第15話 反発③


「中積船だ!中積船だ!」上甲板で叫んでいるのが、下まで聞えてきた。皆は思い思いのようすで「糞壺」の棚からボロ着のまま跳ねだした。

中積船は漁夫や船員を女よりも夢中にした。この船だけは塩臭くない、——函館の匂いがしていた。何カ月も、何百日も踏みしめたことのない、あの動かない土の匂いがしていた。それに、中積船には日付の違った何通もの手紙、シャツ、下着、雑誌などが送り届けられていた。


彼らは荷物を蟹臭い節くれだった手で鷲づかみにすると、急いでに「糞壺」に駆け下りた。そして棚に大きな胡坐をかいて、その胡坐の中で荷物を解いた。いろいろなものが出てくる。

——横から母親がものをいいながら書かせた、自分の子供のたどたどしい手紙や、手拭、歯ブラシ、楊子、チリ紙、着物、それらの間から、思いがけなく妻の手紙が、押しつぶされて隙間なく平らになって出てきた。彼らはそれらの荷物一つひとつ、どれからでも、陸にある「家」の匂いをかぎ取ろうとした。乳臭い子供の匂いや、妻のムッとくる肌の臭いを探した。



おそそにかつれて困っている、

三銭切手でとどくなら、

おそそ缶詰で送りたい——かっ!


(おんなが枯れて困っているの。

三文切手で届くなら、

わたしの枯れて困ったところ、缶詰つめて送りたい)


………………………………


やけに大声のストトン節が聞こえてくる。


何も送られてこなかった船員や漁夫は、ズボンのポケットに棒のように腕をつっこんで、歩き回っていた。

「お前の居ない間に、男でも引っ張り込んでるだんべよ」

皆にからかわれた。


薄暗い隅に顔を向けて、皆ガヤガヤ騒いでいるのをよそに、何度も指を折り直して、考え込んでいるのがいた。

——中積船で来た手紙で、子供の死んだ報せを読んだのだった。二カ月も前に死んでいた子供の死を、それを知らずに今までいた。手紙には無線を頼む金もなかったので、と書かれていた。まわりにいた漁夫がびっくりして不審に思ったほど、その男はいつまでもムッつりしていた。


一方でそれとちょうど反対のもあった。ふやけた蛸の子のような赤子の写真が入っていたりした。

「これがか!?」と、頓狂な声で笑い出してしまう。

それから「どうだ、これが産れたんだとよ」といってわざわざ一人ひとりに、ニコニコしながら見せて歩いた。


荷物の中には何でもないことで、しかし妻でなかったら、やはり気付かないような細かい心配りの分かるものが入っていた。そんな時は、急に誰もが、バタバタと心がはためき、あやしく騒ぎ立った。


——そして、ただ、無性に帰りたかった。


* * *


中積船には、会社が派遣した活動写真隊が乗り込んできていた。でき上っただけの缶詰を中積船に移してしまった晩、船で活動写真を上映することになった。

平べったい鳥打ち帽を少し斜めに被り、蝶ネクタイをして、太いズボンをはいた、同じような恰好の若い男が二、三人トランクを重そうに持って、船へやってきた。

「臭い、臭い!」

そういいながら、上着を脱いで、口笛を吹きながら、幕を張ったり、距離をはかって台を据えたりしはじめた。漁夫たちは、それらの男から、どこか海でないもの——自分たちのようなものでないもの、を感じ、それにひどく引きつけられた。船員や漁夫はどこか浮かれ気味で、彼らの支度を手伝った。


一番年上らしい下品な太い金縁の眼鏡をかけた男が、少し離れたところに立って、首の汗を拭いていた。活動写真の弁士だった。

「弁士さん、そんなとこさ、立ってれば、足から蚤がハネ上って行きますよ!」

と、「ひやぁ——っ!」焼けた鉄板でも踏んづけたようにハネ上った。

見ていた漁夫たちがドっと笑った。

「しかしひどい所にいるんだな!」弁士は、しゃがれてジャラジャラとした声だった。

「知らないだろうけれども、この会社がここへこうやって、やって来るたびに、いくら儲けていると思う?

大したもんだ。六カ月に五百万円だよ。一年千万円だ。口で千万円っていえば、それっきりだけれども、大したもんだ。それに株主へ二割二分五厘なんて途方もない配当をする会社なんて、日本にはそうないんだ。今度、社長が代議士になるっていうし、申し分がない会社さ。

——だが、やはり、船の中でこんな風にひどく搾り取らないと、あれだけ儲けられないんだろうな」


夜になった。

上映会と「一万箱祝」を兼ねてやることになり、酒、焼酎、スルメ、にしめ、煙草、キャラメルが皆の間に配られた。

「さ、俺のとこさ来い」

若い雑夫が、漁夫、船員の間で引張り凧になった。「胡坐さ抱いて見せてやるからな」

「危ない、危ない!俺のとこさ来いてば」

それがガヤガヤしばらく続いた。


前列の方で四、五人が急に拍手した。皆も分からずに、それに続けて手を叩いた。監督が白い垂幕の前に出てきた。——腰をのばして、両手を後に回わしながら、「諸君は」とか、「私は」とか、普段いったことのない言葉を出したり、またいつもの「日本男児」だとか、「国富」だとか言いだした。大部分は聞いていなかった。こめかみと顎の骨を動かしながら、スルメを咬んでいた。

「やめろ、やめろ!」後から怒鳴る。

「お前えなんか、ひっこめ!弁士がいるんだ、ちゃんと」

「六角棒の方が似合うぞ!」——皆ドっと笑った。口笛をピュウピュウ吹いて、ヤケに手をたたいた。

監督もまさかそこでは怒れず、顔を赤くして、何かいうと(皆が騒ぐので聞えなかった)引っ込んだ。


そして活動写真が始まった。

最初は実写だった。宮城、松島、江ノ島、京都……が、ガタピシャガタピシャと写っていった。写真はときどき切れた。急にフィルムが二、三枚ダブって、めまいでもしたように入り乱れたかと思うと、瞬間消えて、パっと白い幕になった。


それから西洋物と日本物の映画をやった。どれもフィルムはひどく雨が降ったようなキズが入っていた。それに所々切れているのを切り貼りさせたらしく、人の動きがギクシャクした。

——しかしそんなことはどうでもよかった。皆はすっかり引き入れられていた。外国のいい身体をした女が出てくると、口笛を吹いたり、豚のように鼻をならした。弁士は怒ってしばらく説明しないこともあった。

西洋物はアメリカ映画で、西部開発史を取り扱ったものだった。——野蛮人の襲撃をうけたり、自然の暴虐に打ち壊されては、また立ちあがり、一歩、また一歩と鉄道をのばして行く。途中に、一夜のうちに間に合わせで作った町が、まるで鉄道の結びコブのようにできる。そして鉄道が進む、その先へ、先へと町ができていった。——そこから起こるいろいろな苦難が、ひとりの工夫こうふと会社の重役の娘との恋物語とがもつれあって、表へ出たり、裏になったりして描かれていた。最後の場面で、弁士が声を張りあげた。

「彼ら幾多の犠牲的青年によって、遂に成功するに至った延々何百マイルの鉄道は、長蛇のごとく野を走り、山を貫き、昨日までの蛮地は、かくして国富と変ったのであります」

重役の娘と、いつの間にか紳士のようになった工夫こうふが抱きしめあうところで幕だった。


間に、意味なくゲラゲラ笑わせる、短い西洋物が一本挟まった。


日本の方は、貧乏な一人の少年が納豆売り、夕刊売りなどから靴磨きをやり、工場に入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富豪になる映画だった。

——弁士は字幕にはなかったが、「げに勤勉こそ成功の母ならずして、なんぞや!」と言った。

それには雑夫たちの真剣な拍手が起った。しかし漁夫か船員の中に、

「嘘こけ!そんだったら、俺なんて社長になってねか、おかしいべよ」

と大声を出したものがいた。

それで皆は大笑いに笑ってしまった。


後で弁士が、「ああいうところへは、うんと力を入れて、繰りかえし、繰りかえし言ってもらいたいって、会社から命令されて来たんだ」といった。

最後は、会社の、各所属工場や、事務所などを写したものだった。勤勉に働いている沢山の労働者が写っていた。


写真が終わってから、皆は一万箱祝いの酒で酔っ払った。

長い間、酒を口にしなかったのと、疲労し過ぎていたので、ベロベロに参ってしまった。薄暗い電気の下に、煙草の煙が雲のように立ち込めていた。空気が蒸れて、ドロドロに腐っていた。シャツを脱いで裸になったり、鉢巻をしたり、大きく胡坐をかいて、尻をすっかりまくり上げたり、大声でいろいろなことを怒鳴りあった。

——時々なぐり合いの喧嘩が起った。

それが十二時過ぎまで続いた。

脚気で、いつも寝ていた函館の漁夫が、枕を少し高くして貰って、皆の騒ぐのを見ていた。同じところからきている友人の漁夫は、側の柱に寄りかかりながら、歯に挟まったスルメを、マッチの軸でシイシイと音をさせてつついていた。


夜半過ぎてからだった。——「糞壺」の階段を南京袋のように漁夫が転がって来た。着物と右手がすっかり血まみれになっていた。

「出刃、出刃!出刃を取ってくれ!」土間を這いながら叫んでいる。「浅川の野郎、どこへ行きやがった。いねえんだ。殺してやるんだ」

監督に殴られたことのある漁夫だった。——その男はストーブの火掻き棒を持って、眼の色をかえて、また出て行った。誰もそれをとめなかった。

「な!」函館の漁夫は友達を見上げた。「漁夫だって、いつも木の根っこみたいな馬鹿でねえんだな。面白くなるど!」


次の朝になって、監督の窓ガラスからテーブルの道具が、すっかり滅茶苦茶に壊されていたことが分った。監督だけは、どこにいたのか運良く壊されていなかった。

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