1-04

「ううむ……」

 アグレイは腕を組み、皺だらけの顔をしかめて低く唸った。

 目の前には自分と同じペリドットの瞳をした可愛い孫と、見知らぬ桃色の少女が座っている。少女は落ち着きがない様子でそわそわと体を揺らしている。だが表情を見る限り、それは緊張や居心地の悪さといった類のものではなく、純粋な好奇心で満ちていることが分かる。隣に座る孫の顔は何やら複雑そうで、こちらの方が居心地が悪そうだ。

「お前さんがどこの誰かは知らないが、ひとまず歓迎しよう。名前を教えてくれるか?」

「名前……?」

 少女は首を傾げる。髪の毛と同じ桃色の瞳でアグレイの顔をじっと見つめる。

「名前は、わからない」

「ふむ?自分の名前がわからない、と」

「ああ」

 アグレイは少女の返答に少し驚きつつも、必要以上に取り乱したりしない。職業柄そういった患者の元へ訪問することもあったと静かに語った。

「アイン、このお嬢さんとはどこで出会ったんだ?」

 アインはぎくりと肩を揺らした。ええと、としどろもどろになり、目を右へ左へと泳がせる。

「えーと、森の少し行ったところの……あの、ツボイチゴの群生地……じゃなくて、えーと」

 少女は歯切れの悪いアインを不思議そうに見つめる。

「何を言っているんだアイン?自分たちが出会ったのは焼け焦げた村の……むぎゅっ!」

 突然、アインが必死の形相で少女の頬を掴む。そして「それ以上は喋るな」とでも言いたげに鋭く睨んだ。

 二人の様子を怪訝けげんな顔で見ているアグレイに気が付き、アインは引きった顔で笑う。

「そ、そうそう。声がしたからそっちの方へ行ったら、偶然……そう、本当に偶然ヤタエ村の方角で、そしたらコイツが倒れてたんだ。別に行こうと思って行ったわけじゃないぜ。倒れてる人をそのまま放っておく訳にもいかねーし、本当に仕方なく連れてきたっていうか……」

「アイン」

 あせあせと言い訳を連ねるアインに、アグレイは低い声で呼びかける。アグレイの疑るような視線にアインは口をつぐみ、しゅんと項垂うなだれる。悪さをして怒られるのを観念した子猫のようだ。

 アグレイはふっと笑い、困ったように優しく声をかける。

「別に人助けをするなとは言っておらん。それはとても素晴らしい事だ。だがあの村には近づいてはならんと以前から言っている筈だ。あそこはまだ倒壊が進んでいて危険が……」

「……わかってる」

 アインは膝の上で手をぎゅっと握る。その様子を見て、アグレイはふうっとため息をひとつ吐いた。

「……で、お嬢さんの方だが……」

 アグレイは再び少女の方へ向き直る。アインに掴まれた頬を両手で擦りながら、少女は行儀よく座っていた。桃色の髪は室内でも鮮やかに輝き、彼女の背中を覆い隠すように垂れている。

「確か行く当てもないと言っていたな。見た限りではお金も持って無さそうだ。宿を借りることもできないだろう……」

 アインは言われてみれば確かに、と少女を見る。少女は服装がワンピース一枚と薄着な上に、持ち物ひとつ持っていなかった。倒れていた付近にも、鞄や小物といった類のものは落ちていなかったはずだ。

「盗まれた、とか?」

「あの山で盗賊被害が出たことは無いがなぁ。しかし……」

 アグレイが白い髭をたっぷり生やした顔を少女に近づける。黄緑色の目でじっと見つめると、少女は純真な桃色の瞳でまっすぐ見つめ返した。

「……うむ。そういう事なら、しばらくうちに滞在すればいい」

「じーちゃん?」

「まっすぐで綺麗な眼だ。わしにはわかる、この子は純粋で美しい心の持ち主だ」

 アグレイはそう言うとにっこりと笑いかける。少女はよく分かっていない様子で、小首を傾げながらアグレイに微笑み返した。

「それに、アインも同い年の遊び相手がいた方がいいだろう。まだ十四歳だというのに子供らしからぬ、妙に大人びてしまったからなあ……」

 アグレイはよっこいせ、と重そうに立ち上がる。いたたた、と腰をさする後姿に、アインは心外だと抗議の声を上げた。

「子供扱いすんなってば、じーちゃん!オレだってあと数年もすればもっと背もでかくなって、頭も良くなって、じーちゃんが働かなくてもいいくらい稼いでやるんだから……」

「いくら大人びていても、子供は子供だよ。わしからしたら、まだまだ未熟で幼い、可愛い孫だ」

 アインが再び反論しようと口を開く。アグレイはそれを見越したかのように遮った。

「この話はよそう。ひとまず腹ごしらえといこうじゃないか。小さなお客さんもいることだし、皆で美味しいご飯を食べて、そして楽しい話をしよう」

 まだ何か言いたげに口をぱくぱくさせていたアインだが、やがて諦めたように静かに口を閉じた。そして、キッチンへ向かった祖父の後を追い、手伝うよと言って夕餉ゆうげの支度に取り掛かった。


 つやつやとした塗装が施された、深いブラウンのテーブルを取り囲む三人の中心には、大きな鉄製の鍋が鎮座している。中はたっぶりのシチューで、芋や根菜、そして親指の爪ほどの大きさのある豆がごろごろと入っている。それが入った手のひら大の器が三つ、それぞれの目の前に置かれている。

 アインとアグレイはぽかんと口を開けて前を見ていた。二人の視線の先には桃色の少女が、腹を空かせた野生動物がやっと食べ物にありついたかのようにシチューを無我夢中で貪っている。小さな木製のスプーンで忙しくシチューをかき回しすくいながら食べていたが、やがてスプーンを放り出し、器に直接口を付けて飲み始める。少女の器はあっという間に空になってしまった。それだけでは飽き足らず、少女はテーブルの真ん中に置かれた鍋をわし掴むと、それごと食べようとするので、アインが慌てて少女から鍋を奪い取り、空になった器にシチューのおかわりをよそってやった。少女は新しくシチューをよそわれた器に噛り付くようにして食べている。

 驚異的な食欲に、アインもアグレイも呆気に取られていた。つい先ほどまで気を失っていて、しかも目を覚ます依然のことをまったく覚えていないという重度の記憶喪失である状態なのに、彼女の食べっぷりは健康そのものだ。アグレイも「まあ、元気なのは良いことだ」と髭をさすりながら呟いた。

「―――しかし、名前が無いのはいささか不便だなあ」

 夕餉を終え、アグレイはロッキングチェアに深く腰掛けながら言った。

 アインはシチューが入っていた鍋を洗い、別の小さな鍋で何かを作っている。ナターシャはその様子を興味深そうに覗き込んでいた。

 アグレイが、閃いた、とでもいうように手を叩くと、椅子を回転させて二人の方を向いた。

「無いなら、新しくつけてしまえばいいじゃないか」

 少女が「えっ」とアグレイの方を振り向く。

「勝手につけちゃっていいのか?」

「なに、今だけの仮の名だよ。記憶を取り戻すまでのね」

 そしてアグレイはううむ、と真剣な顔で考え込む。アインは興味なさげにため息を吐くと、再び小鍋をかき回す。少女は何事かと二人の顔を見比べる。

「ジェーン!……は、ちょっとありきたりすぎか?それじゃあ、ルイーズ!どうだ?……少し魅惑的すぎるか。マリア、ルーシー、イザベル……どれがいい?」

 アグレイは次々と名前の候補を口に出す。少女は絶え間なく出される名前候補に目を白黒させ、首を右に左に傾げてはうんうんと唸る。

 二人に背を向けながら小鍋をかき回していたアインは、誰に言うでもなく、ぼそりと小さく呟いた。

「……ナターシャ」

 アグレイと少女が揃ってアインの方を向く。アインは視線に気が付くと途端に恥ずかしくなり、赤くなりながらあせあせと話し出す。

「いや、女神伝説に小さな花の妖精がいたよな、と思ってさ。確かそんな名前だったような気がして……なんというか、アンタを最初に見つけた時、その、桃色の花が咲いている、と、思ったから、さ……」

 そこまで言い、アインは自分がとても恥ずかしいことを言っているような気がして黙り込んだ。そして視線から逃げるように後ろを向くと、先ほどよりも激しく鍋をがちゃがちゃとかき回す。

 アグレイは少女と顔を見合わせ、そしてくすくす笑った。アインの話に補足するように付け足す。

「古いメラージア語でね、ナティは桃色、アーシャは花という意味なのだよ。可愛らしく、神秘的な君に実に似合っているよ。どうだね?」

 少女は俯き、ナターシャ、ナターシャと繰り返し呟く。アインが恥ずかしさを隠すようにぶっきらぼうな口調で、

「やめやめ!違う名前にしろよな!」

 と言うと、少女はぶんぶんと首を横に振った。桃色の髪が首の動きに合わせて広がる。と、少女は顔を上げる。頬がほんのりと赤く染まり、瞳はきらきらと輝いていた。

「いい。ナターシャが、いい。ナターシャになりたい!」

 少女は嬉しそうに頬を綻ばせる。アインはペリドットの瞳をぱちぱちと瞬き、また少し赤くなって、しかしむすっとした表情になって「あっそ」と呟く。アグレイはその様子を見ながら実に楽しそうに笑っていた。


「ほら、もう名前の話はいいだろ!」

 アインがコップを三つ、乱暴にテーブルの上に置く。そのうちの一つをアグレイの元へと持っていくと、アグレイはありがとうと言ってそれを受け取った。

 少女―――改め、ナターシャもコップの一つを自分の方へ引き寄せ、中を覗き込む。白いシンプルな陶製のコップの中には、ほかほかと湯気を立てる濃い緑色の液体が入っている。ナターシャは、なんだろう、と小さな鼻をコップに近づけ、くんくんと匂いを嗅ぐ。微かに青臭い、薬草のような匂いがした。

 アインとアグレイは特に気にする様子もなくそれに口を付ける。ごくり、ごくりと喉を鳴らして飲むと、ぷはーっと美味しそうに息を吐いた。ナターシャは二人と自分の手の中にあるコップを見比べ、それから意を決したようにそれに口を付けた。

 ごくり、とひと口飲む。

「……!?ぶはッ!」

 直後に吐き出してしまった。

 口の中いっぱいに広がる青臭さ。じんじんと舌と鼻を刺激する、とてつもない苦味と酸味。お世辞にも美味しいと言えないその液体を、ナターシャは信じられないと言いたげに見つめた。

 アインとアグレイはそれを見て笑っている。アインが、

「慣れないと相当苦いよな、ツボ茶は。オレはもう日課だし、毎日飲んでるから慣れたけど」

「だがとても健康に良いものだよ。残さず飲むようにな」

 とアグレイ。

 そう言いながら、二人は美味しそうにそれを飲む。ナターシャは餌に釣られて罠にはまった小動物のように、アイン達を恨めしそうな目で見る。そしてコップにまだ大量に残ったツボ茶を憎々しげに見下ろした。

「……これが毎日、続くのか……」

 桃色の瞳が、少しだけ悲しそうに潤んだ。

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