第11話 漁夫②

無線係が、他船の交換している無線を聞いて、他船の収獲量をいちいち監督に知らせた。それでみると、本船がどうも負けているらしいことが分かってきた。監督が焦りだした。すると、焦りは即座に何倍かの強さになって、漁夫や雑夫にぶちあたってきた。

——いつでも、そして何でも、ドン詰りの吐きだし先が彼らだった。


監督や雑夫長はわざと「船員」と「漁夫、雑夫」との間で、仕事の上で競争させるように仕組んだ。

同じ蟹つぶしをしていながら、「船員に負けた」となると自分の儲けになる仕事でもないのに漁夫や雑夫は「何にクソっ!」という気になる。監督は手を打って喜んだ。今日は勝った、今日は負けた、今度こそ負けるもんか——血の滲むような日が滅茶苦茶に続く。

同じ日のうちに、生産量は今までより五、六割も増えていた。


しかし五日、六日と経つと、両方とも気が抜けたように、仕事の生産高がどんどん減っていった。仕事をしながら、眠気で時々ガクリと頭を前に落したものがいると、監督は何も言わないで殴りつけた。不意をくらって、彼らは自分でも思いがけない悲鳴を「ギャッ!」とあげた。

——皆、まわりは敵どうしか、言葉を忘れてしまった人のように、お互いに黙りこくって働いた。何かものを言うだけのぜいたくな余力さえ残っていなかった。


監督はしかし今度は、勝った組に賞品を出すことをはじめた。燻ぶっていた木がまた燃え出した。


「他愛もないものさ」監督は、船長室で、船長を相手にビールを飲んでいた。

船長は肥えた女のように、手の甲にえくぼが出ていた。器用に紙巻煙草をトントンとテーブルに叩いて、何を考えているのか見当のつかない笑顔で応えた。——船長は、監督がいつも自分の眼の前でうろうろと邪魔をしているようで、たまらなく不快だった。漁夫たちがワッーと騒動を起して、こいつをカムチャッカの海へ叩き落すようなことでもないかな、そんなことを考えていた。


監督は賞品のほかに、逆に一番働きの少ない者に焼きを入れることを紙に貼りだした。鉄棒を真っ赤に焼いて、身体にそのまま当てるとのことだった。彼らはどこまで逃げても離れない、まるで自分自身の影のような焼きに始終追いかけられながら仕事をした。出来高が尻上りに、目盛りをあげて行った。


人間の身体にはどのくらいの限度があるのだろうか。それは当の本人よりも監督の方がよく知っていた。——仕事が終わって、丸太棒のように棚の中に横倒れに倒れると、期せずして「うっ、うー」とうめいた。

学生の一人は、小さいころに祖母に連れられて、お寺の薄暗いお堂の中で見たことのある地獄の絵が、そのままこうであったことを思い出した。それは、小さいころの彼に、ちょうどウワバミのような動物が沼地ににょろにょろと這っているのを思わせた。それとそっくり同じだった。


——過労がかえって皆を眠らせない。夜中過ぎて、突然、ガラスの表面に思い切り傷を付けるような無気味な音の歯ぎしりが起こったり、寝言や、うなされているらしい突調子な叫び声が、薄暗い「糞壺」のあちこちから起った。

彼らは寝られずにいるとき、ふと、「よく、まだ生きているな……」と自分で自分の生身の身体に囁き返すことがある。よく、まだ生きている。——そう自分の身体に!


学生あがりは一番こたえていた。

「ドストエフスキーの『死の家の記録』も、ここから見れば、あれだってたいしたことでないって気がする」——その学生は、便通が何日も止まって、頭を手拭で力一杯に締めないと眠れなかった。

「そりァ、そうだろう」相手は函館からもってきたウイスキーを、薬でも飲むように、舌の先で少しずつ嘗めていた。

「何しろ大事業だからな。人跡未到の地の富源を開発するってんだから、大変だよ。

——この蟹工船だって、今はこれで良くなったそうだよ。天候や潮流の変化の観測ができなかったり、地理が完全にマスターされていなかったりした創業当時は、幾ら船が沈没したりしたか分からなかったそうだ。ロシアの船には沈められる、捕虜になる、殺される、それでも屈しないで、立ちあがり、立ちあがり苦闘してきたからこそ、この大富源が俺たちのものになったのさ。

……まァ仕方がないさ」

「…………」


——歴史がいつでも書いているように、それはそうかも知れない。しかし、彼の心の底にわだかまっているムッとした気持ちが、それではちっとも晴れない。彼は黙ってベニヤ板のように固くなっている自分の腹を撫でた。弱い電気に触れるように、親指のあたりがチクチクと痺れる。イヤな気持ちがした。親指を眼の高さにかざして、片手でさすってみた。


——皆は、夕飯が終わって、「糞壺」の真ん中に一つ取りつけてある、入り組んだ割れ目がまるで地図のようにみえるガタガタのストーブに寄っていた。お互いの身体が少し温まってくると、湯気が立った。蟹の生臭い匂いがムレて、ムッと鼻にきた。

「何だか、理屈は分らねえけれども、殺されたくねえで」

「んだよ!」

憂鬱とした気持ちが、もたれかかるようにそこへ雪崩れていく。殺されかかっているんだ!皆はハッキリした焦点もなしに、怒りっぽくなっていた。


「お、俺だちの、も、ものにもならないのに、ク、クソッ、こっ殺されてたまるもんか!」

吃りの漁夫が、自分でももどかしく、顔を真赤に筋張らせて、急に、大きな声を出した。

ちょっと皆が黙った。不意に何かにグイと心を突き上げられたのを感じた。

「カムチャッカで死にたくないな……」

「…………」

「中積船、函館ば出たとよ。——無線係の人、言ってた」

「帰りてえな」

「帰れるもんか」

「中積船で逃げる奴がよくいるってな」

「んか!?……ええな」

「漁に出るふりして、カムチャッカの陸さ逃げて、ロシア野郎と一緒に赤化宣伝をやってるものもいるってな」

「…………」

「日本帝国のためか、——こりゃまた、いい建前を考えたもんだ」


——学生は胸のボタンを外して、階段のようにひとつひとつ窪みのできている胸を出して、あくびをしながら、ゴシゴシ掻いた。垢が乾いて、薄い雲母のように剥がれてきた。

「んよ、か、会社の金持ちばかりが、ふ、ふんだくるくせに」

牡蠣の殻のように、段々がついて弛んだ瞼から、弱々しい濁った視線をストーブの上にボンヤリ投げていた中年を過ぎた漁夫が、唾をはいた。唾はストーブの上に落ちると、それがクルクルとまんまるになって、ジュウジュウいいながら、豆のように跳ね上って、見る間に小さくなり、油煙の粒子ほどの小さいカスを残してなくなった。

皆はそれにうつろな視線を投げつけている。


「それ、本当かも知れないな」

しかし、船頭が、ゴム底足袋の裏の赤い毛布生地側を出して、ストーブにかざしながら、「おいおい反乱なんかしないでけれよ」と言った。

「…………」

「こっちの勝手だべよ。クソッ」吃りが唇を蛸のように突き出した。

ゴムの焼けかかっているイヤな臭いがした。

「おい、オヤジ、ゴム!」

「ん?あ、焦げた!」

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