第2話 出航②

薄暗い巣穴の中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしていた。豚小屋そっくりの、胸がすぐゲェときそうな臭いがしていた。

「臭せえ、臭せえ」

「そりゃ、俺だちだもの。ええ加減、腐りかけた臭いでもするだろうよ」

赤い臼のような頭をした漁夫が、一升瓶そのままで、端の欠けた茶碗に酒を注いで、スルメをムシャムシャやりながら飲んでいた。その横に仰向けにひっくり返って、林檎を食いながら、ボロ表紙の講談雑誌を見ているのがいた。


四人で輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が割り込んできた。

「……そうだよなァ。四カ月も海の上だ。もう、陸に上がった今しか女とやれねぇべと思って……」

頑丈な身体をしたのが、そういって、厚い下唇をときどき癖のように舐めながら眼を細めた。

「んで、財布はこれさ」

干柿のようにべったりと薄くなったガマ口財布を眼の高さに振ってみせると、中身は空であった。

「あの立ちんぼの女、身体はこんなに小せえくせに、まぁ床上手だったどォ!」

「おい、止せ、止せ!」

「ええ、ええ、やれやれ」

相手はえへへ、えへへ、と笑った。


「あっち見てみろ、ほら、感心なもんだ。ん?」

酔った眼をちょうど向い側の棚の下にすえて、一人が「ん!」と顎で指した。

ひとりの漁夫が女房に金を渡しているところだった。

「見ろ、見ろ、なァ!」

小さい箱の上に、皺くちゃになった札や銀貨を並べて、二人でそれを数えていた。男は鉛筆を舐め、小さい手帳に何か書いていた。


「見てみろ、うゥん!」

「俺にだってかかあや子供はいるんだで」娼婦のことを話した漁夫が急に怒ったように言った。


そこから少し離れた棚に、二日酔いで青くむくんだ顔をした、頭の前だけが長い若い漁夫が、

「俺ァもう今度こそァ船さ来ねえって思ってたんだけれどもなァ」と大声で言っていた。

「斡旋屋にいいように引っ張り回されたあげく、一文無しになってよ。——また長げェこと、ここでくたばるまでひどい目にあわされるんだ」

こっちに背を見せている同じところから来ているらしい男が、それに対して何かヒソヒソと言っている。


ハッチの降り口から、はじめ鎌のように曲がった足だけが出てきたかと思うと、ごつごつとした大きな古風な信玄袋をかついだ男が梯子を降りてきた。床に立ってキョロキョロ見まわしていたが、空いている棚を見付けると、棚に上って来た。

「こんにちは」と言って、横の男に頭を下げた。「仲間に入れて貰えますか」。男は何かで染めたかのように黒く油じみた顔をしていた。


後で分かったことだが、この男は、船へ来るすぐ前まで夕張炭坑で七年も坑夫をしていた。それがこの前のガス爆発で、危うく死に損ねたとのことであった。事故で死にかけたことは前に何度もあったことだが、今回の事故でフイと坑夫が恐ろしくなり、鉱山やまを降りてしまった。爆発のとき、彼は同じ坑内でトロッコを押して働いていた。トロッコ一杯に石炭を積んで、他の人の受持場まで押して行ったときだった。その瞬間、彼はカメラのフラッシュが百個同時に眼の前で焚かれたかと思うほどの光を感じた。それと1/500秒も違わず、自分の身体が紙きれのようにどこかへ飛び上った。何台というトロッコが爆発の風圧で、眼の前を空のマッチ箱のように軽く吹っ飛んで行った。それっきり意識を失い、自分がどうなってしまったのか分からなかった。


——どのくらい経ったか、自分のうなった声で眼が開いた。監督や炭鉱夫は、爆発が他へ及ばないように、坑道を塞いで壁を作っていた。彼はそのとき、壁のうしろから、助けようと思えば助けることのできる炭坑夫たちの、一度聞いたら心に縫い込まれてしまうような、決して忘れることのできない、救いを求める声をはっきりと聞いた。彼は急に立ち上ると、気が狂ったように、「駄目だ、駄目だ!」と皆の中に飛びこんで、叫びだした。(彼は前の爆発事故のときは、自分でその壁を作ったこともあった。そのときは何でもなかったのだったが…)


「馬鹿野郎!ここまで火がきたらどうする、大損だ」と監督は彼を怒鳴りつけた。

だが、だんだんと壁の向こうの声が低くなって行くのが分かるではないか!彼は何を思ったのか、手を振ったり、わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した。何度も転んでは坑木に額を打ちつけた。全身が泥と血まみれになった。途中、トロッコの枕木につまずいて、巴投げにでもされたように、レールの上に叩きつけられて、また気を失ってしまった。


話を聞いていた若い漁夫は「まぁ、ここだってそう大して変らないがな……」と言った。

彼は炭鉱夫独特の、まばゆいような、黄色っぽく艶のない眼差しを漁夫の上のほうにじっと差し向けて黙っていた。


秋田、青森、岩手から来た百姓あがりの漁夫のうちでは、大きく胡坐をかいて、両手を股に差しこんでムスッとしているのや、膝を抱えこんで柱によりかかりながら、無心に皆で酒を飲んでいるのや、しゃべりあっているところに勝手に入ってきて聞き入っているのがある。

——朝暗いうちから畑に出て、それでも食えないで追い払われてくる者たちだった。長男一人を残して——それでもまだ食えないので、女は工場の女工に、次男も三男もどこかへ出て働かなければならない。鍋で炒られた豆がはじけ飛ぶように、余った人間はドシドシ土地からハネ飛ばされて、街に流れ出てきた。彼らはみんな金をつくって内地くにに帰ることを考えている。


しかし、働いて一度陸を踏むと、函館や小樽でちょっと羽をのばしたつもりが、餅を踏みつけた小鳥のように、羽をむしり取られるまでバタバタと遣ってしまう。そうすれば、まるっきり簡単に生まれたときとちっとも変らない丸裸にまで身ぐるみ剥がされて、おっぽり出されて内地くにへ帰れなくなる。彼らは、身寄りのない雪の北海道で越年するために、自分の身体を鼻紙くらいの値段で売らなければならない。


——彼らはそれを何度繰りかえしても、できの悪い子供のように、次の年にはまた平気で同じことをやってのけた。


* * *


漁夫たちの巣穴に、菓子箱を背負った沖売の女や、薬屋、それに日用品を持った商人が入ってきた。中央の離島のように区切られているところに、それぞれの品物を広げた。皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、冷やかしたり、冗談を言った。


「お菓子があるかい、ねェ、おねェちゃんよォ?」そう言いながら漁夫が沖売の女に近づく。「あっ、どこ触ってんのサ!」沖売の女が急に大きな声を出して漁夫をひっぱたく。

「人の尻に手をやったりして、いけすかない、この男!」


沖売から買った菓子でさっそく口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集ったことに照れて、ゲラゲラ笑った。


「この姉さん、めんこいな」

片側の壁に片手をつきながら、危ない足取りで便所から帰ってきた酔っ払いが、通りすがりに、赤黒くプクンとしている女の頬っぺたを突っついた。

「なんだね」

「怒んなよ。——この姉ちゃんを抱いて寝てやるって言ってるんだよゥ」

そういって、女におどけた恰好をした。皆が笑った。


ずっと隅の方から誰か大声で叫んだ。

「おい饅頭くれ、饅頭!」

「はーい」こんなところでは珍しい女のよく通る澄んだ声が返事をした。

「いくつ買うてくれます?」

「いくつって?俺が欲しいのはお前さんの股についている一つだけだよ。二つもあったら妖怪だべよ。お饅頭、お饅頭をくれ!」

——急にワッと笑い声が起こった。


「この前、竹田って男が、あの沖売の女を無理矢理に誰もいないところに引っ張り込んで行ったんだとよ。んだけ、笑っちまうが、何んぼ、どうやっても駄目だったっていうんだ……」酔った若い男だった。「……ももひきを下穿きに穿いてるんだとよ。竹田がいきなりそれを力一杯に剥ぎ取ってしまったんだども、まだ下にももひきを穿いていたってさ。結局三枚も穿いてたとよ……、最後まで竹田はやれずじまいさ」

男が首を縮めて笑い出した。


その酔った男は冬の間はゴム靴会社の職工だった。春になり仕事が無くなると、カムチャッカへ出稼ぎに出た。どっちの仕事も季節労働なので、(北海道の仕事はほとんどが季節労働だった)ピークになると働きっぱなしになる。いざ夜業となると、ブッ続けに稼働が続いた。

「あと三年も生きられたらありがたい」と言っていた。粗製ゴムのような、死んだ色の皮膚をしていた。



漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土方のタコ部屋に売られたことのある者や、行く先々で生計が立ち行かなくなった渡りの者、何も持たず、酒さえ飲めばただそれでいい者などがいた。青森あたりの善良な村長さんに選ばれてきた何も知らない、木の根のように正直な百姓もその中に混じっている。

——そして、こういうてんでばらばらの者たちを集めることが、雇う者にとって、この上なく都合のいいことだった。函館の労働組合は青森、秋田の組合などとも連絡をとって、蟹工船、特にカムチャッカ行きの漁夫のなかに労働組合の組織者を入れることに死に物狂いになっていた。会社はそれを何より恐れていた。

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