第10話 漁夫①

靄が降りていた。いつ見ても変わることなく精緻に入り組んでいる通風パイプ、煙筒チムニー、ウインチの腕、吊り下がっている川崎船やデッキの手すりなどが、薄ぼんやり輪廓をぼかして、今までになく親しみをもって見えていた。柔らかい、生ぬるい空気が、頬を撫でて流れる。

——こんな夜はめずらしかった。


船尾のハッチ近くは蟹の脳味噌の匂いがムッとくる。

網が山のように積みあがっている合間に、高さ違いの二つの影が佇んでいた。

過労から心臓を悪くして、身体が青や黄色にむくんでいる漁夫が、ドキドキとくる心臓の音でどうしても寝られず、甲板に上ってきた。手すりにもたれて、糊でも溶かしたようにトロっとしている海をぼんやり見ていた。この身体ではそのうち監督に殺される。しかし、それにしては、この遠いカムチャッカで、しかも陸も踏めずに死ぬのは淋し過ぎる。

——すぐに考え込んでしまった。


その時、網と網の間に、誰かいるのに漁夫が気付いた。蟹の甲殻の欠片をときどき踏むらしく、その音がした。

ひそめた声が聞こえてきた。漁夫の眼が慣れてくると、それが分ってきた。

十四、五歳の雑夫に漁夫が何か言っているのだった。何を話しているのかは分らなかった。後向きになっている雑夫は、時々、イヤイヤをしている子供が拗ねるように、向きをかえていた。それにつれて、漁夫もその通り向きをかえた。それが少しの間続いた。漁夫のほうが思わず高い声を出したようだった。が、すぐ低く、早口に何か言った。と、いきなり雑夫を抱きすくめてしまった。


喧嘩だナ、と思った。着物で口を抑えられた「むふ、むふ……」という漏れる息だけが、ちょっとのあいだ聞えていた。しかし、そのまま動かなくなった。


——その瞬間だった。柔らかい靄の中に、雑夫の二本の足がローソクのように浮かんだ。下半分が、すっかり裸になってしまっている。それから雑夫はそのまましゃがんだ。と、その上に、漁夫がガマのように覆いかぶさった。それだけが眼の前で、短い——グッと喉につかえる間もなくに行われた。

見ていた漁夫は思わず眼をそらした。酔わされたような、殴られたような興奮をドクドクと感じた。


* * *


漁夫たちはだんだんと内から膨れ上ってくる性欲に悩まされだしてきていた。四カ月も、五カ月も不自然にこの頑丈な男たちが女から離されていた。——函館で買った女の話や、露骨な女の陰部の話が、夜になると決まって出た。一枚の春画がボサボサに毛羽立つほど、何度も何度もグルグル回された。


床とれの、

こちら向けえの、

口すえの、

足をからめの、

気をやれの、

ホンに、つとめはつらいもの。


(添い寝しろだの、

こっちを向けだの、

口を吸えだの、

足を絡めろだの、

もっと悦べだの、

本当に、夜のおつとめはつらいものだわ…)


…………


誰かが歌った。すると、たった一度で、その歌が海綿にでも吸われるように、皆に覚えられてしまった。どうかするとすぐそれを歌い出した。そして歌ってしまってから、「ええィ、畜生!」と、ヤケになって叫んだ。眼だけ光らせて。


漁夫たちは寝てしまってから、「畜生、困った!どうしたって眠れないや」と、身体をゴロゴロさせた。「駄目だ、伜がたって仕方がねェ!」

「どうしたらええんだ!」——しまいには、そう言って、勃起したまま睾丸を握りながら、裸で起き上ってきた。大きな身体の漁夫の、そうするのを見ると、身体のしまる、何か凄惨な気さえした。度肝を抜かれた学生は、眼だけで隅の方から、それを見ていた。


夢精をするのが何人もいた。誰もいないとき、たまらなくなって自慰をする者もいた。——棚の隅に跡のついた汚れた猿股や褌が、しめっぽく、すえた臭いをしてまるめられていた。学生はそれを野糞のように踏みつけることがあった。


——それから、雑夫の方へ夜這いがはじまった。煙草をキャラメルに換えて、ポケットに二つ三つ入れると、ハッチを出て行った。

便所臭い、漬物樽の積みあがった物置をコックが開けると、薄暗い、ムッとする中から、いきなり横っ面でも殴られるように怒鳴られた。

「閉めろっ!今、入ってくると、この野郎、叩き殺すぞ!」

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