第16話 駆逐艦
柔らかい雨曇りだった。——前の日まで降っていた。それがあがりかけた頃だった。曇った空と同じ色の雨が、これもやはり曇った空と同じ色の海に、ときどき和やかな、まるい波紋を落していた。
昼過ぎ、駆逐艦がやって来た。手の空いた漁夫や雑夫や船員が、デッキの手すりに寄って、見とれながら、駆逐艦についてガヤガヤ話しあった。物めずらしかった。
駆逐艦からは、小さいボートが降ろされて、士官たちが本船へやってきた。船腹に斜めに降ろされたタラップの下のおどり場には船長、工場代表、監督、雑夫長が待っていた。ボートが横付けになると、お互いに挙手の礼をして船長が先頭に上ってきた。監督が上をひょいと見ると、眉と口隅をゆがめて、漁夫に手を振ってみせた。「何を見てるんだ。行ってろ、行ってろ!」
「威張るねェ、野郎!」——ゾロゾロデッキを、後ろの者が前を順に押しながら、工場へ降りて行った。生臭い匂いが、デッキにただよって残った。
「臭いね」綺麗な口髭の若い士官が、上品に顔をしかめた。
後からついてきた監督が、慌てて前へ出ると、何か言って、頭を何度も下げた。
皆は遠くから飾りのついた短剣が、歩くたびに尻にあたって跳ね上がるのを見ていた。どれが、どれよりも偉いとか偉くないとか、それを本気で言いあった。しまいに喧嘩のようになった。
「ああなると、浅川も見れたものではないな」
監督のペコペコした恰好を真似して見せた。皆はそれでドっと笑った。
その日、監督も雑夫長もいないので、皆は気楽に仕事をした。唄を歌ったり、機械越しに声高に話し合った。
「こんな風に仕事をさせたら、どんなもんだべな」
皆が仕事を終えて、上甲板に上ってきた。サロンの前を通ると、中から酔っぱらって、無遠慮に大声で喚き散らしているのが聞えた。
給仕が出てきた。サロンの中は煙草の煙でムンムンしていた。
給仕ののぼせ上った顔には、汗が大粒になって出ていた。両手に空のビール瓶を一杯もっていた。顎で、ズボンのポケットを指し示して、
「顔を頼む」といった。
漁夫がハンカチを出して拭いてやりながら、サロンを見て、「何してるんだ?」ときいた。
「イヤ、大変さ。ガブガブ飲みながら、何を話してるかっていえば——女のアレがどうしたとか、こうしたとかよ。お蔭で百遍も走らせられるんだ。農林省の役人が来れば来たでタラップから叩き落ちるほど酔っぱらうしな!」
「何しに来るんだべ?」
給仕は、分からんさ、という顔をして、急いで給仕場に走って行った。
箸では食いづらいボロボロな南京米に、紙切れのような実が浮んでいる塩っぽい味噌汁で、漁夫たちが飯を食った。
「食ったことも、見たこともない洋食が、サロンさなんぼも行ったな」
「クソくらえ——だ」
テーブルの側の壁には、
―――――――――――――
一、
一、
一、
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振り仮名がついた下手な字で、ビラが貼り晒していた。下の余白には、共同便所の中にあるような猥褻な落書きがされていた。
飯が終わると、寝るまでのちょっとの間、ストーブを囲んだ。——駆逐艦のことから、兵隊の話が出た。漁夫には秋田、青森、岩手の百姓が多かった。それで兵隊のことになると、訳も分からず夢中になった。兵隊に行ってきたものが多かった。彼らは、今では、その当時の残虐にみちた兵隊の生活をかえって懐かしみ、いろいろと想い出していた。
皆寝てしまうと、急に、サロンで騒いでいる音が、デッキの板や、サイドを伝って、ここまで聞えてきた。ひょいと眼をさますと、まだやっているのが耳に入った。——もう夜が明けるんではないか。誰かが——給仕かも知れない、甲板を行ったり来たりしている靴の踵のコツ、コツという音がしていた。そして、騒ぎは夜明けまで続いた。
士官たちはそれでも駆逐艦に帰って行ったらしく、タラップは降ろされたままになっていた。そして、その段々に、飯粒や蟹の肉、茶色のドロドロしたものが混じってゴジャゴジャになった反吐が、五、六段続いてかかっていた。反吐からは腐ったアルコールの臭いが強く、鼻にプーンときた。胸が思わずカァーっとくる匂いだった。
駆逐艦は翼をおさめた灰色の水鳥のように、分からないほどに小さく身体をゆすって浮かんでいた。それは身体全体が眠りを貪っているように見えた。煙筒からは煙草の煙よりも細い煙が、風のない空に、毛糸のように上っていた。
監督や雑夫長などは昼になっても起きてこなかった。
「勝手な畜生だ!」仕事をしながら、ブツブツいった。
給仕部屋の隅には、粗末に食い散らされた空の蟹缶詰やビール瓶が山積みに積みあがっていた。朝になると、それを運んで歩いた給仕自身でさえ、よくこんなに飲んだり、食ったりしたもんだ、とびっくりした。
給仕は仕事の関係で、漁夫や船員などではとても窺い知ることのできない船長や監督、工場代表などの生活ありのままをよく知っていた。と同時に、対比して、漁夫たちの惨めな生活もはっきりと知っている。監督は酔うと、漁夫たちを「豚野郎、豚野郎」と言っていた。公平にいって、上の人間は傲慢で、恐ろしいことを儲けのために平気で企んだ。漁夫や船員はそれに面白いように落ち込んでいった。
——それは見ていられなかった。
何も知らないうちはいい、給仕はいつもそう考えていた。彼は、当然どういうことが起こるか——起らないはずがないことか、それが自分で分かるように思っていた。
二時頃だった。船長や監督たちは、下手な畳み方のためにできてしまったらしい、へんてこな折り目のついた服を着て、缶詰を船員二人に持たして、発動機船で駆逐艦に出掛けて行った。甲板で蟹はずしをしていた漁夫や雑夫が、手を休めずに嫁入り行列でも見るように、それを見ていた。
「何やるんだか、分かったもんでねえな」
「俺たちの作った缶詰ば、まるで便所の紙よりも粗末にしやがる!」
「しかしな……」中年を過ぎかけている、左手の指が三本から先がない漁夫だった。「こんなところまで来て、わざわざ俺たちば守っててけるんだもの、ええさ——な」
——その夕方、駆逐艦が、知らないうちにムクムクと煙突から煙を出しはじめた。デッキを急がしく水兵が行ったり来たりしだした。そして、それから三十分ほどして動き出した。艦尾の旗がハタハタと風にはためく音が聞えた。蟹工船では、船長の発声で万歳を叫んだ。
夕飯が終わってから、「糞壺」へ給仕が降りてきた。皆はストーブの周囲で話していた。薄暗い電燈の下に立って行って、シャツから虱を取っているのもいた。電燈を横切るたびに、大きな影が、ペンキを塗った、煤けたサイドに斜めに映った。
「士官や船長や監督の話だけれどもな、今度ロシアの領地へこっそり潜入して漁をするそうだと。それで駆逐艦がひっきりなしに、側にいて見張り番をしてくれるそうだ——だいぶコレをやってるらしいな。」そういうと親指と人差指をまるくしてみせた。
「皆の話を聞いていると、金がそのままゴロゴロ転がっているようなカムチャッカや北樺太など、この辺一帯を、ゆくゆくはどうしても日本のものにするそうだ。日本の軍部は支那や満洲ばかりでなしに、こっちの方面も大切だっていうんだ。そのためにここの会社が三菱などと一緒になって、政府をうまく突っついているらしい。今度社長が代議士になれば、もっとそれをドンドンやるようだと」
「それでさ、駆逐艦が蟹工船の警備に出動するといったところで、どうしてどうして、そればかりの目的でなくて、この辺の海、北樺太、千島の付近まで詳細に測量したり気候を調べたりするのが、むしろ大きな目的で、万一の戦争に向けて手ぬかりなくする訳だな。こりァ秘密だろうと思うんだが、千島の一番端の島に、こっそり大砲を運んだり、重油を運んだりしているそうだ。」
「俺はじめて聞いてびっくりしたんだけれどもな、今までの日本のどの戦争でも、本当は——底の底を割ってみれば、全部、二人か三人の金持ち、それも大金持ちの指図で、きっかけだけをいろいろとこじつけて起したもんだとよ。何しろ見込みのある場所を手に入れたくて、手に入れたくてバタバタしてるんだそうだからな、そいつらは。——危ないそうだ」
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