第2話 創作の開始
第2話 創作の開始
信也はS大学時代に文学愛好会に所属していたことがある。
小説家を目指しているただ一人のリーダー以外は、ほとんど活動らしいことはしてないクラブだったが、よくその仲間達とは文学について語ると云う口実で飲みに行ったり麻雀をした。
実は自分も小説家になりたいと思っていたことがあるし今もそれが夢だと、三年前に広美に語ったのが切っ掛けだった。
地方公務員の仕事に嫌気が差した逃避の気持ちが信也にそう言わせたのだが、広美は本気にした。
本当の所はくすぶっている夫の信也に対し、何かでやる気を起こさせたかっただけかも知れない。
不思議なことに、信也がやる気を無くしてからは同僚の中にも友人が増えて行った。
定時に終わることが多い職場では夜が長い。
業務終了後のお酒は実に楽しいものだ。
上司と部下の悪口を肴にビールや焼酎を飲んだ。
夏と冬のボーナスが出た日は、その行き先が安い飲み屋から風俗街へと変更されることもあった。
飲みに行かない日は、妻の広美のおだてに乗せられて小説のようなものを書く。
広美は結婚してからも県庁勤務を続けていた。
実の所広美は、定時で帰宅してだらしなくリビングで寝転ぶ夫を見るのがいやだった。
自分が夕食の支度をする間、パソコンの前で仕事をする夫を見たかったのだ。
そんな風にして二〇〇一年、三五歳から始まった信也の創作活動だが、始めは順調とは言い
仕事で書く事務文書と文学的表現は全く別物だ。
ストーリィのアイデアは幾つも
問題は小説というジャンルの文章力だった。
書いた文章を読み返し始めた途端、続きを書こうとする気力は一気に萎えてしまう。
一年経って書き掛けタイトル数が二桁になった時、信也はやっと気付いた。 作文練習を一からやり直そう。
そう考えて手始めにお気に入りの作家の文章模写をやってみた。
次に小説の一場面を繰り返し読んでからお手本を見ないでタイプしてみる。
文末処理の変化の難しさに気が付いた。
次の時には会話場面の処理が気になった。
ちょっとした変化の付け方が、簡単なようで始めはとても難しいことがわかった。
ただ読んでいた時にはまるで気がつかなかったが、実地訓練により体感できたことは大きな収穫だった。
しかしながら、信也にとってそれはかなり退屈で忍耐力の要る作業だった。
二〇〇二年の晩秋か初冬のある日、信也は気晴らしにインターネット相互通信で遊んでみた。
その結果チャットにはまってしまった。
実体の見えないチャット仲間が次第に増えていった。
チャットやネット掲示板で人から聞く恋愛の話や様々な事件は、ばかばかしくもあり、その反面おもしろかった。
気が付いた時には相当に深入りしていた。
二〇〇三年、三八歳になったばかりの秋には、自分自身がチャットの相手と恋に落ちていた。
結局それは実ることなく終わったが失恋の放心状態は一月ほど続いた。
影で進行していた心の浮気について、広美は勿論知らなかったが信也は心の中で妻に詫びた。
空虚な気持ちを癒すつもりで、信也は風俗関係をネットサーフィンした。
ソープランド、ファッションヘルス、デリヘルなどのホームページには、その店のお勧めギャル達が私を指名してと言わんばかりに微笑みかけている。
男とは全くもってしょうもない生き物である。
しかしながら信也は幸運なことに、ギャルの写真を見て行く内新しいアイデアを思いついた。
そしてその年の暮れ、信也は一念発起した。こいつをネタにして最後まで小説を書き上げると…
「風俗の天使達」と云うタイトルを付した作品は、当初完成させることだけが目標だったが、どうにか半年近く掛けて脱稿し信也の処女作となった。
小説書きは一年近くブランクがあったが、その一年間ネットで遊んでいた時に、自分のホームページでチャット仲間との交遊録を書き続けて来た。
それが役に立ったのだ。そのチャット日記はかなりの長編だったから、長い文章を書くことが以前ほど苦にならなくなっていた。
小説の中身は、家出をして風俗業界で働くヒロイン夏樹が、業界のボスとの戦いを通じて友情と愛を育てて行く痛快アクションロマンのドラマである。
以前書きかけ小説で失敗したことのある、性愛描写もそこそこ書けたと信也は自負していた。
テニスによる勝負は迫真のシーンを再現しようと力を入れたが、描写過剰で上滑りしているかも知れない。
小説後半では、推理小説のような謎解きも盛り込んでみた。
ラストシーンでは純愛を描いた。
信也にとっては実験小説であり愛着はあるが、人が読んでおもしろいかどうかと言うと全く自信を持てなかった。
書き上がってA4ペーパーにプリントすると、一ページ当たり千二百字で一六〇ページになった。
四百字詰原稿用紙なら四五〇枚以上の長編だ。
信也は最初の読者として、心の支援者である妻広美を選んだ。
数日後、恐る恐る信也は感想を求めた。
広美は信也の目をじっと覗き込む。
一六五の身長がずっと大きく見えて、十センチ高い筈の信也は完全に見下ろされていた。
妻の言葉を待つ信也は、もらわれて来たばかりの仔猫そのものだった。
「しんちゃん。これ応募してみない」
「応募?」信也は目を丸くする。
「初めてだから、高額賞金の付いた有名なものじゃなくてね」
メイクアップすればそこそこ美人の筈だが、結婚してからの広美はリップと頬紅を差す程度の薄化粧で済ませている。
しかしながらこの時ばかりは、その目がきらきらと輝き魔性の光線を放っているようで、呑まれたように信也は「うん」と答えた。
「カドカワの『野性時代』って云う月刊誌があるんだけどね。
それに毎月応募できる『カドカワエンターテインメントNEXT賞』と云う公募があるのよ。知ってる?」
言葉数が多くなったせいで、聞いている内に信也に掛かった魔法は少し解けた。
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