第13話 反発①

慌てた漁夫が二、三人デッキを走って行った。

曲り角で、急にまがれず、よろめいて、手すりにつかまった。サロン・デッキで修繕をしていた大工が背のびをして、漁夫の走って行ったほうを見た。吹きさらす寒風で、涙が出て、はじめよく見えなかった。大工は横を向いて勢いよく手で鼻をかんだ。鼻水が風にあおられて、歪んだ線を描いて飛んだ。


船首の左舷のウインチがガラガラと鳴っている。皆が漁に出ている今、それを動かしている理由がなかった。ウインチには何かぶら下がっていた。それが揺れている。吊り下げているワイヤーが、円錐状に、ゆるく円を描いて揺れていた。「何だべ?」——その時、ドキっと来た。

大工は慌てたように、もう一度横を向いて鼻をかんだ。それが風の具合でズボンにひっかかった。トロっとした薄い鼻水だった。

「また、やってやがる」大工は涙を何度も腕で拭いながら眼をやった。


こっちから見ると、雨あがりのような銀灰色の海をバックに、突き出ているウインチの腕、それにすっかり身体を縛られて、吊し上げられている雑夫が、ハッキリ黒く浮びあがってみえた。ウインチの先端まで空を上ってゆく。そして雑巾切れでもひっかかったように、しばらくの間——二十分もそのままに吊下げられている。それから下がっていった。身体をくねらして、もがいているらしく、両足が蜘蛛の巣にひっかかった蠅のように動いている。

やがて手前のサロンの陰になって見えなくなった。一直線に張っていたワイヤーだけが、時々ブランコのように動いた。


涙が鼻に入ってゆくらしく、鼻水がしきりに出た。大工はまた鼻をかんだ。それから横ポケットにブランブランしている金槌を取って、仕事にかかった。

大工はひょいと耳をすまして——振りかえって見た。ワイヤ・ロープが、誰か下で振っているように揺れていて、ボクンボクンと鈍い不気味な音はそこからしていた。

ウインチに吊された雑夫は顔の色が変っていた。死体のように堅く閉ざされた唇から、泡を出していた。大工が降りて行ったとき、雑夫長が薪を脇にはさんで、片肩を上げた窮屈な恰好で、デッキから海へ小便をしていた。あれで殴ったんだな、大工は薪をちらっと見た。小便は風が吹くたびに、ジャッジャッとデッキの端にかかって、はね飛ばされていた。


漁夫たちは何日も何日も続く過労のために、だんだん朝起きられなくなった。監督が石油の空き缶を寝ている耳もとで叩いて歩いた。眼を開けて起き上るまで、ヤケになって缶を叩いた。脚気の者が、頭を半分上げて何か言っている。しかし監督は見ないふりで、空き缶を叩くのをやめない。

声が聞こえないので、金魚が水際に出てきて、空気を吸っているときのように、口だけパクパク動いてみえた。


うんざりするほど叩くと、

「どうしたんだ、叩き起すど!」と怒鳴りつけた。

「卑しくも仕事が国家的である以上、戦争と同じなんだ。死ぬ覚悟で働け!馬鹿野郎」


病人は皆、布団を剥ぎとられて、甲板へ押し出された。脚気のものは階段の段々で足先がつまずいた。手すりにつかまりながら、身体を斜めにして、自分の足を自分の手で持ち上げて、階段を上がった。心臓が一足ごとに無気味にピンピン蹴るようにはね上った。

監督も、雑夫長も、病人には継子にでも対するように苛立った様子で陰険だった。缶詰め作業をしていると追い立てて、甲板で「爪たたき」をさせられる。それをちょっとしていると紙巻作業へ回わされる。


底寒くて、薄暗い工場の中で滑る足元に気をつけながら、立ちつくしていると、膝から下は義足に触ったかのように無感覚になり、ひょいとすると膝の関節が、蝶番が外れたかのように、不覚にヘナヘナと坐り込んでしまいそうになった。


学生が蟹を潰して汚れた手の甲で、額を軽く叩いていた。ちょっとすると、そのまま横倒しに後へ倒れてしまった。その時、そばに積んでいた缶詰の空罐が大きな音をたてて、学生の倒れた上に崩れ落ちた。それが船の傾斜に沿って、機械の下や荷物の間に、光りながらころころと転がっていった。仲間が慌てて学生をハッチに連れて行こうとした。それがちょうど、監督が口笛を吹きながら工場に降りてきたところで、ばったり出会った。


ひょいと見ると、「誰が仕事を離れろと言ったんだ!」

「誰が!?……」思わずグッときた一人が、肩でつっかかるように咳込んだ。

「誰がァ——?この野郎、もう一度言ってみろ!」監督はポケットからピストルを取り出して、玩具のようにいじり回わした。それから、急に大声で、口を三角にゆがめながら、背のびをするように身体をゆすって笑い出した。

「水を持って来い!」

監督は桶一杯の水を受取ると、枕木のように床に置き捨てになっている学生の顔に、いきなり、一度に!それを浴せかけた。

「これでええんだ。——要らないものなんか見なくてもええ、仕事でもしやがれ!」

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