1-18

 ようやく家に戻ってこれた頃には、すっかり夕方になってしまっていた。寝ずに薬草茶を作り続け、患者の様子を見ていたアインは疲れ果て、ナターシャに支えてもらいながら帰ったのだった。

「じーちゃん!」

 ドタバタと忙しなく寝室まで駆けていくと、ベッドで横になったアグレイと、その傍らで椅子に座ったディビアンが、二人のことを待っていた。

 ディビアンは何も言わずに立ち上がり、椅子を持ってその場を退く。アインはふらふらと足元が覚束無い様子でアグレイに近寄ると、膝をついて顔を覗き込んだ。

 アグレイは静かに眠っていたが、アインが傍に来たことを察すると薄く瞼を開けた。

 アインは驚いた。祖父の瞳はこんなにも色薄く、肌はこんなにもしわくちゃで、髪や髭はこんなにも雲のように白かっただろうか。

「……おかえり、アイン」

 アインが口を震わせて何も言えずにいると、アグレイが低く小さな声で囁いた。その声が今にも消え入りそうに小さくも、いつも通りに優しく深い声で、目頭が熱くなる。

 ナターシャは二人の様子を、一歩下がったところで見ていた。

「じーちゃん、オレ、今たくさんの人を助けてきたんだよ……」

「そうか」

「母さんが教えてくれたんだ。煙病に効く薬の作り方」

「そうか」

「すぐに来れなくてごめん。でも、フィオールの人達はオレにとって大切な人達だから、絶対助けなきゃって思って……」

「わかっとるよ。よくやったな」

 大きく見開かれたペリドットの瞳から、ついに大粒の涙が溢れ出す。アグレイが骨ばったしわしわの手でアインの頬を撫でた。アインはそっと小さな手を重ねる。

「ミラを失ってからというものの、わしは随分と臆病になっていたようだ。もう二度と同じ過ちを犯すまいと思い、お前さんを守っていたつもりが、大事な時娘の傍に居てやれなかった自責の念を他にすり替えていただけなのかもしれん」

 眠そうなアグレイの声。しわがれた声が心臓の奥で響き、感情を揺さぶる。

「お前さんはお前さんだったのに、なあ」

 アインがとうとう声を上げて泣き始めた。今まで見たことがない、アインの幼い孫としての姿。アインが「死なないで」と叫んだ。アグレイは困ったように笑うだけだった。

 アグレイは少し離れたところで立っているナターシャを見て、こっちにおいでと言うように目で合図した。ナターシャは迷い、もじもじとその場で尻込みをしていると、ディビアンがナターシャの背を押して、そっと二人の側へと寄せた。

 ナターシャは戸惑いながらも、アインの横に膝をつく。そしてわんわんと泣き喚くアインの肩を恐る恐る抱く。

 アグレイがもう片方の手をナターシャの方に差し出した。初めはどういう意味かわからず、その手とアグレイの顔を見比べていたが、やがてナターシャは同じように片手を差し出した。アグレイはナターシャの手を掴み、僅かに上下に振る。握手だ。その手はもうほとんど熱を帯びていないのに、指先から温まるような不思議な感覚だった。

「世話になったね。ありがとう」

 アグレイはナターシャを見て、そう言った。なぜ自分が礼を言われているのか疑問に思った。ありがとうはこっちの台詞なのに。

 ゆっくり、ゆっくりと重い瞼を降ろすアグレイは、顔のすぐそばに居るアインにしか聞こえない声で何事か呟いた。

 その瞬間、泣き喚いていたアインがぴたりと泣き止む。ぐしゃぐしゃになった顔でアグレイを見つめ、頬からずり落ちる手を必死で掴んだ。

 アグレイの瞳は閉じられた。短い白いまつ毛はぴくりとも震えず、同じくらい白くなった顔は穏やかに眠っているように見えた。

 いつものようにベッドで横になって眠っている。だけどそこに、もう命が無いことが見て取れた。

 アインはしばらく呆然とし、へたりこんだまま立ち上がれずにいる。ナターシャもディビアンも何も言わず、アインが動くまで待っていた。

アインは呼吸を取り戻す。ずっと息を吸っていなかったようだ。浅い呼吸から少しずつ深く長い呼吸へと変わっていき、一際大きく吸い込むと、胸いっぱいに溜め込んだ空気を長く吐き出した後、アインは立ち上がった。

 くるりと振り返り、後ろに立つディビアンと対面する。泣きすぎて真っ赤になった顔を袖で乱暴に拭いたため、鼻の頭がさらに赤くなった。

「……アンタ、じーちゃんと約束してたんだろ。オレが十五歳になったら王都の学校に入れてくれるって」

「その通りだ。だが、君の祖父君は許していないようだったが?」

「許してくれたよ、さっき」

 アインは俯きがちに微笑んだ。その顔が昔のアグレイとそっくりだと、ディビアンは懐かしさを憶えた。

「『仲直りしよう』って。『後悔のないよう生きなさい』って、そう言った。これは許してくれたって思っても良いだろ?」

 ペリドットの瞳がきらりと輝く。濡れた若葉のように瑞々しく、夕暮れに反射する湖面のように眩しい輝きだった。

 その瞳から、一筋の涙が流れ出る。丸い頬を伝い、顎の先からぽたりと落ちて、床で弾けて模様を作った。

 アインは震える声で言った。

「後悔のないように生きるんだ。誰の真似でもいいから、オレはオレが憧れた、正しいと感じた道へ行く。そこには苦痛や挫折があったとしても、後悔は一片もあるはずがないから」

 ナターシャはアインの背中を見つめていた。桃色の瞳に、目に見えないはずの何かを焼き付けようとしていた。


 葬式はフィオールの中央にある公園で行われた。

 世話になったから、とたくさんの人がわざわざ町外れの小屋まで足を運び、それが一日中続いたので、それなら公園の広い場所で行おうと誰かが言ったのだ。

 メラジアスは樹木葬が伝統的であり、埋骨する場所はほとんどが庭、もしくは森の中なのだが、アインの希望で公園の中央に埋められることになった。アグレイは昔から、この公園は日当たりが良すぎるから何か植物を植えた方が良いと言っていたからだ。街の人達もそれに賛成し、皆で埋骨する準備を進めていた。

「誕生日は来月だろう。それまで時間はたっぷりあるから、ゆっくり支度をするといい」

 着々と葬儀の準備が進められていく様子を眺めていたアインに、ディビアンが話しかける。手には一輪の桃色の花を握っており、大ぶりな花びらが鮮やかに風に揺れていた。

「そうするよ」

 アインがそう言うと、ディビアンは少し意外そうな顔をした。

「驚いた。少しでも時間が惜しいからすぐに旅立つとでも言うと思ったよ」

「まだ煙病の症状が治りきってない人もいるんだから、しばらくは看病で動けねーよ。でも、そう言ってたらどうした?」

「君の言う通りにしていたよ。私としても君のような人材が手に入るのは実に喜ばしいことだからね。だがそんな事をしたら、あの世でアグレイに殴られるだろうな」

「じーちゃんは人を殴ったりしねーよ」

「それはどうかな。彼ほど短気で血の気の多い人を私は知らないよ。その次は君の母上かな」

 アインは笑う。その様子を見て、ディビアンは目を細めた。

「……君は優しいな」

「え?」

「私がアグレイに治療を施さなかったことも、街で煙病患者の元へ行かなかったことも責めないのだな」

 ああ、とアインは呟く。

「だってアンタら薬師は、正式な依頼を受けて上からの許可が出ない限り勝手なことは出来ねーんだろ?極秘技術の流出を防ぐためだとか」

「よく知っているな」

「母さんの日記に書いてあった」

 ディビアンは驚いた顔をし、ふふ、と優しく笑った。そしてまた公園の方へ目を向ける。

 土を掘り返している男達に混じって、ナターシャも一生懸命に働いている。なにか手伝いをしたいと自ら申し出たのだ。長い桃色の髪の毛は後ろで結わえられ、しっぽのように背中でゆらゆら揺れている。陽光に照らされて、キラキラと朝露に濡れた花びらのように輝いた。

 手向けの花のようだ、とアインは思った。桃色の花というのはこういった大事な儀式の時に用いられるほど清く、重要な意味合いを持つ。

「さあ!準備できたぞ。みんな集まるんだ」

 八百屋の主人が声を張り上げる。妻の病気が治ったことですっかり元気になった主人は、今日の葬儀で誰よりも張り切っていた。

 人が集まり、穴の空いた地面を中心に輪のように並ぶ。力自慢の男達によって、木製の棺に入れられたアグレイが運ばれ、ゆっくりと穴の中に入れられた。

 ひとり、またひとりと進み出て、棺の上に桃色の花を一輪ずつ置いていく。市場で物売りをする商人達。ギルドで働く少女たち。そしてヒリナが、まだ少しだけ熱っぽい瞳で花を置く。その場で立ち竦み、涙で目を潤ませながらにっこりと笑うと、深々とお辞儀をして去った。

 ディビアンが花を置く。汚れひとつない白い服がとても眩しく、光がぼんやりと重なって見えた。一瞬だけディビアンの横に老人が立っているように見え、アインは目を瞬かせる。目の錯覚だろうか。もう一度目を開けた時、やはりそこにはディビアンしか居なかった。

 ナターシャが皆の真似をして花を置く。土掘りをして泥だらけになった格好のまま、彼女はじっと棺を眺めた。やがてふっと顔を上げ、何かを目で追っているようだったが、しばらくすると踵を返して戻ってきた。その顔は少しだけ緊張しているような、決意に満ちた顔をしていた。

 最後に、アインが前に進みでる。手には桃色の花と小さな苗木。アインの置いた花によって、棺はたくさんの桃色に囲まれて見えなくなってしまった。実に鮮やかな、温かい色だ。

 アインの合図によって、また男たちが集まってくる。手に持ったシャベルで土をかけ、棺を埋めていく。ナターシャも手伝い、やがて広場は元の広い空間に戻った。

 アインは苗木を少し盛り上がった場所に植える。まだ小さな黄緑色の葉を揺らす、若い苗木だ。いつか地面深くに根を張り、風にさざめく葉を大量につけた、大きな大きな樹となるだろう。

「失礼します」

 うやうやしく頭を垂れながら、祭司が前に進みでる。鮮やかな青色のカソックが目に染みる。

 フィオールには教会が無いため、隣町から神父を呼ぼうとギルドへ駆け込んだ時に、たまたま諸事情でフィオールに赴いていたアンディールの神父がいて、祭司の役を快く受けてくれたのだ。

 祭司が左手に本を抱え、右手にロザリオを掲げながら何事か唱えている。耳を済ませてよく聞いてみたところ、それが古代メラージア語であることがわかるが、どういう意味なのかは分からない。

 祭司が祈りを終えると、皆の方を振り向いた。同じ事を繰り返すようにという合図だ。祭司はまた前を向くと、右手のロザリオを持った手を高く掲げた。周りの人々も同じように右手を掲げる。祭司の低い声が響く。

「ここにいる全員が、貴方様が女神の御心のままに生きたという証人となりましょう。いつか大地に恵をもたらす木となり、風となり、命となるように。安らかなる旅路を、心よりお祈り申し上げます」

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