【Episode.2】麻色の学者と金色の踊り子

2-01

 ある日養父はこう言った。

「未知のもの、有り得ないものを目にした時、我々は思考を止めてはならない。排除、迫害、隔離……そうして生まれたものはなんだ?ん?」

 僕が分からないと答えると、養父は自信満々に答えた。

「歴史の闇だよ。悪いことをしている自覚はあるから、隠そうとするだろう。そうすると見た目は綺麗さっぱりするが、隅っこにゴミが溜まっていく。覚えておきなさい。大衆が忘れ去った事だとしても、は覚えているものなのだと」

 僕がとは誰なのか聞くと、養父は少し口篭くちごもる。そして声を潜め、何かを恐れるようにキョロキョロと目線を動かした。

「それは人であり人でなく、特定の何かであり特定の何かではなく、そしてそれもまた歴史の闇だ。お前もいずれ知ることになる。だがその時、決して恐れをして逃げることの無いようにするんだ。同じ過ちを決して繰り返さないように、な」

 養父の言葉の意味を、僕は本当の意味で理解出来ているのだろうか。

 あれから僕はたくさん勉強した。たくさん学び、たくさんの事を知った。

 この国のことも、外の世界のことも。

 養父が言った、『歴史の闇』のことも。

 それらを知ったところで、お金が無ければなにも出来ないということも。


「それじゃあ、俺はもう行くよ」


 頭上で声をかけられ、のめり込むように読んでいた本から顔を上げる。美しい金髪を短く揺らす少年が、夕日に似た色の瞳を煌めかせていた。

「本当に行くのかい?あの子が悲しむよ」

 僕がそう言うと、彼は少し表情を曇らせ、しかし決心は変わらないというように首を横に振る。

「あの子の為なんだ。ゴミ漁りなんかしてもこれっぽっちの金にすらならないし、この国の鉱山はもう掘り尽くされて、何にも残っちゃいない。モドが教えてくれたんじゃないか。この海を越えた先の大陸には、有り余るほどの金と鉄があるんだろう?俺はそれを掘って一山当てるのさ」

「危険だ。大陸なんて」

 僕は立ち上がり、彼を止めようとする。しかし彼は踊るように僕の手をすり抜けると、消えてしまいそうなほど綺麗な顔で笑ってみせた。

「大丈夫だ。きっと帰ってくる。それまでは俺の妹のこと、よろしく頼むよ」

 彼は手を振り、荷物も最低限に出ていった。

 外国行きの貨物船にこっそり乗り込んだ彼は、海を隔てた先にある、広大なる大陸へと旅立ったのだ。

 止めることは出来なかった。僕らはあまりに貧乏だったから。

 美しい金髪の小さな妹をおいて、彼はこの街……いや、この国から出ていった。

 もう十五年以上も前の話だ。



【Episode.2】麻色の学者と金色の踊り子



 神秘と混沌に満ちたとある世界、とある大陸【グレート・マギオン】。

 その片隅に佇むは、数々の列強に海を隔てて囲まれながらも、命からがら歴史を生き抜いてきた小さな島国、メラジアス。その最南端に位置するは、沿岸部にひらべったく伸びる白い街並が特徴の、別名『文字が泳ぐ街』と呼ばれる繁華街アンディールだ。

 住宅街は白く塗られた石壁が、太陽光に反射してとても眩しい。至る所に食堂やバルがあり、避暑に来たらしき若い女性や恰幅の良い男性が、日傘をさして優雅に大通りを通り過ぎる。

 海岸の白い砂浜の上では、涼しい風が吹いているにもかかわらず、肌もあらわな水着を着た男女が寝っ転がり、肌をこんがりと焼いている姿が見受けられる。

 青空と白のコントラスト、明るさと喧騒けんそうの中に自由が垣間見える街だ。

 ゴトン、ゴトン。

 砂利道に揺られる牛車が現れる。丸三日間も歩かされた脚長牛オックロスは疲れ果てた顔をし、そのお尻を御者がしなる鞭で引っぱたいた。

 ひょっこり、キャビンから少女が顔を出す。桃色の髪が風を受けて広がり、レースのカーテンのようにひるがえした。

「すっごく、キレイ……!」

 髪の毛と同じく桃色の瞳を見開く少女、ナターシャは、絵画の世界のような街並みに感動して声を震わせている。その横から浅葱あさぎ色の髪の少年アインも顔を出し、憧れの街に目を輝かせた。

「『文字が泳ぐ街』、アンディールだ!」

 遠くから聞こえる音楽に耳を澄ます。単調で何度も同じフレーズを繰り返すだけの簡単な曲だが、誰かが酔っ払って鼻歌を歌っているような、陽気で踊り出したくなる音楽だ。

 ナターシャが思わず体を揺らすと、牛車がそれに合わせてギシギシと鳴った。アインが落ち着けと注意する。前の席に座っていた片眼鏡の老人ディビアンと、青いカソックを着た神父が笑ってそれを見ていた。

 しばらくしてディビアンがナターシャに話しかける。

「そろそろアンディールの海岸沿いの町に到着する。こちらの神父はそこで降りるようだが、君はどこまで行くのかね」

「自分もそこで降ろしてくれればいい」

 ナターシャは待ちきれない様子でそわそわしながら頷く。アインが隣で羨ましげにため息をついた。

「良いなあ、オレも観光したかったよ。アンディールの海岸ではリヴァイアサンの回廊がよく見えるって言うし、大図書館とかアトリエとかも見てみたかったし……」

 ディビアンがそれを見て、肩を竦めた。

「仕方あるまい。我々は早く王都に行かなくては。入学試験が迫っているからな」

「分かってるけどさー」

 アインは拗ねた様子で口を尖らせるが、少し寂しげな顔をするとナターシャの方を向いた。

「元気でな。アンタのお陰でいろいろと助かったよ。その……また会えるよな」

「きっと会える。運命の女神が微笑む限り、何度でも巡り会えるだろう」

 二人は握手を交わす。まだ成長途中の小さな手が重なり、優しく握りあった。

 ナターシャと神父を降ろした牛車は、ゴトゴトと石畳に揺れながら遠ざかっていく。窓からアインが身を乗り出し、こちらに手を振っているのが見えた。ナターシャも両手を大きく振って、それに応える。

 お互いの姿が豆粒ほどに小さくなった頃、アインは不思議そうに呟いた。

「……いまの言葉、どこかで聞いたことがある気がするんだけど……」

 牛車が王都への道を急ぎ、姿が完全に遠く見えなくなると、ナターシャは手を振るのをやめ、これからどうしようかと悩み始めた。その様子を見ていた神父が声をかける。

「ここは漁と観光で成り立つ街ですから、観光をしてみては如何ですか?宿が見つからないようでしたら、私どもの教会で寝食の手配をすることも可能です。ぜひキルプス教会までいらしてください」

「ありがとう。ぜひ観光したいと思う。宿はそうだな、困ったら頼む」

 ナターシャは手短に言うと、わくわくを抑えられない様子で駆けて行ってしまう。神父が慌ててその背中に向けて声を放つ。

「そうそう、あまり裏路地の方には行かないようにしてください。アンディールは最近栄えだしたとはいえ、暗い場所はまだ治安が───って、行ってしまいました……」


 アンディールはアインやヒリナが言っていた通り、とても美しい街だった。

 道路や広場などは工事中で、整備された場所はまだ少ないが、あちこちにガラス細工の像やキラキラと光る垂れ飾りが下がり、街全体が水面のように輝いている。

 海岸を歩いていると、イーゼルにキャンバスを立て掛けて、筆を片手に絵を描いている人をよく見かけた。ナターシャはそのうち一人に近づいて、すぐ後ろからじいっと見ていた。

「……なんか用かい、お嬢ちゃん?」

 絵描きは煩わしそうな顔でナターシャを振り返るが、鮮やかな桃色の髪が風に舞うと目を奪われ、しばらく息も忘れて惚けていた。

 ナターシャが「これは何だ?」と尋ねると、一瞬唾を飲み込み、途端に優しい顔つきになって、沖に向かって指をさす。

「あれを見てご覧。遠くに渦巻きが見えないかい」

 絵描きが指さした方向によく目を凝らしてみると、確かに、大きな渦巻きが白飛沫を上げながら海面で轟いていた。

「ここらはとても流れが早く、リヴァイアサンの回廊と呼ばれる海域なんだ。特にあの渦潮は特定の条件でのみ現れる自然現象で、メラジアス南海で観測できるものは世界で最大なのさ。大きいものでなんと直径1000Sステークにもなるんだ!凄いだろう?」

 画家が自慢げに言うも、ナターシャはその凄さがいまいち分からず、曖昧に相槌を打った。

「それも数年に一度、稀に見れるか見れないか程度の確率さ」

「なるほど、とても珍しいものなんだな」

「その通り。でも珍しいと言えば君もまあ……」

 画家は隠す様子もなくじろじろとナターシャを見回す。

 画家は急に何かを思いつくと、ナターシャの腕を掴んだ。

「頼む!君、絵のモデルになってくれ!」

「モデル?」

「少しだけ、この海を背景に立ってくれるだけでいいんだ!もちろん礼もする!」

「はあ……?」

 絵のモデルがなんだかよく分からないが、何度も深く頭を下げ、手を合わせて懇願する画家の姿にナターシャは困り、あまりにも必死に頼み込むので、最終的にはナターシャが折れて画家の願いを聞いてやることになってしまった。

「まあ、少しだけならいいぞ」

「本当か!ありがとう!」

 画家はぱあっと顔を輝かせ、イーゼルの位置をずらしたり、ナターシャの立つ場所やポーズの指示をし始めた。

 ナターシャはこの一時間後、絵のモデルとやらを軽々しく引き受けたことを深く後悔することになった。

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