1-17

 ナターシャは秘密基地へと走っていた。

 途中でヤタエ村を素通りする。いつもはしんと静まり返っている村が、風に吹かれて何事かざわめいている。

 秘密基地に辿り着くと、ナターシャはまず中に入って大鍋を手に取った。こんな状況だというのに、部屋の中は埃と湿気と静寂に満たされた空間で、突然の闖入者に一瞬だけ身動みじろぎし、また深く眠りにつくようだった。

 子供ひとり簡単に入ってしまえるくらいの大きさの鍋だが、ナターシャはそれを軽々と持ち上げると、薬品棚の方へ向かった。アインが言っていた、止血剤とやらを持っていく為だ。

 棚には白っぽい粉が入った小瓶や、透明な液体が入った小瓶など、似たようなものがいくつも並べられている。どれが目当てのものか分からず困り果てるが、ナターシャはとにかく全て持っていこうと小瓶に手を伸ばした。

(───……)

 ふと何かが聞こえた気がして、ナターシャは辺りを見渡す。だがそこには埃を被った書物や小瓶がただ並べられているだけだ。ナターシャの動きに合わせて空気が泳ぎ、積もった埃が宙を舞った。

 ナターシャは桃色の瞳で部屋の中をぐるりと見回し、不思議に思いながらも棚に向き直る。

と、何にも触れていないのに小瓶がひとつ落っこちた。小瓶はころんころんと回転しながら、ナターシャの足元まで転がってくる。

 ナターシャはそれを拾い上げると、小瓶の中に入った透明な液体がちゃぽんと軽快な音を立てた。

「……」

 ナターシャはじっと小瓶を見つめていたが、やがてそれをポケットの中に放り込むと、部屋を後にした。

 外に出ると、ナターシャは次に小さな畑の前でしゃがみこんだ。アインがツボイチゴが必要だと言っていた。

 以前アインがこの畑の前で、ツボイチゴについて教えてくれた事がある。

 ナターシャは二枚の葉の根元が壺のように膨らみ、先端がすぼまった形の植物を手に取った。数ヶ月前に見た時よりもだいぶ大きく、色も濃く育っている。葉をかき分けて中を見ると、黒いつぶつぶした丸い実が、息を潜めてそこに隠れていた。

 ナターシャはツボイチゴを摘む。周囲にある同じ形のものを全て摘み取り、鍋に放り込んだ。

 用事が済んだので山を下りようとし、立ち止まる。後ろを振り返ると、石造りの秘密基地が静かに建っている。ナターシャは秘密基地を見つめ返す。

「……そんなに心配しなくても、アインがきっと何とかしてくれる。自分も手伝う。だから、怖がらなくていい」

 一瞬の静寂。風も虫の音も止み、目に見えない何かが身体を覆う。

 と、柔らかな風がどこからか吹き、ナターシャの髪の先を弄んだ。微かに、薬品のツンとした香りが鼻をくすぐった。

「……いつまでも縛り付けてやるな。アインはもう、じゅうぶん苦しんだろう」

 そう言い残し、ナターシャは山を下りた。


 ものすごいスピードでナターシャは山を下る。

 大きな鍋を抱えているにも関わらず、足に絡まる草を振り払い、月に輝く小さな花を飛び越える。ナターシャは自分自身でも不思議に思っていた。

 助けを待っている人がいる、と考えると、不思議と身体が軽くなる。足が勝手に動き、飛ぶように野を駆けることができる。その間は僅かな自由に対するよろこびと、もっと速く走らなければという恐怖に似た何かが心を支配している。どく、どく、と心臓が強く跳ねる痛みに、ナターシャは何故か瞳が潤んだ。ナターシャには、それが一体何なのかはまだ分からない。

「アイン!」

 山を下り、街へと戻ってきたナターシャはアインの元へと帰る。アインは広場に移動し、砂場の上で火を焚いていた。傍らには料理用の手鍋―――ナターシャが持ってきた鍋に比べると五分の一ほどの大きさのもの―――が用意されている。その周囲には不安そうな顔をした街の人達がアインを取り囲んでいた。

 真っ赤に燃える火を前に、アインは汗だくでナターシャを振り返る。

「随分早いな。よし、ツボイチゴは全部置いて、次はその大鍋いっぱいに水を汲んできてくれ。……ひとりで行けるか?無理そうなら、オレも手伝うけど」

「大丈夫だ。ひとりで行ける。あと、これ」

 ナターシャは力強く頷くと、小瓶をアインに渡し、また大鍋を抱えて井戸のある町外れの方へと走っていった。アインはナターシャがあっという間に暗闇に消えていくのを見送り、自身は次の作業へと取り掛かった。

「アイツ、これが止血剤だってよく分かったな。ラベルも何も付いていないのに……まあ、いーや。母さんの日記によると、ツボイチゴの葉を炒めて煮る……作り方はいつものツボ茶と同じか」

 まず、ナターシャが持ってきたツボイチゴの選別を始めた。色がより濃く、つやつやとしたものを選ぶ。重なり合う葉を開き、中の黒い実を傷つけないように取り除く。手鍋の底が埋まったら、焚き火で焦がさないように注意しながら炒める。

 ナターシャが鍋いっぱいに持ってきたツボイチゴは大量で、それを全て処理するとなると、とても骨が折れる作業だった。アインひとりではとても終わりそうにない。

「……アイン、そんな草で本当に治るのか?」

 火を目の前に、汗を拭き拭き作業をしているアインに、ひとりの男性が話しかける。アインがお使いで買い物に行くと、いつもおまけを付けてくれる八百屋の主人だ。

 明るく笑う顔が印象的な主人の顔は、今は不安と心配に強ばっている。日に焼けた肌も青白い。

「俺の女房はもう物を食べることもできねえ。早く治してやらなきゃ、死んじまうかもしれねえ。なあ、本当に治るのかよ」

 その後ろから、子供を抱えた女性が顔を出す。

「うちの子供達もだ。苦しい、熱いと叫ぶばかりで見ていられない。どうにかしておくれよ……」

 その後ろからさらに、街の住民たちが口々に訴えはじめる。うちの父親が、娘が、兄弟が。家族が危機に瀕していると、不満をアインに浴びせる。

 アインは答えることが出来なかった。なぜなら、薬の有用性を証明することが出来ないからだ。母親のことを疑っている訳では無いが、文章だけで寸分違わず再現することは不可能だと感じていた。

 それでも、大勢をすぐに救う方法はこれしかない。不確かな情報だとしても、試さない訳にはいかないのだ。

「……母さんが教えてくれた方法だから、効果はあるはずだ。でも原理とか分かってないし、上手くいく保証もないから、隣町とか近いところにいる薬師を呼んできて欲しい」

「薬師ならアグレイさんがいるだろ。アグレイさんは来ないのか?」

「………」

 アインは唇を噛む。出来ることならアインだってアグレイに来て欲しい。こんな状況は自分にはあまりに重すぎた。

 それに、ナターシャからアグレイが倒れたと聞いた時は……すぐに帰って、傍に寄り添いたかった。喧嘩して家を出てきてしまったけれど、たった一人の家族だから、誰よりも大切な人だから。

 今もこうやって薬草茶を作りながらも、足が我が家の方へ向いている。気を抜けば走り出してしまいそうだ。それを、アインは強く鍋を握りしめ、歯を食いしばることで耐えていた。

 八百屋の主人は、黙って薬草を炒めているアインを見下ろしている。まだまだ大量に残っている薬草の葉っぱと、アインを見比べる。焚き火の火で、浅葱色の髪の毛はオレンジ色に照らされ、滲んだ汗で丸い頬と細い首筋にぺったりと張り付いていた。

「………ああ、くそっ」

 八百屋の主人はガジガジと頭を乱暴にかくと、アインが持っている手鍋をひったくった。アインが驚いて見上げる。

「お前しか薬草茶の作り方は知らないんだろ。雑用は俺たちがやるから、お前はみんなに指示を出せ。大勢でやった方が早いだろ」

 八百屋の主人がそう言うのと同時に、集まっていた人々がわらわらと散って行ったかと思うと、それぞれ自分たちの家から手鍋やお椀を持ってきた。

 男達は広場のあちこちで焚き火をしだし、女達は火がついたところに鍋を敷いて薬草を炒め出す。山ほど積まれていたツボイチゴの葉が、あっという間に消えていく。

「あ、ありがとう……」

 アインは瞬く間に状況が進んでいくのを驚きながら見つめた。

 これは想定していなかった。全部自分がやらないと、と勝手に思っていて、皆に手伝ってもらうことは考えていなかった。

「さあ、そろそろいいんじゃないかい?これ以上火を通すと焦げ付いちまうよ。アイン、この後はどうするんだ」

 女性がひとり声を上げる。ヒリナの家の向かいの奥さんだ。子供が五人いていつも叱っている為、ドスの効いてしまった声でアインに尋ねる。

「あ……えっと、全部炒め終わったら次は煮るんだ。ナターシャが今水を汲んで帰ってくるはずだから」

「アイン!汲んできたぞ!」

 遠くから声が聞こえる。その声はすぐ近くまで駆け寄ってくると、アインの目の前で停止した。

 はあはあと、息を切らすナターシャの腕の中には、なみなみ水が汲まれた大鍋が抱えられていた。全部で風呂一杯分程の水になるだろうか。流石のナターシャでも重いのか、少しふらついている。

「よし、そしたら鍋をそこに置いてくれ」

 アインが指示を出し、ナターシャはふらふらと火に近寄ると、大鍋を五徳の上に乗せる。鉄製の五徳が、鍋の重さに驚いたように、ギチチ、と固い唸り声を上げた。

 ツボイチゴの葉を炒めた手鍋を持って、皆が次々に水を掬っていく。約十箇所ほどでツボ茶作りが行われ、アインはそれぞれを見て回って細かく指示を出した。

 ツボ茶はすぐに完成した。住人たちは本当にこんなもので良いのかと言いたげにアインを見るが、アインは半ばやけくそになりながらそれを患者たちに配った。自分で飲める者には熱く濃いものを。炎症が酷く痛みを訴える者には、止血剤を飲ませてから薄めの冷ましたものを。

 効果がすぐ出るわけじゃない。皆疑っていた。それでもアインだけは、大丈夫だ、絶対治ると信じて待つしかなかった。そして皆も、そう言い張るアインを信じて、指示に従うしかなかった。


 翌日の昼、比較的軽傷だったヤタエイモ農家の一人息子の熱が下がり、飲み食いが出来るようになったと喜びの声が上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る