2-02

 ナターシャが画家から開放されたのは、太陽が水平線へ落ちていき、その頭がまさに沈みこんだところだった。

 立っているだけで良いと言われたが、背中が痒くて少しでも動こうものなら、すぐさま画家が「動くな!」と叫んだ。だんだんと足が疲れてきて、ナターシャが「もう終わりでもいいか」と聞くと、画家は恐ろしい顔でキャンバスを睨みながら首を横に振るのみ。ナターシャはその時、とんでもない依頼を受けてしまったと深く後悔したのだった。

 挙句画家は描き終わった後もあまり納得していない様子だったが、これ以上は暗くて描けないという理由でやっと解放してくれたのだ。しかも、その失敗作をお礼だと言いながら手渡して。

 ずっと立っていただけなのに、ナターシャはお腹がぺこぺこだった。そういえば今日は、朝から何も食べていない。どこか近くで飯屋を探すことにし、失敗作のキャンバスを抱えながら浜辺に沿って歩いた。

「昼間はすごく賑やかだったが……夜はなんだか静かだな」

 並んでいた屋台はいつの間にか店仕舞いされ、壊れかけた椅子やゴミが散らばり、どこかから腐ったような異臭が漂ってくる。話し声でかき消されていた波の音が、やっと静かになった浜辺で歌うように響いている。

 ナターシャは街中を歩いてみた。時々、民家らしき石壁の奥から人の呻き声が聞こえる。

 フィオールとは家の造りが全く違い、石を積み上げて造られた壁に白い塗料を塗っているようだ。だがその塗料も所々剥がれ落ち、雨風に汚れ、まるで昼間の街とはまったく違う街に来てしまったようだ。

 と、壁の隙間から突然男が現れた。夜の暗さで見えなかったが、そこに通り道があるらしい。

 男はナターシャと目が合うと、一瞬驚き、しっしっと手で追い払うような仕草をする。ナターシャを軽蔑するような目で見た後、警戒しながら早足で歩いていった。

 ナターシャは行く宛ても無いため、男の後ろを、そっとついていくことにした。

 男はゴミの散乱する広い大通りから外れた、狭い道へと入っていく。暗闇に紛れて休んでいた動物が、ふたつの小さな眼を光らせて、人の気配に警戒して逃げていく。

 街頭すら無い怪しい路地を慣れた足取りで通る男と、少し離れた距離で、気付かれないように追いかけるナターシャ。男の足取りはどこか浮ついており、自分を追いかける少女の存在にまったく気が付いていない。しばらくして男はある建物の中に入っていった。

 頭上の高さに小さなランタンがひとつだけ揺れている。ランタンは円筒型のガラス製で、よく見ると人魚の模様が彫られている。扉の上側には、こちらも人魚の焼印がついていた。

 男が扉が開けた一瞬、中から女性の楽しげな笑い声と音楽、そして香ばしい匂いが漂ってきた。

 やはりここは飯屋らしい。男を追いかけてきて正解だったと、ナターシャも意気揚々と扉を開けて中に入った。

 むわっとした熱気と肌につく湿気。料理の香ばしい匂いとせ返すような酸っぱい匂い、それらをくぐり抜けるような甘ったるい花の匂いが混じり合い、異質な調和となって溶けている。

 青と銀を基調とした店内は細長く、上へと続く階段の先はビロードのカーテンが掛かっている。数人掛けのソファーとテーブルがセットになり、それぞれの席には男女が横に並んで座っていたり、または男がひとりだけ座っていたりしている。最も奥側にはステージがあり、今は端でひとりが蛇腹の楽器を弾いているだけだ。店内に流れるゆったりとした音楽は、どこか子守唄のようだが、聞いていて不安になる。

 はげしい匂いの渦に咳き込みながら、ナターシャは一番隅っこの空席に座った。画家から貰った失敗作を後ろの壁に立て掛ける。

 お品書きは無い。こういった店で食べること自体が初めてなのでよく分からないが、ドレスを着た女達がよく客席と店の奥を行ったり来たりしているので、女性が店員なのではないだろうかと推察する。

「あの、ちょっと」

 ナターシャは近くにいた派手な髪型の女に声をかける。

 女は突然子供の声がしたので周りをきょろきょろし、席にひとりで座っているナターシャを見るとぎょっとした顔をした。

「注文をしたいんだが」

 女性は少し目を泳がせたあと、店の奥へと走って言ってしまう。しばらくすると、店の奥から女性の代わりに体の大きい男性が出てきた。

ハゲ頭に太い首。細い目は今にも噛みつきそうにギラついている。斧を奮っている方が似合いそうな荒々しい雰囲気に対し、身なりは白いシャツにベストと、清楚で落ち着いていた。

 男はナターシャを一目見て、目の端を僅かに痙攣けいれんさせるが、ナターシャは気にすることなく話しかける。

「ここは飯屋だろう?何か作ってくれないか。お腹がぺこぺこなんだ」

「……ああ、いいぜ」

 男が目配せで合図すると、奥からこちらを覗いていた先程の女性が頷いてカーテンの奥へと消える。その一瞬、罰の悪そうな、暗い顔をしていたのが見えた。

 料理を待っていると、店内が僅かに暗くなり、前方のステージに照明が集まる。音楽も止まり、一瞬の静寂が訪れた。

 コツン、コツン、と軽い音がする。男性客からの歓声が上がり、同時に無数の拍手も響いた。上手側のカーテンが揺れ、ひとりの女性が姿を現す。

 腰まで伸びる長い金髪は、黄金の川のように波打つ。夜の闇を吸い込んだのかと思うほど真っ黒なドレスは全身にラメが入っており、女性が動く度に満天の星空の如くきらめいた。大胆に開いた胸元には紫色の石がはめ込まれたペンダント。体のラインがくっきりと出るドレスのスカートは太ももの辺りまでスリットが入り、白くて長い脚が惜しげなく照らされていた。

 ナターシャは突如ステージ上に現れた金髪の美女に見とれてしまった。生まれて初めて見た海よりも、絵画や物語の舞台となるほどの白い街並みよりも、彼女の肌や瞳、髪の毛が輝いて見えた。

 薄暗く生温い舞台の上を歩くだけで、妖しい金色のしっぽを振るように、店の中にいる全員をとりこにしている。飴色の瞳はどこか憂鬱にも見えるが、この場にいる皆を海の底に引きずり込もうとしているような獰猛どうもうさも垣間見える。

 奏者が傍らに置いてあった、自分と同じ大きさの弦楽器を片手で支え、糸を張った弓を使って演奏を始める。高いとも低いとも取れない音が空間を切り裂くと、金髪の女性は腕を高く上げ、足を踏み鳴らした。

 スカートが捲れ、脚が露になるのも気にせず持ち上げる。長い手足を惜しみなく使い、彼女は踊っていた。ドレスがメロディーに合わせるように翻り、幾度とない煌めきが目の奥に刺さる。白い肌に影ができる度、彼女の表情には死人のような不気味さが浮かび上がった。

 美しいと感じた。周りの客と同じように、ナターシャはため息を着く。この世のものならざる美しさが胸をざわめかせ、それが同時に心地よくもあるのだ。

「お待ちどう」

 気がつくと目の前に料理が並べられている。ほかほかと湯気を立てる肉料理が大皿に盛られ、周りを色とりどりな野菜が彩っている。屈強な男がすぐ後ろの壁にもたれ掛かりながら、ナターシャがそれを食べるのを見ていた。

「ありがとう」

 ナターシャはなんの疑いもなく一口含む。少し濃いめの味が空いた腹に染み渡る。脂気も多く喉が渇くが、酸味を効かせたスパイスに匙が止まらない。

 フィオールでは野菜が主の食事が多かった為、こんなに直接味がする食事は初めてだった。

 腹が重くなるのがわかる。ナターシャはあっという間に平らげ、幸せな満足感に息をついた。

 男はナターシャが全部食べ終わったのを見ると、小鉢のような器を取り出す。

 先程、自分より先に料理を食べ終わった客がこれに金を入れているのを見ていた。お勘定の意味なのだろう。

 ナターシャはアインに貰ったお金の入った巾着を手に取る。

「ご馳走さま。いくらだ?」

「2万Nネイルだ」

 ナターシャは驚いて、巾着を落っことしそうになった。

 アインからたくさん貰っていた為、払えない額ではない。しかし高すぎる。フィオールではアグレイのお使いとして市場で買い物などをした事があるが、高くてもこれの半分以下だった。

「いくら何でも、料理だけでその値段は高すぎる。何かの間違いじゃないか?」

「そりゃあ寝台料金も含まれているからね」

「寝台料金?」

 初めて聞く単語に、ナターシャは目をぱちくりさせる。男は器を懐にしまい、にやりと笑った。

「お嬢ちゃん、ここが何の店か知らずに来たんだろうが、食っちまった物は払わにゃあ。払えねえってんなら体で返してもらうしかないぜ。どうする」

 男の言っている意味がわからない。二人のそばを、客の男が女性店員と共に二階へと上がっていくのが見えた。上にも席があるのだろうか。

 目の前の男の目はギラつき、ナターシャを逃がすものかと鋭く尖らせている。あまり良い意味では無いことは、ナターシャにも感じ取れた。

 しかし旅は始まったばかりで、アインから貰った旅の資金をこんな所で無駄に消費する訳には行かない。『体で払う』とは何を意味するのか分からないが、労働で済むならそれで良いと思った。

「分かった。自分は何をすれば……」

 男が意地悪い顔で笑い、ナターシャに筋肉質な腕を伸ばしてきたその時、誰かがするりと間に割って入ってきた。

 波打つ金髪がナターシャの視界を覆う。さっきまで舞台で踊っていた、あの美しい女性だ。

「おい、何のつもりだロザリー」

 男は苛ついた声音で女性を怒鳴る。ロザリーと呼ばれた女性は、ナターシャを見てにこりと笑う。花が咲くような美しさに、ナターシャは思わず赤くなってしまう。

 ロザリーは男に何事か身振り手振りで伝えると、男は渋い顔をしてため息をつく。

「……まあ、店としちゃそれでも構わねえが……お人好しも大概にした方が身の為だぜ」

 そう言うと、男はナターシャの首根っこを掴み上げ、店の扉を開けるとそこから乱暴に放り出した。そのまま扉を閉めようとする男に、ナターシャは慌てて声をかけた。

「待て、お金は良いのか?」

「ああ、こいつが立て替えるってさ。良いになると思ったが……。良かったなぁ、身を汚さずに済んで。さっさとどっかに行っちまいな、世間知らずのお嬢ちゃん」

 男はそう吐き捨てると、壊れそうな勢いで扉を閉めてしまう。扉が閉まる直前、ロザリーが微笑みながらこちらに手を振っているのが見えた。


 ナターシャは迷子になってしまった。

 店から放り出され、とにかく宿を探さなくてはと暗闇の中を歩いてみたものの、見知らぬ土地では何処にも辿り着くことは出来ない。足も疲れてきたので、仕方なく建物の軒に身を丸めて野宿することにした。

 湿った風は少ししお辛い。最近は夜も冷える為、寝るのにはつらいかと思ったが、不思議と苦ではなかった。随分と昔にも、こうして外で寝たことがある気がする。

 固い石床の上でも、旅の疲れも相まってか、目を瞑ればすぐに眠りの世界へと落ちていった。

 花の香りを漂わせる、金色の彼女のことを考えながら。

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2024年12月23日 00:00

ガラスの破片‐The Legend of Spilit‐ 佐藤 いくら @satoko1925

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