第12話 漁夫③

波が出て来たらしく、船腹サイドに波があたり、微かに鳴ってきた。船も子守唄ほどに揺れている。腐った鬼灯ほおずきのような常夜灯が、ストーブを囲んでいるお互いの背後に、さまざまにもつれあった影を落とした。

——静かな夜だった。

ストーブの口から赤い火が、膝から下をチラチラと照らしていた。不幸だった自分の一生が、ひょいと——まるっきり、ひょいと、しかも一瞬間だけ見返される。

——不思議に静かな夜だった。


「煙草ねえか?」

「無え……」

「ねえか?……」

「なかったな」

「クソッ」

「おい、ウイスキーをこっちにも回せよ、な」

相手は角瓶を逆さに振ってみせた。

「おっと、もったいねえことするなよ」

「ハハハハハハハ」

「しかし、とんでもねえところに来たもんだな、俺も……」

その漁夫は芝浦の工場にいたことがあった。


そこの話がそれから出た。それは北海道の労働者たちには工場だとは想像もっかない立派なところに思われた。「ここの百に一つくらいのことがあったって、あっちじゃストライキだよ」と言った。

その話からきっかけで、お互いの今までしてきたいろいろな労働のことが、ひょいひょいと話題に出てきた。「国道開拓工事」「灌漑工事」「鉄道敷設」「築港埋立て」「新鉱発掘」「開墾」「積取人夫」「にしん取り」——ほとんど皆、そのどれかをしてきていた。


——内地では労働者が横柄になって無理がきかなくなり、市場もだいたい開拓されつくして行き詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」と鉤爪をのばした。そこでは、彼らは朝鮮や台湾の植民地と同じように、面白いほど無茶な酷使ができた。しかも、誰も何も言えないことを、資本家ははっきり呑み込んでいた。

国道開拓・鉄道敷設の土方部屋では、虱より無雑作に土方が叩き殺された。酷使に堪えられなくて逃亡する。それが捕まると、柱に縛り付けておいて、馬の後足で蹴らせたり、裏庭で土佐犬に噛み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨が胸の中で折れるボクッ、とこもった音をきいて、人でなしの土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば水をかけて活を入れさせ、それを何度も何度も繰りかえした。しまいには土佐犬の強靱な首で、風呂敷包みのように振り回わされて死ぬ。ぐったり広場の隅に投げ出されて、放って置かれてからも、身体のどこかが、ピクピクと動いていた。

焼けた火箸をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくなるほど殴りつけることは毎日だった。飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫び声が起こる。すると、人の肉が焼ける生臭い匂いが流れてきた。

「やめた、やめた。——とても飯なんて、食えたもんじゃねえや」

箸を投げる。お互い暗い顔で見合った。


脚気では何人も死んだ。無理に働かせるからだった。死んでも埋葬する暇がないので、そのまま何日も放って置かれた。裏へ出る暗がりに、無雑作にかけてあるムシロの裾から、子供のように妙に小さくなった、土気色で艶のない両足だけが見えた。

「顔にいっぱい蠅がたかっているんだ。そばを通ったとき、いっせいにワアーンと飛び上るんじゃないかと!」

額を手でトントンと叩きながら入ってくるなり、そう言ってくる者があった。


皆、朝の暗いうちに仕事場に出された。そして日が暮れて手元が見えなくなり、ツルハシの先だけがチラッ、チラッと青白く光るだけになる頃まで働かされた。近所に建っている監獄で働いている囚人の方が、かえって羨しかった。とくに朝鮮人は親方、班長からも、同じ仲間の日本人の土方からも踏んづけるようなひどい待遇をうけていた。


そこから四、五里も離れた村に駐在している巡査が、それでもときどき手帳をもって、取り調べにテクテクとやってくる。夕方までいたり泊りこんだりした。しかし土方たちの方へは一度も顔を見せなかった。そして、帰りには真っ赤な顔をして、歩きながら道の真ん中を、消防の真似でもしているように、小便を四方にジャージャーやりながら、分からない独り言をいって帰って行った。


北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木も、それはそのまま一本一本が労働者の青くむくれた死骸の枕だった。築港の埋立地には、脚気の土工が生きたまま人柱のように埋められた。

——北海道のそういう労働者をタコと言っている。タコは自分が生きていくためには自分の手足をも食ってしまう。これこそ、全くそっくりではないか!そこでは誰にも憚られない原始的な搾取ができた。掘れば掘るほど儲けがゴッソリかえってきた。そして、そのことを巧みに国家的富源の開発ということに結びつけて、まんまと合理化していた。抜け目がなかった。国家のために、労働者は腹が減り、叩き殺されていった。


「あそこから生きて帰れたなんて、神の助けごとだよ。ありがたかったな!んでも、この船で殺されてしまったら、同じだべよ。——なんでもありゃしない!」そして突調子もなく大きく笑った。その漁夫は笑ってしまってから、しかし眉のあたりをはっきりと暗くして、横を向いた。


鉱山やまでも同じだった。——新しい山に坑道を掘る。そこにどんなガスが出るか、どんなどんでもない変化が起こるか、それを調べあげて一つの確証を得るために、資本家はモルモットより安く買える労働者を、乃木軍神が旅順でやったのと同じ方法で、入れ替わり立ち替わり雑作なく使い捨てた。鼻紙より無雑作に!マグロの刺身のような労働者の肉片が、坑道の壁を幾重にも幾重にも丈夫にしていった。

都会から離れていることを好都合に、ここでもやはりゾッとすることが行われていた。トロッコで運んでくる石炭の中に親指や小指がときにバラバラに、ときにまとまって混じってくることがある。女や子供はそんなことにはしかし眉を動かしてはならなかった。そう慣らされていた。彼らは無表情にそれを次の持ち場まで押してゆく。

——その石炭が巨大な機械を、資本家の利潤のために動かした。


どの坑夫も、長く監獄に入れられた人のように、艶のない黄色くむくんだ、始終ぼんやりした顔をしていた。日光の不足と粉塵と有毒ガスを含んだ空気と温度と気圧の異常とで、眼に見えて身体がおかしくなってゆく。「七、八年も坑夫をしていれば、およそ四、五年間くらいはぶっ続けに真っ暗闇の底にいて、一度だって太陽を拝まなかったことになる、四、五年も!」

——だが、どんなことがあろうと、代わりの労働者をいつでも沢山仕入れることのできる資本家には、そんなことはどうでもいいことであった。冬が来ると、やはり労働者はその坑山に流れ込んで行った。


それから「入地百姓」——北海道には移民百姓がいる。北海道開拓、人口食糧問題解決、移民奨励、日本少年式な移民成金など、うまいことばかり並べた活動写真を使って、田畑を奪われそうになっている内地の貧農を煽動して、移民を奨励しておきながら、いざ入植すれば、四、五寸も掘り返せば、下が粘土ばかりの土地に放り出される。豊饒な土地には、もう誰かの立札が立っている。雪の中に埋められて、馬鈴薯も食えずに、一家は次の春には餓死することがあった。それは事実、何度もあった。雪が溶けた頃になって、一里も離れている隣の人がやってきて、はじめて餓死しているのが発見されるのだ。口の中から、半分飲み込みかけの藁くずが出てきたりした。


まれに餓死から逃れることができても、その荒れ地を十年もかかって耕し、ようやくこれで普通の畑になったと思えるころ、実はその土地さえもちゃんと他の人のものになるようになっていた。

資本家は——高利貸、銀行、華族、大金持ちは、詐欺のような金の貸しかたをしておけば、荒れ地を投げ捨てておくだけで、肥えた黒猫の毛並のように豊饒な土地になって、間違いなく、自分のものになって返ってきた。そんな事を真似て、濡れ手を決めこむ、目の鋭い人間もまた北海道に入り込んできた。

——百姓は、あっちからも、こっちからも自分のものを噛みとられていった。そしてしまいには、彼らが内地でそうされたと同じように小作人にされてしまっていた。そうなって百姓は始めて気付いた。——「しまった!」


彼らは少しでも金を作って、故里こきょうの村に帰ろう、そう思って、津軽海峡を渡って、雪の深い北海道へやってきたのだった。

——蟹工船にはそういう、自分の土地を他人に追い立てられて来たものが沢山いた。


積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付きの小樽の下宿屋にゴロゴロしていると、樺太や北海道の奥地へ船で引きずられて行く。足をちょっとすべらすと、ゴンゴンと唸りながら、地響きをたてて転落してくる角材の下敷きになって、南部煎餅よりも薄く潰された。ガラガラとウインチで船に積まれていく、水で皮がペロペロになっている材木が揺れた拍子に、ひと殴り食らった人間が、頭を潰されて蚤の子よりも軽く海の中へ叩き込まれた。

——内地では、いつまでも黙って、まだ殺されていないだけという労働者もひとかたまりに固まって、資本家へ反抗している。しかし植民地の労働者は、そういう事情から完全に遮断されていた。


苦しくて、苦しくてたまらない。しかし転んで歩けば歩くほど、雪ダルマのように苦しみを身体に背負い込んだ。

「どうなるかな……?」

「殺されるのさ、分かってるべよ」

「…………」何か言いたげな、しかしグイとつまったまま、皆、黙った。

「こ、こ、殺される前に、こっちから殺してやるんだ」吃りがぶっきらぼうに投げつけた。

トブン、ドブンとゆるく船腹サイドに波があたっている。上甲板の方で、どこかのパイプから蒸気が漏れているらしく、シー、シーン、シーンという鉄瓶のたぎるような、柔らかい音が絶えずしていた。


寝る前に、漁夫たちは垢でスルメのようにヨレヨレになったメリヤスやネルのシャツを脱いで、ストーブの上に広げた。囲んでいる者たちが、炬燵のように各々その端を持って、熱くしてからバタバタとはらった。ストーブの上に虱や南京虫が落ちると、プツン、プツンと、音をたてて、人が焼けるときのような生臭い臭いがした。熱くなると、たまらなくなった虱が、シャツの縫目から、細かい沢山の足を夢中に動かして出てくる。つまみ上げると、皮膚の脂っぽいコロっとした身体の感触がぞっときた。カミキリ虫のような、無気味な頭が、それと分かるほど肥えているのもいた。


「おい、端を持ってけれ」

褌の片端を持ってもらって、広げながら虱をとった。

漁夫は虱を口に入れて、前歯で音をさせて潰したり、両方の親指の爪で、爪が真赤になるまで潰した。子供が汚い手をすぐ着物に拭くように、はんてんの裾にぬぐうと、またはじめた。

——それでもしかし眠れない。どこから出てくるか、夜通し虱と蚤と南京虫に責められる。いくらどうしても退治し尽せなかった。薄暗く、ジメジメしている棚に立っていると、すぐモゾモゾと何十匹もの蚤が脛を這い上ってきた。しまいには、自分の体のどこかが腐ってでもいるのか、と思った。蛆や蠅に取りつかれている腐乱した死体ではないか、そんな不気味さを感じた。


お湯には、はじめ一日おきに入れた。身体が生臭く、汚れて仕方がなかった。しかし一週間もすると、三日おきになり、一カ月くらい経つと、一週間に一度。そしてとうとう月二回にされてしまった。水の浪費を防ぐためだった。しかし、船長や監督は毎日お湯に入った。それは浪費にはならなかった。(!)——身体が蟹の汁で汚れる、それがそのまま何日も続く、それで虱か南京虫が湧かない筈がなかった。


褌を解くと、黒い粒々がこぼれ落ちた。褌を締めたところに赤く跡がついて、腹に輪を作った。そこがたまらなく掻かった。寝ていると、ゴシゴシと身体をやけに掻く音がどこからも起った。モゾモゾと小さいゼンマイのようなものが、身体の下側を走るかと思うと——刺す。そのたびに漁夫は身体をくねらし、寝返りを打った。しかしまたすぐ同じだった。それが朝まで続く。皮膚が皮癬病のように、ザラザラになった。

「死に虱だべよ」

「んだ、ちょうどええさ」

仕方なく、笑ってしまった。

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