第21話 ストライキ①

空気がガラスのように冷えて、塵一本なく澄んでいた。

——午前二時でも、もう夜が明けていた。カムチャッカ連峰が金紫色に輝いて、海から二、三寸くらいの高さで、地平線を南に長く走っていた。さざ波が立って、その一つひとつの面が、朝日をうけて、夜明けらしく寒々と光っていた。

——さざ波は入り乱れては砕け、入り乱れては砕ける。そのたびにキラキラと光った。カモメが、どこにいるのか分からずに、啼き声だけを聞かせていた。——さわやかに寒かった。

荷物にかけてある、油のにじんだ麻織りのカバーがときどきハタハタとなった。知れないうちに、風が出てきていた。


はんてんの袖に、蛇のように手を通しながら、漁夫が段々を上ってきて、ハッチから首を出した。首を出したまま、弾かれたように叫んだ。

「あ、兎が飛んでる。——これァ大時化になるな」

三角の波が立ってきていた。カムチャッカの海に慣れている漁夫には、それがすぐ分かる。

「危ねえ、今日は休みだべ」


一時間ほどしてからだった。

川崎船を降ろすウインチの下で、そこここに七、八人づつ漁夫が固まっていた。川崎船はどれも半降ろしになったまま、途中で揺れていた。


漁夫は肩をゆすりながら海を見て、お互い言いあっている。


ちょっとした。

「やめたやめた!」

「クソでもくらえ、だ!」

誰かキッカケにそう言うのを、皆は待っていたようだった。

肩を押しあって、「おい、引き上げるべ!」といった。

「そうだ!」

「ん、ん!」

一人が苦々しそうな眼差しで、ウインチを見上げて、「しかしな……」と躊躇っている。

行きかけた者が、自分の片肩をグイとえぐるように回して、「死にたかったら、独りで行けよ!」と吐きだすように言った。

皆は固まって歩き出した。二人ほど、どっちつかずの態度でそれに遅れた。誰か「本当にいいのかな」と、小声でいっていた。


次のウインチの下でも、漁夫たちは川崎船の前で立ちどまったままでいた。彼らは第二号川崎船の連中が、こっちに歩いてくるのを見ると、その意味が分かった。四、五人が声をあげて、手を振った。

「やめだ、やめだ!」

「ん、やめだ!」

その二つがあわさると、元気が出てきた。どうしようか分からないでいる遅れた二、三人は、眩しそうに、こっちを見て、立ち止っていた。皆が第五川崎船のところで、また一緒になった。それらを見ると、遅れたものはぶつぶついいながら後ろから歩き出した。

吃りの漁夫が振りかえって、大声で呼んだ。「しっかりせい!」


雪だるまのように、漁夫たちのかたまりがコブをつけて、大きくなっていった。皆の前や後を、学生や吃りが行ったり来たり、ひっきりなしに走っていた。「いいか、はぐれないことだど!何よりそれだ。もう、大丈夫だ。もう——!」

煙筒の側に、車座に坐って、ロープの修繕をやっていた水夫が、のび上って、

「どうした。オ——イ?」と怒鳴った。

皆はその方へ手を振りあげて、ワアーっと叫んだ。上から見下している水夫たちには、それが林のように揺れて見えた。

「よォし、さ、仕事なんてやめるんだ!」

ロープをさっさと片付けはじめた。「待ってたんだ!」

そのことが漁夫たちの方にも分かった。二度、ワアーっと叫んだ。

「まず糞壺へ引きあげるべ。そうするべ。——ひどい奴だ。ちゃんと大時化になること分かっていて、それで船を出させるんだからな。——人殺しだべ!」

「あんな奴に殺されて、たまるきゃァ!」

「今度こそ、覚えてれ!」

ほとんど一人も残さないで、糞壺へ引きあげてきた。中には仕方なしについてきた者もいるにはいた。


——皆がドカドカっと入り込んできたので、薄暗いところに寝ていた病人が、びっくりして板のような上半身を起した。訳を話してやると、みるみる眼に涙をにじませて何度も、何度も頭を振ってうなずいた。


吃りの漁夫と学生が、機関室の縄梯子のようなタラップを降りて行った。急いでいたし、慣れていないので、何度も足をすべらして、危うく落ちそうになり、手で吊り下がったりした。中はボイラーの熱でムンとして、それに暗かった。彼らはすぐ身体中汗まみれになった。ボイラーの上の、ストーブの炭をのせる鉄条網のような上を渡って、またタラップを下った。下で誰かが声高にしゃべっているのが、ガン、ガ——ンと反響していた。

——地下何百尺という地獄のような竪坑をはじめて降りて行くような無気味さを感じた。


「これもつれえ仕事だな」

「んよ、それにまた、か、甲板さ引っぱり出されて、か、蟹たたきでも、さ、させられたら、たまったもんでねえさ」

「大丈夫、ボイラー夫も俺たちの味方だ!」

「ん、大丈——夫!」

ボイラーの横腹を、タラップで降りていった。

「熱い、熱い、たまんねえな。人間の燻製ができそうだ」

「冗談じゃねえぞ。今、火を焚いていねえときでさえ、こんなに熱いんだど。焚いているときなんてこの比じゃねェ!」

「んか、な。んだべな」

「インドの海を渡るときは、ボイラー番は三十分交代でやるんだが、それでもヘナヘナになるんだとよ。うっかり文句をぬかした奴が、シャベルで滅多やたらに叩きのめされて、あげくの果て、ボイラーに燃かれてしまうことがあるんだとよ。——そうでもしたくなるべよ!」

「んな……」




ボイラーの前では、石炭のカスが引き出されて、それに水でもかけたらしく、朦々と灰が立ちのぼっていた。その側で、半分裸のボイラー夫たちが、煙草をくわえながら、膝を抱えて話していた。薄暗い中では、それはゴリラがうずくまっているのそっくりに見えた。石炭庫の口が半開きになって、ひんやりした真っ暗な中を、無気味に覗かせていた。

「おい」吃りがボイラー夫たちに声をかけた。

「誰だ?」ボイラー夫は上を見上げた。——それが「誰だ、——誰だ、——誰だ」と三つくらいに響きかえって行く。


そこへ二人が降りて行った。二人が誰だということが分かると、

「間違ったんでねえか、道を」と、中の一人が大声で囃したてた。

「ストライキやったんだ」

「ストキがどうしたって?」

「ストキでねえ、ストライキだ」

「やったか!」

「そうか。このまま、どんどん火でもブッ焚いて、函館さ帰ったらどうだ。面白いど」

吃りは「しめた!」と思った。

「んで、みな勢ぞろいしたところで、あいつらのところにねじ込もうっていうんだ」

「やれ、やれ!」

「やれやれじゃねえ。やろう、やろうだ」

学生が口を入れた。

「んか、んか、こりゃァ悪かった。——やろう!やろう!」ボイラー夫が石炭の灰で白くなっている頭をかいた。

皆笑った。


「ボイラー夫たちの方は、お前たちでしっかりとひとまとまりで団結して貰いたいんだ」

「ん、分った。大丈夫だ。いつか一回くらい、あいつらをブンなぐってやりてえと思っている連中ばかりだから」

——ボイラー夫の方はそれでよかった。


雑夫たちは全員、漁夫のところに連れ込まれた。一時間ほどするうちに、ボイラー夫と水夫も加わってきた。皆甲板に集った。要求事項は、吃り、学生、芝浦、威張んなが集って決めた。それを皆の面前で、彼らに突きつけることにした。


監督たちは、漁夫たちが騒ぎ出したのを知ると——それからちっとも姿を見せなかった。

「おかしいな」

「こりゃァ、おかしい」

「ピストル持ってたって、こうなったら駄目だべよ」

吃りの漁夫が、ちょっと高いところに上った。皆は手を叩いた。


「諸君、とうとう来た!長い間、長い間俺たちは待っていた。俺たちは半殺しにされながらも、待っていた。今に見ろ、と。しかし、とうとう来た。


諸君、まず第一に、俺たちは力を合わせることだ。俺たちは何があろうと、仲間を裏切らないことだ。これさえしっかり守られていれば、あいつらごときを揉み潰すのは、虫ケラより容易いことだ。——そんならば、第二には何か。諸君、第二にも力を合わせることだ。落伍者を一人も出さないということだ。一人の裏切者、一人の寝返り者を出さないということだ。たった一人の寝返り者は、三百人の命を殺すということを知らなければならない。一人の寝がえり……(「分った、分った」「大丈夫だ」「心配しないで、やってくれ」)

……俺たちの交渉があいつらを叩きのめせるか、その職分を完全に尽くせるかどうかは、一に諸君の団結の力にかかっている」


続いて、ボイラー夫の代表が立ち、水夫の代表が立った。ボイラー夫の代表は、普段一度も言ったこともない言葉をしゃべりだして、自分でまごついてしまった。言葉につまるたびに赤くなり、皺くちゃの作業服の裾を引っ張ってみたり、すり切れた穴のところに手を入れてみたりソワソワした。皆はそれに気付くとデッキを足踏みして笑った。

「……俺ァもうやめる。しかし、諸君、あいつらはぶん殴ってしまうべよ!」といって、壇を下りた。

ワザと、皆が大げさに拍手した。

「そこだけでよかったんだ」後で誰かひやかした。それで皆は一度にワっと笑い出してしまった。

ボイラー夫は、夏の真最中に、ボイラーの柄の長いシャベルを使うときよりも、汗をびっしょりかいて、足元さえ頼りなくなっていた。降りて来たとき、「俺何しゃべったかな?」と仲間にきいた。

学生が肩をたたいて、「いい、いい」といって笑った。

「おまえさんだよ、悪いのは。別にしゃべれる奴はいたのによ、俺でなくたって……」


「皆さん、私たちは今日の来るのを待っていたんです」

——壇には一五、六歳の雑夫が立っていた。

「皆さんも知っているでしょう、私たちの友達がこの工船の中で、どんなに苦しめられ、半殺しにされたか。夜になって薄っぺらい布団に包まってから、家のことを思い出して、よく私たちは泣きました。ここに集っているどの雑夫にも聞いてみて下さい。一晩だって泣かない人はいないのです。そしてまた一人だって、身体に生キズのない者はいないのです。もう、こんな事が三日も続けば、きっと死んでしまう人もいます。


——ちょっとでも金のある家ならば、まだ学校に行けて、無邪気に遊んでいれる年頃の私たちは、こんなに遠く……(声がかすれる。吃り出す。抑えられたように静かになった)

しかし、もういいんです。大丈夫です。大人の人に助けてもらって、私たちは憎い憎い、あいつらに仕返ししてやることができるのです……」

それは嵐のような拍手を引き起こした。手を夢中に叩きながら、眼尻を太い指先で、ソっと拭っている中年過ぎた漁夫がいた。


学生や、吃りは、皆の名前をかいた誓約書を回して、捺印を貰って歩いた。

学生二人、吃り、威張んな、芝浦、ボイラー夫三名、水夫三名が、要求条項と誓約書を持って、船長室に出掛けること、そのときには表でデモをすることが決まった。

——陸の場合と違って、住所がチリチリバラバラになっていないこと、それに下地が充分にあったことが、スラスラとことを運ばせた。ウソのようにあっという間にまとまった。


「おかしいな、どうして、あの鬼、顔出さないんだべ」

「やっきになって、得意のピストルでも撃つかと思ってたどもな」

三百人は吃りの音頭で、一斉に「ストライキ万歳」と三度叫んだ。学生が「監督の野郎、この声聞いて震えているだろう!」と笑った。


——船長室へ押しかけた。


監督は片手にピストルを持ったまま、代表を迎えた。

船長、雑夫長、工場代表……などが、今までたしかに何か相談をしていたらしいことがはっきり分かるそのままの恰好で出迎えた。


監督は落ち着いていた。

入っていくと、「やったな」とニヤニヤ笑った。

外では、三百人が重なり合って、大声をあげ、ドタドタ足踏みをしていた。監督は「うるさい奴だ!」と低い声でいった。が、それには気もかけず気色だった代表が興奮して言うのを一通りきいてから、要求条項と、三百人の誓約書を形式的にチラチラと見ると、「後悔しないか」と、拍子抜けするほど、ゆっくりいった。

「馬鹿野郎っ!」吃りがいきなり監督の鼻っ面を殴りつけるように怒鳴った。

「そうか、いい。——後悔しないんだな」

そういって、それからちょっと調子をかえた。

「じゃ、聞け。いいか。明日の朝にならないうちに、色よい返事をしてやるから」

——だが、いうより早かった、芝浦が監督のピストルを叩き落とすと、拳骨で頬を殴りつけた。監督がハっと思って、顔を押えた瞬間、吃りがキノコのような円椅子で横なぐりに足をさらった。監督の身体はテーブルに引っかかって、あっけなく横倒れになった。その上に四本の足を空に向けて、テーブルがひっくり返っていった。

「色よい返事だ?この野郎、フザけるな!命懸けの問題なんだぞ!」

芝浦は幅の広い肩をけわしく動かした。水夫、ボイラー夫、学生が二人をとめた。船長室の窓が凄い音を立てて割れた。その瞬間、「殺しちまえ!」「ぶっ殺せ!」「叩きのめせ!叩きのめしてしまえ!」外からの叫び声が急に大きくなって、ハッキリ聞えてきた。

——いつの間にか、船長や雑夫長や工場代表が室の片隅の方へ、かたまりあって棒のようにつっ立っていた。顔色が消えていた。

ドアを壊して、漁夫や、水、ボイラー夫が雪崩れ込んできた。


昼過ぎから、海は大嵐になった。そして夕方近くになって、だんだん静かになった。

「監督を叩きのめす!」そんなことがどうしてできるもんか、そう思っていた。ところが!自分たちの手でそれをやってのけたのだ。普段、ちらつけて脅していたピストルさえ撃てなかったではないか。皆はウキウキとはしゃいでいた。

——代表たちは頭を集めて、これからのいろいろな対策を相談した。「色よい返事が来なかったら覚えてろ!」と思った。

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