が襲ってきた。船のあらゆる部分が急にカリッ、カリッと鳴り出すと、水に濡れていた甲板や手すりに氷が張ってしまった。船腹は白粉おしろいでもふりかけたように、霜の結晶でキラキラと光った。水夫や漁夫は両頬を抑えながら甲板を走った。船は後ろに、荒野の一本道のような長い跡を残して突き進んだ。


川崎船はなかなか見つからない。

九時近い頃になって、ブリッジから、前方に川崎船が一隻浮かんでいるのを発見した。それが分かると、監督は「畜生、やっと分かりやがったど。畜生!」と、デッキを走ったり歩いたりして喜んだ。すぐ発動機が降ろされた。

が、それは探していた第一号ではなかった。それよりは、もっと新しい第36号と番号の打たれてあるものだった。明らかに×××丸のものらしい鉄のブイがつけられていた。×××丸がどこかへ移動する際に、元の位置に戻るための目印として置いていったものだった。

浅川は川崎船の胴体を指先でトントンと叩いていて「これァどうして立派な船ときたもんだ」と、ニャっと笑った。「引いていくんだ」


そして第36号川崎船はウインチで、博光丸のブリッジに引きあげられた。川崎船は空で身体をゆすりながら、雫をバジャバジャ甲板に落とした。「ひと働きをしてきた」とでも言いたげな、そんな鷹揚な態度で釣り上がって行く川崎船を見ながら、監督が、「大したもんだ。大したもんだ!」と、独り言をいっていた。


網を巻き上げながら漁夫がそれを見ていた。「何んだ、泥棒猫!チェーンでも切れて、野郎の頭に船ごと叩き落ちればえんだ」

監督は仕事をしている彼らの一人ひとりを、そこから何かえぐり出すような眼付きで、見下しながらそばを通って行った。

そして大工をせっかちなドラ声で呼んだ。


すると、監督の呼んだ先とは別の方のハッチの口から、大工が顔を出した。

「何ですか」

見当はずれをした監督は、振り返ると、怒りっぽく、「何ですか?って馬鹿。番号を削るんだ。カンナ、カンナ」

大工は要領を得ない顔をした。

「あんぽんたん、来い!」

肩幅の広い監督のあとから、鋸の柄を腰に差して、カンナを持った小柄な大工が、びっこでも引いているかのような危い足取りで、甲板を渡って行った。——川崎船の第36号の「3」がカンナで削り落されて、「第 6号川崎船」になってしまった。

「これでよし。これでよし。うっはァ、ざまァ見やがれ!」監督は、口を三角にゆがめると、背のびでもするように大口をあけて笑った。


これ以上北航しても、川崎船を発見するあてがなかった。第三十六号川崎船の引き揚げで、足踏みをしていた船は、元の位置に戻るために、緩い大きなカーブを描きはじめた。空は晴れ上がって、洗われた後のように澄んでいた。

カムチャッカの連峰が絵葉書で見るスイスの山々のように、くっきりと輝いていた。


行方不明になった川崎船は帰ってこない。漁夫たちは、そこだけが水溜りのようにポツンと空いた棚から、家族のいる住所を調べたり、彼らが残していった荷物をそれぞれ万一の時にすぐ運び出せるように取りまとめた。——気持ちのいいことではなかった。

それをしていると、漁夫たちは、まるで自分の痛いどこかを覗きこまれているようなつらさを感じた。


中積船が来たら託送しようと彼らの荷物を整理していると、同じ苗字の女の名前が差出人になっている小包や手紙が彼らの荷物の中から出てきた。そのうちの一人の荷物の中から、片仮名と平仮名混じりの、苦労して鉛筆で書かかれたであろう手紙が出た。それが無骨な漁夫の手から手へ渡されていった。彼らは豆粒でも拾うように、ポツリポツリ、しかし、むさぼるようにそれを読んでしまうと、嫌なものを見てしまったというふうに頭を振って次に渡してやった。


——子供からの手紙だった。


ぐすりと鼻をならして、手紙から顔を上げると、掠れた低い声で、「浅川のせいだ。死んだと分かったら、弔い合戦をやるんだ」といった。その男は図体の大きい、北海道の奥地でさまざまなシノギをやってきたという男だった。もっと低い声で、「奴一人くらい叩き落せるべよ」若い、肩のもり上った漁夫が言った。

「あー、この手紙いけねえ。すっかり思い出してしまった」

「なァ」最初の男がいった。「うっかりしていれば、俺たちだって奴にやられたんだで。他人ごとじゃあねえんだど」


隅の方で、立膝をついて、親指の爪を噛みながら、上眼をつかって、皆の言うのを聞いていた男が、その時、うん、うんと頭を振ってうなずいた。「万事、俺にまかせろ。その時ァ!あの野郎一人ぐらいグイっとやってしまうから」

皆は黙った。——黙ったまま、しかし、その言葉が心強く、ホっとした。

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