第14話 反発②

次の朝、雑夫が工場に降りて行くと、旋盤の鉄柱に、前の日の学生が縛りつけられているのを見た。首をひねられた鶏のように、首をガクリ胸に落し込んで、背筋の先端に大きな関節を一つポコンと露わにみせていた。そして胸に、子供の前掛けのように、明らかに監督の筆致で、


「此者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄ヲ解クコトヲ禁ズ」

と書いたボール紙を吊していた。


額に手をやってみると、冷えきった鉄に触るより冷たくなっている。雑夫たちは工場に入るまで、ガヤガヤしゃべっていた。それが今は誰も口をきくものがない。後から雑夫長が降りてくる声をきくと、彼らはその学生の縛られている機械から二つに分れて各々の持ち場に流れて行った。


蟹漁が忙しくなると、監督はヤケにあってくる。前歯を折られて、一晩中、血の唾を吐いたり、過労で作業中に卒倒したり、眼から血を出したり、平手で滅茶苦茶に叩かれて、耳が聞えなくなったりした。あんまり疲れてくると、皆は酒に酔ったよりも前後不覚になった。


時間がきて「これでいい」と言われると、ふと安心して、その瞬間クラクラっとした。

皆が作業を仕舞かけると、

「今日は九時までだ」と監督が怒鳴って歩いた。「この野郎たち!仕舞いだっていうときだけ、手じまいをさっさとしやがって!」


皆はコマ送りのようにノロノロとまた立ち上った。それしか気力がなくなっていた。

「いいか、ここへは二回も、三回も出直して来れるところじゃないんだ。それにいつだって蟹が獲れるとも限ったものでもないんだ。それを一日の働きが十時間だから十三時間だからって、それでやめられたら、とんでもないことになるんだ。——仕事の性質が違うんだ。いいか、そのかわり蟹が獲れないときは、お前たちを勿体ないほどブラブラさせておくんだ」


監督は「糞壺」へ降りてきて、そんなことをいった。「ロシア野郎はな、魚がなんぼ眼の前で大群できても、時間がくれば一分も違わずに、仕事をブン投げてしまうんだ。そんだから——そんな心掛けだからロシアの国がああなったんだ。日本男児は断じて真似てならないことだ!」


何に言ってるんだ、ペテン野郎!そう思って聞いていない者もあった。しかし大部分は監督にそう言われると日本人はやはり偉いんだ、という気持ちにさせられた。そして自分たちの毎日の残虐な苦しさが、何か英雄的なものに見え、それがせめてもの皆の慰めとさせた。

甲板で仕事をしていると、よく水平線を横切って、駆逐艦が南下して行った。後尾に日本の旗がはためくのが見えた。漁夫たちは興奮から、眼に涙を一杯ためて、帽子をつかんで振った。

——あれだけだ。俺たちの味方は、と思った。

「畜生、あいつを見ると、涙が出やがる」

だんだん小さくなって、煙がまとわって見えなくなるまで見送った。


ボロ切れのように、クタクタになって帰ってくると、皆は思い合わせたように相手もなく、ただ「畜生!」と怒鳴った。暗がりで、それは憎悪に満ちた牡牛の唸り声に似ていた。誰に対しての怒りか彼ら自身が分かってはいなかったが、しかし毎日毎日、同じ「糞壺」の中にいて、二百人近くの者たちがお互いにぶっきらぼうに喋りあっているうちに、眼に見えずに、考えること、言うこと、することが、(ナメクジが地面を這うほどののろさだが)同じになっていった。

——その同じ流れのうちでも、もちろん澱んだように足踏みをする者がでてきたり、別な方へ逸れて行く中年の漁夫もいる。しかしその誰もが、自分では何にも気付かないうちに、そうなっていき、そしていつの間にか、ハッキリ分かれ分かれになっていた。


朝だった。タラップをノロノロあがりながら、炭山から来た男が、「とても続かねえや」といった。

前の日は十時近くまでやって、身体は壊れかかった機械のようにギクギクしていた。タラップをあがりながら、ひょいと気を抜くと眠っていた。後から「オイ」と声をかけられて思わず手と足を動かす。そして、足を踏み外して、つんのめったって腹ん這いになった。


仕事に就く前に、皆が工場に降りて行って片隅に溜った。どれも泥人形のような顔をしている。

「俺ァ仕事サボるんだ。できねえ」——炭山だった。

皆も黙ったまま、顔を動かした。

ちょっとして、

「大焼きが入るからな……」と誰かいった。

「ズルしてサボるんでねえんだ。働けねえからだよ」

炭山が袖を二の腕までまくり上げて、眼の前で透かして見るようにかざした。

「長げえことねえんだ。——俺ァ、ずるしてサボるじゃねえんだど」

「それだら、そんだ」

「…………」


その日、監督は鶏冠をピンと立てた闘鶏のように、工場を回って歩いていた。「どうした、どうした!?」と怒鳴り散らした。が、ノロノロと仕事をしているのが一人、二人ではなく、あっちでも、こっちでも——ほとんど全部なので、ただイライラ歩き回ることしかできなかった。

漁夫たちも船員もそういう監督を見るのははじめてだった。上甲板で、網からはずれた無数の蟹が、ガサガサと歩く音がした。通りの悪い下水道のように、仕事がドンドン詰まっていった。しかし監督の棍棒が何の役にも立たない!

仕事が終わってから、汗で染まった手拭で首を拭きながら、皆ゾロゾロ「糞壺」に帰ってきた。顔を見合うと、思わず笑い出した。それがなぜか分からずに、おかしくて、おかしくて仕方がなかった。


それが船員の方にも伝染うつっていった。船員を漁夫とにらみ合って仕事をさせ、馬鹿をみせられていたことがいい加減に分かると、彼らもときどきサボリ出した。

「昨日ウンと働き過ぎたから、今日はサボだど」

仕事のはじまりに、誰かそういうと、皆そうなった。しかしサボといっても、ただ身体を楽に使うということでしかなかったが。

誰だって身体がおかしくなっていた。いざとなったら仕方がない。やるだけさ。どっちみち殺されるなら同じことだ。そんな考えが皆にあった。——ただ、もうたまらなかった。

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