1-02
賑やかな通りから少し外れた山の入り口に、木製の家が一軒建っている。温もり溢れるログハウスの周りには可愛らしい白い小さな花が咲き、屋根の上では小鳥が巣を作っている。家の脇には古い井戸があり、細い水路が伸びる先には小さな畑が植物を実らせていた。
玄関では数人が集まり、談笑していた。その中心にいるのは白い髭を生やした老人で、白衣を着ている。薄い黄緑色の瞳はとても静かで、また聡明で涼やかだ。
皆口々に老人へ話しかける。
「本当にありがとうございます、アグレイ先生。王都の高い薬よりも、先生の薬の方がよく効きますわ」
「これでまた畑仕事に精を出すことができるよ」
「先生、これはお礼です。形は悪いですが味には自信があるんですよ」
感謝の言葉を一身に受ける老人───アグレイは一人一人に丁寧に頷きながら微笑む。皺だらけの手でお礼の品を受け取りながら、おお、と感嘆の声を漏らした。
「これはこれは、立派なツチマメだ。早速今夜の
しばらく雑談に花が咲いていたところで、元気な足音が近づいてくる。アグレイが目をやると、アインが街の方から走ってきているのが見えた。
「おおアイン。お使いご苦労様」
アインが帰ってきたことをきっかけに、人だかりは解散していった。アグレイとアインは手を振りながら、その場で皆を見送る。
最後の一人が見えなくなったところで、アグレイは手を降ろすと家の中へと入っていく。
「さて、ずいぶん遅かったね。珍しく道草でもしていたのかい?」
アグレイがそう尋ねると、アインは慌てて言い訳をした。
「ごめん、じーちゃん。途中でちょっと大変なことがあって」
「いい、いい。お前さんもまだ十四なんだから、遊びに行ってきていいんだよ。ヒリナは元気だったかい?」
アグレイは優しい口調で尋ねる。アインは帰って来る途中であったことを話しそびれたが、特に気にしなかった。
「うん……だけど、最近は街のあちこちで体調が悪そうな人を見かけるよ」
「そうか」
「咳や熱、一般的な風邪の症状っぽいけど、なにか違うような……最近それ関連で薬を貰いに来る人も増えてるし、一回患者の元に直接行って診察をした方が」
「アイン」
ぶつぶつと呟くアインを、アグレイが穏やかな声で止める。アインが顔を上げると、アグレイは黄緑色の瞳でアインをじっと見つめた後に、ゆっくりと首を横に振った。
「お前さんが気に掛けることじゃない。そんなことより、勉強は進んでいるかい?この前は民俗学についての本を読ませたから、次は何の本にしようか……」
アグレイは自身の書斎に入っていくと、壁一面に並ぶ本の中から吟味し始めた。
書斎には本のほかに、調剤で使用する道具や、薬草を詰めた瓶がたくさん並んでいる。アグレイはいつも湿度を保ったこの部屋で薬を調合するのだ。
アインはその様子を複雑な表情で見つめている。書斎には入っていはいけないと言われているので、アインは入り口でただ立っている。
「歴史……についてはもうやったか。ああそうだ、算術については勉強しておいた方がいい。きっと将来役に立つだろう」
「じーちゃん、オレは」
アインの呼びかけに、アグレイが振り返る。真剣な面持ちのアインを見て、アグレイは少し目を細めた。
「オレは、将来は薬師になりたい」
はっきりと、大きな声でそう言い放つ。少しの間沈黙が漂い、それからアグレイが大きなため息をついた。
本棚から一冊の本を取り出すと、アグレイは書斎から出て来る。
「……何を言い出すかと思えば、またそれか」
「……ッ、オレは本気だ!」
アインが叫ぶと同時に、アグレイは書斎の扉を閉めた。眉間のあたりを指でもみほぐし、居間の大きなロッキングチェアに腰かけた。
「その話はこの前しただろう。それで仕舞いだ」
「まだ終わってない!オレは、いつかじーちゃんみてーな立派な薬師に……」
アグレイが鋭い目つきでアインを睨む。その眼力に圧され、アインは思わず押し黙った。アグレイは低い声で話し始める。その声には、静かな怒気が含まれていた。
「立派な薬師だと?薬師に立派もなにもあるものか。王都で勤める者にはそれなりの立場が保証されているかもしれない。だが薬師協会は成果を上げられぬ薬師には無情な命令を言い渡す。お前の母親……ミラもそうだった。腹の中にお前を身籠ったまま、煙病の
アグレイはどんどんヒートアップしていく。まくしたてるように薬師協会への不信をぶちまける。
「薬師協会はクソだ。愚か者の集まりだ!そんな場所に大切な愛孫を送り出す者がどこにいる!!」
アインは歯を食いしばって聞いていたが、やっとの思いで反論する。
「じゃあ……なんでじーちゃんは薬師を辞めないんだよ」
「それ以外に能が無かっただけだ」
アグレイはふう、とため息をつき、ロッキングチェアに沈み込む。そして落ち着きを取り戻してから再び優しい口調に戻った。
「アイン……お前はまだ若くて未来がある。この先何にだってなれるのに、薬師に
アグレイはくしゃくしゃに丸めた紙のように皺だらけの手でアインの肩を掴む。大きな手はアインの華奢な肩を簡単に包み込んでしまう。
アインは祖父が心からの優しさでそれを言っていることを理解していた。だが頭では理解できていても、心の奥底で理解することを拒んでしまっていた。
「……もう、いい」
アインは祖父の手を振り払うと、玄関から飛び出した。乾いた土の獣道を駆けて山の中へと入っていってしまう。アグレイが背後から呼んでいるが、アインはそれを無視して薄暗い木々の陰へと消えた。
アグレイは立ち上がり、しばらくその後を見ていたが、やがてため息をひとつ吐くと、自分の書斎へと入っていく。
アインの後を追う様子はない。アグレイはアインが、あの山で迷子になることはないと知っているからだ。彼が生まれた時から共にあった山だ。きっと街に住む誰よりもあの山に詳しいのはアインだろう。
アグレイは作業机の隣にある、背の低い化粧棚の上に置かれた、絵葉書サイズの四角いものを手に取った。薄い埃除けを上に被せられたそれは木製の額縁で、布一枚を捲ると古い写真が現れた。
色はついていない。うっすらと色褪せて黄みがかった写真には三人の人物が写っている。
一人はアグレイだ。今よりも腰が伸びており、顔つきも幾分か若い。白衣を着て手を後ろに組み、はにかんでいる。
その隣に立つのはもっと若い男性だ。日に焼けた健康的な肌をしており、筋肉もついていて体つきがしっかりしている。白い歯を見せて笑う顔は、いかにも好青年といった風だ。
その二人の間で椅子に座っているのは女性だ。歳は爽やかに笑う青年と同じくらいに見える。淡い色をした髪は腰のあたりまで垂れ下がっており、椅子の背もたれにかかっている。うっすらと微笑を浮かべた口元に、どこか知的な雰囲気を纏わせる目つき。そのお腹は大きく膨らんでいた―――。
アグレイはその写真を見て目を細める。ふと顔を上げると、壁一面にびっしりと並べられた書物が目に入る。歴史に民俗学、外国語に算術、考古学……そういった書物はほんの一部で、それ以外の棚は植物学や薬学の書物で埋め尽くされていた。
「ミラ……あの子はひとりでも成長していってしまうな。頑固で負けず嫌いで、お前さんそっくりだよ」
そう独り言をつぶやき、愛おしそうに指の腹で写真を撫でると、また埃除けを被せて元の位置に戻す。
黒いレースでできた埃除けを被るそれは、まるで故人を悼むヴェールのようにも見えた。
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