第3話 出航③

糊のきいた真っ白い、丈の短い上着の給仕が、博光丸の船首のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していた。サロンには、会社のおっかない人、船長、監督、それにカムチャッカで警備の任にあたる駆逐艦の御大、水上警察の署長さん、会社と癒着している海員労働組合の幹部がいた。


「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」——給仕はふくれかえっていた。


漁夫の巣穴にハマナスの実の形をした電燈がついた。煙草の煙や人の熱気で、空気が濁って、臭く、巣穴全体がそのまま「糞壺」のようだった。区切られた寝床にゴロゴロしている人間が蛆虫のように蠢いて見えた。


——漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを降りて入ってきた。船長は先っぽが跳ね上っている髭を気にして、始終ハンカチで上唇を撫でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョに濡れた足袋やわらじ、飯粒のこびりついている弁当ガラなどが捨ててあった。さながら流れの淀んだドブだった。監督はじろりとそれを見ながら、無遠慮に唾を吐いた。

——巣穴にやってきた連中はどれも相当酒を飲んできたらしく、顔を赤くしていた。


「ちょっと言っておく」監督が土方のかしらのように頑丈な身体で、片足を寝床の仕切りの上にかけて、楊子で口をモグモグさせながら、ときどき歯にはさまったものを、トットッと飛ばして口を切った。

「分かっている者もあるだろうが、言うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単にだ、一会社の儲け仕事とみるべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々、——日本帝国人民が偉いか、ロシア野郎が偉いか。一騎打ちの戦いなんだ。

それにもし、もしも、だ。そんなことは絶対にあるべきはずがないが、負けるようなことがあったら、金玉をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムチャッカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、のろまなロシア野郎に負けてたまるもんじゃない。


それに、国際的にいってだ、我らのカムチャッカの漁業は蟹缶詰ばかりでなく、鮭、鱒も共に、他の国とは比べものにならないほど優秀な地位を保っており、また、日本国内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんなことをしゃべったって、お前らには分かりもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺たちは命を懸けて、北海の荒波を突っ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならない。だからこそ、あっちへ行っても始終、我が帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。

……それを今流行りのロシア野郎の真似をして、社会主義などといったトンデモナイことをけしかける輩があるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。そんな事は無いはずだが、よーく覚えておいてもらうことにする……」


監督は酔いざめのくしゃみを何度もした。


* * *


酔っ払った駆逐艦の御大はバネ仕掛の人形のようなギクシャクした足取りで、待たしてある小型船ランチに乗るために、タラップを降りて行った。水兵が上と下から麻袋に入れた石ころみたいな図体の艦長を抱えていたが、ほとんど持てあましてしまった。手を振ったり、足をふんばったり、勝手なことをわめく艦長のために、水兵は何度も真正面から自分の顔に唾を吹きかけられた。


「表じゃ、なんとか、かんとか偉いこといってこのざまはなんだ」

艦長をのせてしまって、一人がタラップのおどり場からロープを外しながら、ちらっと艦長の方を見て、低い声で言った。

「やっちまうか!?……」

二人はちょっと息をのんだ、が……声をあわせて笑い出した。

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