第9話 時化③
博光丸が元の位置に帰ってから、三日たって突然!その行方不明になっていた川崎船が、しかも元気よく帰ってきた。
彼らは船長室から「糞壺」に帰ってくると、たちまち皆が渦を巻くかのように取り囲んでしまった。
——彼らは暴風雨のために、ひとたまりもなく操縦の自由をなくしてしまった。そうなればもう襟首をつかまれた子供より他愛もなかった。一番遠くに出ていたし、それに風の具合もちょうど反対の方向だった。皆は死ぬことを覚悟した。
漁夫はいつでもあっけなく死ぬ覚悟をすることに慣らされてしまっていた。
が!こんなことは滅多にあるものではない。次の朝、川崎船は半分浸水したまま、カムチャッカの岸に打ち上げられていた。そして皆は近所のロシア人に救われたのだった。
そのロシア人の家族は四人暮しだった。女がいたり、子供がいたりする家庭というものに飢えていた彼らにとって、そこは何ともいえないほど魅力的だった。それに親切な人たちばかりでいろいろと進んで世話をしてくれた。
やっぱりはじめは皆、分からない言葉だったり、髪の毛や眼の色の違う外国人であるということが無気味だった。
しかしすぐに「なァんだ、俺たちと同じ人間ではないか」ということがわかった。
難破のことが知れ渡ると、村の人たちが沢山集ってきた。そこは日本の漁場などがある所とは遠くかけ離れた地だった。
彼らはそこに二日いて身体を休めさせ、そして帰ってきたのだった。帰ってきたくはなかった。誰がこんな地獄に帰りたいだろうか!
が、彼らの話はそれだけで終わってはいない。面白いことがその外に隠されていた。
* * *
ちょうど帰る日だった。彼らがストーブのまわりで身支度をしながら話をしていると、ロシア人が四、五人入ってきた。
——中に中国人が一人交っていた。——顔が大きくて、赤く短い髭の多い、少し猫背の男が、いきなり何か大声で手振りをして話し出した。
船頭は自分たちがロシア語は分らないのだということを知らせるために、眼の前で手を振ってみせた。ロシア人が一区切り言い切ると、その口元を見ていた中国人は日本語をしゃべり出した。それは聞いているこっちの頭のほうが、かえってゴチャゴチャになってしまうような、順序の狂った日本語だった。
言葉と言葉が酔っ払いのように、散り散りによろめいていた。
「あなた方、お金キット持っていない」
「そうだ」
「あなた方、貧乏人」
「そうだ」
「だから、あなた方、プロレタリア。——ワカル?」
「うん」
ロシア人が笑いながら、その辺を歩き出した。時々立ち止って、彼らの方を見た。
「金持ち、あなた方をこれする。(首を締める真似をする)
金持ちだんだん大きくなる。(腹のふくれる真似)
あなた方どうしても駄目、貧乏人になる。
——ワカル?
——日本の国、駄目。働く人、これ(顔をしかめて、病人のような恰好)
働かない人、これ。えっへん、えっへん。(威張って歩いてみせる)」
それらが若い漁夫には面白かった。「そうだ、そうだ!」といって、笑い出した。
「働く人、これ。働かない人、これ。(顔をしかめるのと威張っているのを繰り返して)そんなの駄目。
——働く人、これ。(今度は逆に、胸を張って威張ってみせる)
働かない人、これ。(年取った乞食のような恰好)
これよろし。——ワカル?
ロシアの国、この国。働く人ばかり。働く人ばかり、これ。(威張る)
ロシア、働かない人いない。ずるい人いない。人の首しめる人いない。
——ワカル?
ロシアちっとも恐ろしくない国。みんな、みんなウソばかりいって歩く」
彼らは漠然と、これが恐ろしい「赤化」というものではないだろうか、と考えた。が、それが赤化なら、馬鹿みたいに当たり前のことであるような気が一方でしていた。
しかし何よりグイグイと引きつけられていった。
「分かる、本当に分かる!」
ロシア人同士が二、三人ガヤガヤ何かしゃべりだした。中国人はそれをきいていた。それからまた、吃りながら、日本の言葉を一つ一つ拾いながら話した。
「働かないで、お金儲ける人いる。
プロレタリア、いつでも、これ。(首をしめられる恰好)
——これ、駄目!プロレタリア、あなた方、一人、二人、三人……百人、千人、五万人、十万人、みんな、みんな、これ(子供のお手々つないで、の真似をしてみせる)
強くなる。大丈夫。(腕をたたいて)
負けない、誰にも。ワカル?」
「んだ、んだ!」
「働かない人、逃げる。(一散に逃げる恰好)
大丈夫、本当。働く人、プロレタリア、威張る。(堂々と歩いてみせる)
プロレタリア、一番偉い。
——プロレタリア居ない。みんな、パン無い。みんな死ぬ。
——ワカル?」
「うん、んだ!」
「日本、まだ、まだ駄目。
働く人、これ。(腰をかがめて縮こまってみせる)
働かない人、これ。(威張って、相手をなぐり倒す恰好)
それ、みんな駄目!働く人、これ。(すごい形相で立ち上る、突っかかって行く恰好。相手をなぐり倒し、踏んづける真似)
働かない人、これ。(逃げる真似)
——日本、働く人ばかり、いい国。
——プロレタリアの国!
——ワカル?」
「ん、んだ。分かる!」
ロシア人が大きな声をあげながら、ダンスのような足踏みをした。
「日本、働く人、やる。(立ち上って、刃向う恰好)
うれしい。ロシア、みんな嬉しい。バンザイ。
——あなた方、船へ帰る。
あなた方の船、働かない人、これ。(威張る)
あなた方、プロレタリア、これ、やる!(拳闘のような真似——それからお手々つないでをやり、また突っかかって行く恰好)
——大丈夫、勝つ!
——ワカル?」
「分かる!」知らないうちに興奮していた若い漁夫が、いきなり中国人の手を握った。
「やるよ、きっとやるよ!」
船頭は、これが赤化だと思っていた。馬鹿に恐ろしいことをやらせるものだ。これで——このやり口で、ロシアが日本をまんまと騙すんだ、と思った。
ロシア人たちは終わると、何か歓声をあげて、彼らの手を力一杯握った。抱きついて、硬い毛の頬をすりつけたりした。面食らった日本人は、首を後に硬直させて、どうしていいか分らなかった……。
* * *
皆は、「糞壺」の入口に時々眼をやり、その話をもっと、もっと、と促した。彼らは、それから見てきたロシア人のことをいろいろと話した。そのどれもが墨が吸取紙に吸われるように、皆の心に入りこんだ。
「おい、もうよせよ」
船頭は、皆が変に前のめりになってその話に引き入れられているのを見て、一生懸命しゃべっている若い漁夫の肩を突っついた。
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