第3章 『交差点』推理新人賞への挑戦
第9話 クリスマス賞
第9話 クリスマス賞
『交差点』推理新人賞の締切は十二月末日。
候補作品十点を選ぶ編集者会議による第一次選考が翌年四月末日で、最終候補五作品に絞る選考委員と編集者の合同会議による二次選考が八月末日。
選考委員会による本賞選考はその四ヶ月後の十二月二五日だ。
別名クリスマス賞とも呼ばれる由縁である。
一年と四ヶ月後か、竜野信也はふうとため息を吐いた。
応募締切まで今から四ヶ月間。十分とも云えるし短いとも思える微妙な執筆期間だ。
「今年はこれ一本に絞るしかないな。この応募締切の半月前に『NEXT賞』の結果が出る。来年の正月を笑って迎えられるか、大勝負の年になりそうだ」
町村と別れ家に戻った竜野は、早速パソコンデスクのある狭い和室に篭ったのである。
ディスプレーを食い入るように見つめ、マウスのクリックを繰り返し、太平洋書店のホームページを検索し、交差点推理新人賞を念入りに調べた結果、信也はそうつぶやいた。
白を基調にした明るいリビングから様子を窺っていた妻の広美は、これは棚から
願い続けそしてそれに向かって精進すれば夢はいつか現実になると、広美は漠然と信じていたし、"Dreams come true"と云う言葉の響きが大好きだった。
「それにしても、六月、八月と長編を二作応募したばかりなのに、あのクリスマス賞にまで応募する気になるなんて、信也のやる気を見直したわ。どれでもいいから頑張って入賞してね」
胸の中で呼び掛けてから昼食の準備に取り掛かったが、大それたことに夫がクリスマス賞の賞金一千万円を本気で狙っているなどとは思いもしなかった。
竜野は以前の書きかけ小説を読み返し、適当なネタが無いかと検討していた。
交差点推理新人賞は、新人賞としては異例な長編枚数規定がある。四百字詰原稿用紙で千枚以上二千枚まで。
四ヶ月、百二十日間だから、一日に八枚強書き続ければ千枚に届きそうだが時間的な余裕は余り無い。
この長編に耐えられるネタは… こいつはどうだろうかとつぶやいた。
《「欲望の罠」プロット…
三人の男が登場する。
一人目、二十代前半の未熟な男はインターネットにのめり込んでいた。
二人目、三十過ぎのやり手の男はたなぼたの大金を手に入れた。
三人目の競争社会に疲れ果てた男は、四十歳にして会社をリストラされた。
それぞれが環境の劇的変化に翻弄される内、今まで自分自身の中に埋もれていた激情にも似た欲望に目覚める。
それぞれの男は偶然にある女と関わってしまう。その女がある日失踪する。
男の一人は、女を捜索する内に他の二人がその女に深く関わっていた事を掴む。そして二人の内の一人が女の行方を知っている筈だと思い込む。
果たしてその女は、三人の内の誰かによって拉致されたのか、殺されたのか。あるいは三人とは無関係の理由により失踪したのか。それとも第四の誰かによって自由を奪われたのか。
いずれにしても三人は各々、自分以外の二人の異常性に気付き、それを指摘し合う事で、自分自身の異常性と向き合わざるを得ない事態に陥る… 》
果たしてこのネタで行けるか。
ホラー小説大賞に応募した第二作は広義の推理小説と言えないこともないが、近未来小説と云う都合の良い舞台設定で想像を駆使することが出来た。
しかし、この現代モノのネタで推理小説となれば、競合作品群との差別化はかなり難しい。
町村のプロ的なアドバイスは必要不可欠なものとなりそうだ。その点ではライバル達よりも有利な筈だと考えて竜野は胸の不安を打ち消した。
幸いなことに、千枚以上という枚数規定が大きな壁になっているのか、例年の応募点数は百点強と少な目らしい。
しかしながら、その分これに絞り込んで来るツワモノどもによる高レベルの争いになるとも聞く。
打ち消したばかりの不安がすぐさま頭をもたげてくる。とにかく書いてみよう。悩むのはそれからだ。竜野はディスプレーに向かってタイプし始めた。
新作に取り掛かった一週間後の九月四日土曜日の昼下がり、竜野はどうにか第一章「研二」を書き上げた。
そして「欲望の罠」プロットと共に町村宛にメールしたのだが、驚いたことにその日の内に返信メールが送られて来た。
『「欲望の罠」のプロットですが、中々おもしろそうだと思います。書き進め方によっては十分長編に耐えられるでしょう。
第一章「研二」について。
私自身はインターネットコミュニケーションのチャットとか掲示板に関する知識が乏しいのですが、本文を読んでみてその世界が十分想像できましたし、強い興味を覚えました。
またチャットの世界で遊ぶ、研二の少なからず異常な雰囲気が良く表現されていると思います。
これから書く予定の第二章「康平」と、第三章「雄三」のことですが、よろしければその人物設定について早目にお知らせ下さい。
もしまだ良いアイデアをお持ちでないならば、当方にも少し案がありますのでそれを検討してみて下さい。
友人宛の文体ではありませんが、作家に対する編集者の立場で書く方が普段から慣れていますので、特に気にしないでもらえるとありがたいと思います。
竜野、四ヶ月間一緒に頑張ろうぜ!』
竜野は最後の一文に思わず笑った。
実の所、三十過ぎの康平と、四十歳の雄三についての人物設定はまだ細かく詰めていなかった。
編集者としての町村案も是非聞いてみたい。
そう思った竜野は、町村と同じく丁寧な文章で、彼等の人物設定案を提供してくれるようメールを書いた。
パソコンデスクの前に居る時は一休みする度にメールをチェックする。
これはチャットで遊んでいた頃に出来た竜野の習慣だ。
当時のピーク時には、日にメールが七、八通も来て、その返信を書くのが大変だった位だ。
今も十数通のメールが来るが、返信が必要な個人からのものは殆ど無いので頻繁なメールチェックには意味が無くなっていた。
第二章「康平」をどう書くか、少しばかり悩んでいた竜野はメールをチェックした。午後八時に出したメールの返事がもう来ていた。その着信時刻は九時前だ。
俺のメールを町村は待っていたのか、メールの内容を読んで竜野はそう確信した。
薄気味悪い協力ぶりに、こうやって編集者は担当作家を盛り上げて行くのかと感心した。
一方で町村の意図を
町村のメールによると、「三十過ぎのやり手の男はたなぼたの大金を手に入れた」と設定した康平については、あなたの趣味のネットによる株式投資の経験が行かせるのではないでしょうかとあり、
「競争社会に疲れ果て、四十歳にして会社をリストラされた」雄三については、十分に書き込まないと痛い目に遭うでしょうとあった。
その理由については、年配の選考委員は中年男性の設定や行動について、かなりこだわる傾向があるからですと説明している。
なるほど、人は自分の立場に近いものについては自分に置き換えて考える傾向がある。そこをおろそかにすれば致命傷になるだろうことは予想できる。
町村は雄三の人物設定についてかなり詳しい記述をしている。恐らくは自分自身がかつて小説の中で書いた人物の設定なのだろう。
竜野はそれを受け入れることにした。
町村のアドバイスに従って、康平についてもネット投資家を副業とする男で書き進めることにした。
翌週末、出来上がった第二章「康平」を町村にメールすると、その返信文で、今度はかなりの箇所の指摘と修正意見が付されていた。
どうやら第一章「研二」については、竜野のやる気を
その証拠に翌週直した第二章をメールすると、こんな返信メールが来た。
「とても第二章は良くなったと思います。
どうでしょうか、第一章もあのままで良いとは思いますが、第二章とのバランスを取る意味で、もう一度始めから書き直してみませんか」
竜野はふっと思わず苦笑した。
こうして文芸誌編集者と作家志望の男の間で週末のメール交換が定例化することになった。
九月下旬、竜野家に分厚い封筒が送付されて来た。差出人は町村で中身は交差点十月号である。付箋のある目次を開くと、
「貝原洋・二年ぶりの新作、一挙百枚掲載! 六本木のラブホテルを舞台に奇妙な事件が起きる。大俳優の思惑を超えて、最高の舞台装置が一人歩きを始めた……」とある。
二枚目の付箋のあるページには、中層のラブホテルの夜景をバックに重厚な壮年男の顔が描かれた挿絵と「ホテル六本木最上階特別室」と云うタイトルが印刷されている。
書き出し部分は、殆ど竜野の「ホテル新宿最上階特別室」と同じだが文章は遥かに磨かれていた。
竜野はその短編小説を一気に読み切った。
なるほどあの話がこういう風に展開するのか、竜野はスランプだった筈の貝原の筆力を知り脱帽した。
同時に二つの疑問が湧いた。
一つは、何故これほどの作家がネタを人に頼ろうとするのか。
もう一つは、この短編小説が果たして盗作と言えるのか。
始めの十枚は確かにパクリだが、残り九割はオリジナルだ。そしてその九割が上出来なのである。
竜野は貝原洋と云う不完全な作家に強い興味を覚えた。
そして竜野自身に、小さな三つ目の疑問が湧いて来た。
町村とキャッチボールしながら自分が書いている小説を共作とせず、一人の名前で発表した場合、果たしてそれが盗作に当ることはないのだろうか……
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