第19話 団結
表には何も出さない。気付かれないように手を緩めていく。監督がどんなに思い切り怒鳴り散らしても、叩きつけて歩いても、口答えもせずおとなしくしている。それを一日おきに繰りかえす。はじめは、おっかなびっくり、おっかなびっくりでしていたが——そういうようにして、サボを続けた。
水葬のことがあってから、もっとその足並みが揃ってきた。
仕事の出来高は眼に見えて減っていった。
中年過ぎた漁夫は、働かされると、一番それが身にこたえるのに、サボにはイヤな顔を見せた。しかし内心心配していたことが起らずに(!)、不思議でならなかったが、かえってサボが効いてゆくのを見ると、若い漁夫たちの言うことに同調しはじめた。
困ったのは、川崎船の船頭だった。彼らは川崎船のことには全責任があり、監督と平漁夫の間におり、漁獲高のことで、すぐに監督からあたってこられた。それは何よりつらかった。結局三分の一だけ仕方なしに漁夫の味方をして、後の三分の二は監督の支店——その小さな手先だった。
「そりゃァ疲れるさ。工場のようにキチンキチンと仕事が決まっているわけにはいかないんだ。相手は生き物だ。蟹が人間様に都合よく、時間きっかりに出てきてはくれないしな。仕方がないんだ」——手先の船頭はそっくり監督の蓄音機だった。
こんなことがあった。——「糞壺」で、寝る前に、何かの話が思いがけなく、いろいろな話題へ移っていった。その時ひょいと、船頭が威張ったことを言ってしまった。それは別に威張ったことではないが平漁夫にはムッときた。相手の平漁夫が、そして、少し酔っていた。
「何だって?」いきなり怒鳴った。「てめえ、なんだ。あまり威張ったことを言わねえ方がええんだで。漁に出たとき、俺たち四、五人でおまえを海の中さ叩き落すぐらい朝飯前なんだ。——それっきりだべよ。カムチャッカだど。おまえがどうやって死んだって、誰が分かるかって!」
今までだれもそこまで言った者はいない。それをガラガラな大声で怒鳴り立てて言ってしまった。
——誰も何も言わない。今まで話していたほかの会話も、そこでぶっつり切れてしまった。
しかし、こういうようなことは、調子よく跳ね上った虚勢だけの言葉ではなかった。それは今まで服従しか知らなかった漁夫を、全く思いがけずに背中から、とてつもない力で突きのめした。突きのめされて、漁夫ははじめ戸惑ってしまいウロウロとした。それが知られずにいた自分の力だ、ということに気づかずに。
——そんなことが俺たちにできるんだろうか?しかしナルホドできるんだ。
そう分かると、今度は不思議な魅力になって、反抗的な気持ちが皆の心に食い込んで行った。今まで、残酷きわまる労働で搾り抜かれていたことが、かえって皆の心に食い込む為のこの上ない良い地盤だった。——こうなれば、監督もクソもあったものでない!皆が愉快がった。一旦この気持ちをつかむと、不意に懐中電燈を差し向けられたかのように、自分たちの蛆虫そのままのような生活の惨めさがありありと見えてきた。
「威張んな、この野郎」この言葉が皆の間で流行り出した。何かすると「威張んな、この野郎」と言った。別なことにでも、すぐそれを使った。
——威張る野郎は、しかし漁夫には一人もいなかった。
それと似たことが一度、二度となくある。そのたびに漁夫たちは分かっていった。そして、それが繰り返されていくうちに、漁夫たちの中からいつも表の方へ押し出されてくる、きまった三、四人ができてきた。それは誰かが決めたのでなく、また本当に、決まったものでもなかった。
ただ、何か起ったり、何かしなければならなくなったりすると、その三、四人の意見が皆の意見と一致したし、それで皆もその通り動くようになった。——学生あがりが二人、吃りの漁夫、「威張んな」と怒鳴った漁夫がそれだった。
学生が鉛筆をなめながら一晩中腹這いになって、紙に何か書いていた。——それは学生の発案だった。
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〇発案(責任者の系統図)
A (全体代表者)
・二人の学生
・吃りの漁夫
・「威張んな」
B (職分代表者)
・雑夫代表者一人
・川崎船代表者二人
・水夫代表者一人
・ボイラー夫代表者一人
C (班別代表者)
・雑夫—
・川崎船—各川崎船に二人ずつ
・水夫、ボイラー夫—水、ボイラー夫の諸君全員
Aからの意見はB⇒C⇒全部の諸君、の順番で伝達する
全体の諸君からの意見はC⇒B⇒A、の順番で伝達する
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学生は「どんなもんだい」と言った。どんなことがAから起きようが、Cから起きようが、電気よりはやく、ぬかりなく全体の問題として共有することができる、と威張った。そして、その伝達手順が一通り決められた。
——実際は、それはそうたやすくは行われなかったが。
「殺されたくないものは来たれ!」
——その学生あがりが得意の謳い文句だった。毛利元就の弓矢を折る話や、内務省かのポスターで見たことのある綱引きの例をもってきた。「俺たち四、五人いれば、船頭の一人くらい海の中へ叩き落すなんか朝飯前だ。元気を出すんだ」
「一対一じゃ駄目だ。危ない。だが、あっちは船長から何からをみんな入れて十人にもならない。ところがこっちは四百人近い。四百人が一緒になれば、もうこっちのものだ。十人に四百人!相撲になるなら、やってみろ、だ」そして最後に「殺されたくないものは来たれ!」だった。
——どんなボンクラでも飲んだくれ者でも、自分たちが半殺しにされるような生活をさせられていることは分かっていたし、現に、眼の前で殺されてしまった仲間がいることも分かっている。それに、苦しまぎれにやったチョコチョコとしたサボタージュに案外効き目があったので、学生あがりや吃りの言うことも、よく聞き入れられた。
* * *
一週間ほど前の大嵐で、発動機船のスクリューが壊れてしまった。その修理のために、雑夫長が下船して、四、五人の漁夫と一緒に陸へあがった。帰ってきたとき、若い漁夫がこっそり日本語で印刷された赤化宣伝のパンフレットやビラを沢山持ってきた。「日本人が沢山こういうことをやっているよ」といった。
——自分たちの賃金や、労働時間の長さのことや、会社がゴッソリと金儲けしていることや、ストライキのことなどが書かれているので、皆は面白がって、お互いに読んだり、中身を聞きあったりした。
しかし、中にはそれに書いてある文句にかえって反発を感じて「こんな恐ろしいことなんか日本人にできるか」と言う者がいた。一方で「俺ァこれが本当だと思うんだが」と、ビラを持って学生あがりのところへ訊きに来た漁夫もいた。
「本当だよ。少し話が大げさだけどもな」
「んだって、こうでもしなかったら、浅川の性根がなおりゃしねェがな」と笑った。「それに、あいつらからは、もっとひどい目にあわされてるから、これで当り前だべよ!」
漁夫たちは、「とんでもないものだ」と言いながら、その赤化運動に好奇心を持ち出していた。
嵐のときもそうだが、霧が深くなると、川崎船を呼ぶために、本船では絶え間なしに汽笛を鳴らした。低く間延びした、牛の啼き声のような汽笛が、水のように濃くたち込めた霧の中を一時間も二時間も鳴った。
——しかしそれでも、うまく帰って来られない川崎船があった。ところが、ときどき秘密裏に、仕事の苦しさからわざと行き先を見失ったふりをして、カムチャッカに漂流する者たちがいた。ロシアの領海内に入って、漁をするようになってから、予め陸に見当をつけておくと、案外たやすく、その漂流ができた。
その連中も赤化のことを聞いてくることがあった。
——いつでも会社は漁夫を雇うのに細心の注意を払った。募集地の村長さんや、署長さんに頼んで模範青年を連れてくる。労働組合などに関心のない、いいなりになる労働者を選ぶ。抜け目なく万事好都合に!
しかし、蟹工船の仕事の厳しさによってかえってその真面目さが、今ではちょうど逆に、それらの労働者を団結させ組織化させようとしていた。いくら抜け目のない資本家でも、この予想のつかない行方までには気付いていなかった。それは、皮肉にも、組織化されていなかった労働者や、手のつけられない飲んだくれた労働者をわざわざ集めて、団結することを教えてくれているようなものだった。
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