第49話 やって来た女
第49話 やって来た女
時間もまだ早い。
広美はベンチに腰掛け、グラウンドをバックにキャンパスを見下ろした。
校舎建物が幾層にも重なって見える。
受講中の学生は建物内にいるし、午後の講義を取る学生が来るにはまだ早い。
建物の隙間から僅かに覗く校庭においても、正門周辺においても、学生の動きはまばらだ。
十一時半には午前の講義が終わると言っていたから、あのどこかの建物の中に、信也が交際していた松原慧が居る筈なのだ。
広美の胸の内は複雑だったが、今はただ空虚で、自分が何故ここに居るのかさえも不思議な気がしていた。
広美は、やがてぼんやりと立ち上がり、右手に大運動場を見下ろしながら、かつて信也と来たこともある桜並木の下を歩いた。
花見の季節とは大違いで、葉もすっかり枯れ落ちた、か細い枝を張るだけの桜並木は、それだけで寒々しく広美の目に映った。
広美は堤を降りた。
左手に新日鐵の紀尾井ホールが見えると、直ぐ右先にホテルニューオータニがある。
気を取り直すように、広美はきびきびと歩いた。
幸いと、ロビー喫茶窓側とは反対側の、奥のコーナーが空いた所で、広美はそこへ案内された。
利用客の殆どは、窓の外の庭園を見ているから、ここは人の視線が集まらず好都合な席だった。
広美がコーヒーを飲んでいる所へ、約束の十一時四十分丁度に、「お連れ様が見えました」と言って、案内スタッフがやって来た。
一六五センチある自分よりもさらに背が高く、すらっと肢体が伸びて、ジーンズのとても良く似合う、ちゃらちゃらした所の全く無い、実年齢よりも幾らか大人びた女が、案内する者の後ろに立って居た。
「松原慧です」と、幾分ハスキーな声で挨拶した女に、広美は左側の席を勧めた。
「この人にもコーヒーを一つ」と言うと、案内者はウェイトレスを呼び、注文を取り次いで中央案内へと戻って行った。
広美は、隣に腰掛けた慧を、もう一度上から下まで見て、顔に視線を戻した。
その目許は泣き続けたせいだろうか、化粧していても腫れを隠すことはできなかった。
女は、不安な面持ちの中にも、広美に対し何かを問いた気に見えた。
広美はまた、自分がここにやって来た理由が、わからなくなって来た。
「松原慧さん……私は竜野広美です」
「よろしくお願いいたします。あ、私がこんなことを言うのは何か変ですね」
「そうね。少し変かも知れない……」
昨日電話で話した時とは、女の印象がまるで違っている。広美は当惑していた。
女は、広美の目から逃れようとはしないが、決して挑戦的な目を向けている訳ではない。その目は澄んでいた。
「私、午後の講義は欠席しますので、お
「広美さんでいいわ。あなたのことは慧さんと呼ばせてね」
「はい」
(この女を追及するのは、本性を見抜いてからで良い)
広美は様子を見ることにした。
「あなたの訊きたい事って何かしら?」
「いいえ、私の方から先に訊くなんて、とても……」
「いいわ、あなたから先で」
「そうですか」
「言ってみて」
「はい、ではお言葉に甘えて…… 信也さんのご遺体は、きれいだったのでしょうか?」
広美の脳裏に、遺体安置所の寝台で、眠る様に横たわった信也の姿が蘇る。
後頭部から頭頂部に掛けて、白い布で覆われていたが、その布には赤茶色の染みが大きく滲んでいた。
「後頭部は酷い状態みたいだけど、顔は大丈夫、傷は全く無かったわ」
「本当ですか……良かった……」慧は顔を両手で覆い、うずくまった。
その時丁度、追加注文のコーヒーを運んで来たウェイトレスは、二人の深刻そうな様子に気付いて、手早くカップとソーサーをセットし、何も言わずに、白銀のケトルからコーヒーを注ぎ終わると、「失礼しました」と言って、目を合わさずに去って行った。
ウェイトレスの背中を見送ってから、広美は慧に目を戻し、
「訊きたいことはそれだけ?」と言った。
慧はゆっくりと、顔を覆っていた両手を開き、頭を起した。
下瞼には涙がたまっている。
「あの……一つだけお願いが……でも、やっぱりいいです……」
「何? 言ってみて」広美には、それがぴんと来た。
(この娘、信也を愛している……)
「いいえ、何でもありません」
「信也のお葬式のこと?」広美から、助けるように訊ねた。
「……ええ」ほっとした様に、慧は答えた。
「あなた本当に、二十も年上の信也を愛していたの?」
わかってはいたが、広美はそう確認せざるを得なかった。
「年の差は十九です、あ、すみません……奥さんには本当に申し訳ありませんでした……私は、私は……」
慧が初めて自分に謝罪したことに、広美は漸く気が付いた。
慧の謝罪の気持ちは、既に十分伝わって来たからだ。
「信也を愛していた?」
「……ええ……私は、信也さんを心から愛していました……」
「信也が既婚者だと知っていて、愛したの?」
「いけないことだと思いました……でも、気が付いた時には愛していました」
「わかったわ、もういい……」
「すみません……」
「もう謝らなくてもいいわ。あなたはどうやら、私が思っていた人とは違うみたい」
広美の言葉の意味がわからず、慧は沈黙した。
広美は、そんな慧を穏やかな目で見ていた。
「信也が、若い娘に遊ばれていたと思っていた…… いいえ、そう思いたかっただけなのかも知れない……」
優しい目で見守られて、慧は罪の深さを再認識した。
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