1-07
すっかり仲良くなったアインとナターシャは、山でよく遊ぶようになった。朝早く起き、ふたり仲良くお使いに出掛けては、空が薄暗くなる頃にくたびれて帰ってくるのだ。
アグレイは初めこそ心配していたものの、今ではその様子を微笑ましく見守っていた。
友達も作らず、家の事ばかりでろくに遊ぼうとしなかったアインが、ようやく子供らしくなったことに喜びを感じていた。
───願わくば、このまま薬師になりたいという夢を忘れてくれないものだろうか、と。
ナターシャが来てから半月ほどになる。来たばかりの頃は何もかも不明だった彼女について、分かってきた事がいくつかある。
ひとつは恐ろしい程に呑み込みが早いということだ。ナターシャは文字の読み方や食器の使い方、金銭についても知らなかった。
いや、正確には現在の硬貨の価値について知らなかった。
記憶喪失とひとことで言っても、人によって度合いが違うということを知っているアグレイはその事について探ろうとはしなかった。このような幼い少女がひとり山で倒れていたのだから、何か深い事情があるに違いない、と考えたからだ。
それからナターシャに文字の読み方からお金の数え方、大まかな世界史など様々なことを教えるようになった。ナターシャはそのどれもに興味を持ち、簡単な本一冊読めるほどに成長していた。興味こそ才能なれと言うが、彼女のそれはあまりにも超越していた。
そしてもうひとつは、『彼女は本当に何も知らない』ということだ。
アインはロマンチックにも「桃色の花が咲いているように見えた」と表現していたが、アグレイがナターシャを初めて見た時に連想したのは、百年前に起きたとある世界的事件だった。
それは彼女の特徴である、眩しいほど鮮やかな桃色の髪が関係しているのだが、歴史の勉強中にそれとなく事件について触れてみたところ、彼女はきょとんとした顔で首を傾げていた。その時アグレイはやっと、彼女には何の因縁も無く、偶然その特徴を得ただけか、もしくは何も知らされていないのだと腑に落ちたのだ。
今日もアイン達はお使いをさっさと済ませると、元気に家を飛び出して山へと駆けていく。窓越しにふたつの小さな背中が遠ざかっていくのを、アグレイは目を細めながら眺めていた。
いつの間にかうたた寝をしていたようだ。外ももうだいぶ傾いている。そろそろ夕餉の支度をしようかと考えていた時、
「……?」
扉をノックする音が響いた。
客だろうか。そう思いアグレイは杖を片手に、ゆっくりとした動作で玄関まで行く。骨張った大きな手で扉を開くと、そこにはぼろぼろのローブを
「いらっしゃい。どんな御用で?」
「うむ。まだ健在でなによりだ、アグレイ・ウィルグ」
途端にアグレイの顔から表情が消える。一瞬だけ目を見開いたかと思うと、目の前の老爺を憎々しげに睨んだ。
睨まれた方の老爺は、ぼろぼろのローブを脱いで腕の中でくしゃくしゃと丸める。ローブの下は、いかにも清潔そうな純白の服で、コルクのボタンが縦に並んでいた。ところどころ白髪混じりの黒髪が、丁寧に後ろに向かって撫で付けられている。色素の薄い茶色の瞳は、左目は永年の闇に囚われ退化した生き物のように白濁としており、右目は大昔の賢者の如く静かな輝きを灯していた。
アグレイは震える声で相手の名を呟く。
「ディビアン・ムウラ……」
「久しいな、宮廷時代の親友よ。会えて嬉しいよ」
「……ワシは会いたくなかったよ」
アグレイはそう言い捨てると
「で、いったい何の用だ」
ロッキングチェアに腰掛け、アグレイが低い声で尋ねる。
可愛らしい陶器のティーカップがふたつ置かれた木製のテーブルを挟み、向かい側にはディビアンが、背もたれに細かい彫刻が施された椅子に座っている。
ディビアンは懐から片眼鏡を取り出し、右目にかけた。薄茶色の瞳がふた回りほど拡大され、ぎょろりとアグレイを見る。
「年寄りはせっかちで困る。まずは世間話といこうじゃないか」
「お前さんと話す事など何も無い。ワシが宮廷から足を洗った、あの日からずっとだ。いいから要件を簡潔に話せ」
「足を洗った?はは、随分な言い掛かりじゃないか。あれはお前が逃げたんだろう?」
アグレイがディビアンを恐ろしい形相で睨みつける。ディビアンはまったく気にする様子もなく、ティーカップをゆらゆら揺らしては静かに口をつけた。
重たい沈黙が流れる。ふたりの老爺は、積年のライバルのように目を合わせると、そこには冷たい火花が散ったように見えた。
先にアグレイが目を逸らす。ふう、と溜息をつきながら、目頭を指で押さえた。
「……兎に角、要件を話せ。年甲斐もなく喧嘩がしたいわけじゃない。お前さんが直接出向いてくるという事は、何か重要な
「うむ。君の孫のことだが」
ディビアンは静かに口を開く。アグレイは分かっていたとでも言いたげに、また深いため息をついた。
「昨今の薬師不足が深刻化している。
ディビアンは片目でアグレイを見る。大昔の賢者の如く静かで、まだ見ぬ未来への憂いを秘めた右目が、ぎらりと不気味に輝いた気がした。
「君の孫、アイン・ウィルグはもうすぐ大学の入学可能である十五歳になるだろう。誕生日を迎えると同時に、わたしと王都へ行ってもらう。そして大学へ通い、薬師となるべく勉強をするのだ」
「ちょっと待て!」
アグレイが立ち上がって大声を上げる。その顔には焦りと怒りが浮かんでいた。
「約束が違うじゃないか。ワシが生きている限りはお前さんらに好き勝手はさせない、そう言ったはずだろう!」
「状況が変わったのだ。だからわたしがこうして直接出向いている」
アグレイの肌は青白く、額には汗が浮かんでいる。対して、目の前でアグレイを見上げるディビアンの表情は変わらず無表情で、何を考えているのか全くわからない。
「君の孫が十五歳になったら、アインはわたしの養子とし、大学へ推薦して学校に入れさせる」
「……ワシがこの世を去ったら、というのも条件だったはずだ」
「だがその後はアインの自由だ。薬師になるも良し、別の道に進むも良し。それはわたしたちが強制すべきことでは無い」
「……」
「だが君は知っているのではないか?」
「……」
アグレイは黙ってディビアンを睨んでいる。無表情で淡々と話すディビアンは、瞬きもせず不気味な蝋人形のように動かない。口だけがぱくぱくと、深淵を覗かせるように開いては閉じた。
ちょうどその時、ばたんと音がして玄関の扉が開かれた。振り向くと、そこには帰ってきたばかりのアインとナターシャが立っていた。
アインは見知らぬ来客に気がつくと、慌てて足を揃えてお辞儀をする。ディビアンはそれに片手で軽く応えた。
「こんばんは」
「うむ、また会ったな」
「え?……どこかで会ったっけ?」
思い当たる節がないアインは首を傾げる。ディビアンは傍らに置いていた、丸めたローブを広げ、薄汚れたそれを羽織ってみせた。
アインは少し考えたあと、それが以前街で会った、ボルガの店の前にいた汚れたローブの老人だということに気がつく。ボルガに殴られ蹴られ、怪我をした老人にアインは薬草の知識を披露したのだった。
アインはあっと声を上げ、それから祖父の顔を見て口を
ディビアンは立ち上がり、アインの元へと歩く。老人にしてはしっかりとした足取りで、背筋も伸びている。
アインは、彼が着ている白い服から目が離せなかった。ディビアンが歩く度に、微かにアルコールの匂いがした。
胸が高鳴る。彼が何者であるのか、アインは何となく予想がついた。
ふいに差し出された手を見つめる。幾筋も浮かんだ細い血管が、手首の方へ行くほどに集約され、太い一本の血管となっている。
その先にある老爺の顔は、半分は深海で光を失った生物の如く闇に覆われ、半分は目の前のアインを、怖いぐらいの期待で満ちた輝きで見つめていた。
気づけばアインは、その手を握り返していた。
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