1-12

 雨に打たれたせいだろうか、いつもより体が重い。疲れが残る眉間をぐいぐいと指で押して、ディビアンはキッチンに向かってモーニングルーティンに取り掛かる。

 ナワムギのパンを適当な大きさに切り、表面を水で濡らすとフライパンで両面を焼く。いい具合にこんがりと焼けたらバターを塗り、昨日のうちに塩抜きしておいた干し肉を乗せる。その上にグランピウスのスクランブルエッグを乗せ、砕いた薬味を振りかければ朝ご飯の完成だ。

(小型鳥獣の家畜化に成功して早十年か。便利な時代になったものだ)

 大きめのマグカップを用意し、お茶の粉末を熱々のお湯で溶かす。くるりとスプーンでかき混ぜ、それを口元に持っていこうとして……目の前が一瞬白くなり、ディビアンは二、三歩よろけるとキッチンの縁にしがみついた。反対の手で持っていたマグカップからお茶が零れる。

「ああ……しまった」

 零したお茶を拭きながら、ディビアンはため息をつく。あまり体調が良くないらしい。今日は用事を済ませたら早めに上がって休ませてもらおうと考える。

 その日の事はよく覚えていた。

 夜の間に降った雨の湿気が肌にまとわりつく感覚や、世界が斜めに傾いているような、どこか空間が歪んでいるかのような不快感。耳鳴りがしていたことも覚えている。

 いつものように研究室へ向かおうと歩いている時、誰かに名前を呼ばれてディビアンは振り返る。

「おおい、久しぶりだなぁ!」

 そこにはディビアンと同い年程の、壮年の男性が手を振っていた。

 傍らには遠出から帰ってきたばかりの大きな荷物。若い頃は見事な浅葱色だった髪の毛は色褪せ、柔らかな空の色になっている。同じ色の髭を蓄えた口元は、人懐っこい笑顔を浮かべている。若草を連想させる黄緑色の瞳がキラッと輝いた。

「アグレイ、帰っていたのか」

 お互いに皺が増えた手で、約三年ぶりに再会した友人と握手を交わす。

 アグレイはディビアンと並んで歩きながら、出張の話を身振り手振りを交えながら話し出す。

「薬師長に三年もミルスリアに行けって言われた時は、そりゃあ驚いたし不安だったさ。出航の時なんて生きた心地がしなかったね」

「何せあのミルスリアだからなぁ。軍事と医療でみるみるうちに名を馳せた大国だ。薬師としては非常に興味深い国ではあるが」

 ディビアンも真剣に話を聞きながら相槌を打つ。

「だろう?船から降りた瞬間、恐ろしい軍用武器で滅多刺しにされるんじゃないかとヒヤヒヤしていたよ。だがまあ、彼らの知識は思っていた以上だった。戦争に医療は付き物だからな。想像を超える遥かで膨大な技術に、ワシは感銘を受けたよ」

 まだ興奮冷めやらぬ様子で、アグレイはミルスリアで見てきた事を話した。遺伝子組換えや培養の技術、高尚な外科手術技法に育成施設。メラジアスとは比べ物にならない程の先進ぶりをその目で見てきたアグレイは、しかし遠い目をしながら声のトーンを落とした。

「だがあの国は、何やら不穏な空気を感じる。鉄と血と、病に侵されたかのような淀んだ空気があの国を包み込んでいる。……ワシはこの事を国王に報告せねばなるまい。近い未来、きっと良くない事が起こると、ワシは思うのだ」

「そうか……」

 ディビアンはアグレイの話を聞きながら歩いていたが、急に目眩がしてふらりとよろけてしまう。まだ頭がぼーっとしているようだ。

 アグレイはその様子にいち早く気付き、ディビアンの腕を掴んで支えてやる。

「体調が良くないのか?ふらふらしているじゃないか」

「ああ、昨晩雨に打たれてしまってな。その所為かもしれん」

「無理しないで、今日は休んだらどうだ。そんな状態じゃ仕事にもならんだろう」

「早めに上がらせてもらうよう、博士にお願いするつもりだ。それよりも、君の大事な一人娘の方が心配ではないかね」

 アグレイはああ、と明るく笑ってみせる。

「確かに一刻も早くミラの元へ行って元気そうな顔を見て、腹の子にも挨拶していきたいところだが、心配いらないよ。あの子の強さはワシが一番よく知っている」

「そうではなくて、昨日……」

 と、ディビアンは続けようとして口を噤む。

 アグレイの子煩悩さは、長年の友人であるディビアンがよく知っている。今この男に昨夜の出来事を話せば、仕事の後始末を放り出して、怒りに任せ薬師長室に殴り込みに行きかねない。ミラの気の強さは自他ともに認めるアグレイ譲りだ。

「昨日?何かあったのか?」

「……いや、何でもない。さっさと残りの仕事を済ましてくるといい」

「そうするよ。ではな!」

 アグレイは手を振ると、その場を去っていく。まだ僅かに異国の香りを纏わせる友人の背中を見送り、ディビアンも研究室へと急いだ。

 ミラの秘密の研究を手伝っていたのは、薬師協会に所属する百人以上いるメンバーの中でもただ一人、薬草研究室の所長であるパドマ女史だけだ。もう既にミラ自身が話しているかもしれないが、助手である自分もその場に居合わせた為、彼女に報告をしなければならない。

「失礼します」

 研究室の扉をノックし、中に入る。返事はなかったが、博士は既にデスクに座っており、何かを真剣に眺めていた。

「おはようございます、博士。ミラ・ウィルグの件について報告がございます」

「それについてはもう聞いたので結構」

 博士は短くそう言うと、デスクから顔を上げてディビアンをじっと見た。

分厚い眼鏡越しにこちらを見る目はいつも不機嫌で、じっとりとこちらの一挙手一投足を伺っている。

「ムウラ薬師、これを見てどう思う?」

 トントン、と指先でデスクを叩く。ディビアンは近付いていき、デスクの上に目を落とした。デスクには黒く汚れたゴミが並べられている。

「失礼。近くで見せて頂いても?」

「どうぞ」

 ディビアンはそれらを手に取ってよく見てみる。と、黒い汚れが手に付いた。少しざらっとする手触りのそれは、昔赴いた火災痕地で散々見てきたものと一致する。

「これは……紙?」

 それは大半が燃やされほとんど読めないが、何かを記した紙のようだった。デスクに並べられているもの全てがそのようだった。

 博士は目だけで頷くと、やはり不機嫌な顔でディビアンを見上げた。

「これはミラが作った研究資料や論文です。他の資料と共に私の書棚に閉まっていたのに、今朝来てみたら鍵が開き、散々引っ張り出された挙句、これだけが燃やされていたのです」

「なんという事だ……」

「私はね、ムウラ薬師。ほんの少しだが、貴方がやったのではないかと疑っているのですよ」

「なっ!?」

 ディビアンは驚きのあまり、手に持っていた燃えカスの資料を落としてしまう。慌てて拾い上げて再び博士を見てみるが、その目は疑惑をたっぷりと含んでいた。

 パドマ女史の男嫌いは今に始まった事では無い。昔は絶世の美女だと噂されており、何人もの身の程知らずの男達が彼女に求婚し、その全てをちぎっては投げたという逸話は有名だ。だが、助手として長いこと共に仕事をしてきた身としては、この場面で疑われるのは少々くるものがある。

 博士はさらに続ける。

「自身よりずっと若い女性の薬師が、自分を差し置いて手柄をあげようとしているのを面白くないと感じる輩は大勢います。それに貴方とミラはほぼ同時期に宮廷薬師に昇進し、同じ頃に私の助手となった。嫉妬や憎しみから相方の足を引っ張ろうとするのは、典型的な嫌がらせです」

「とんでもない!わたしは断じてそんな事は致しません!」

 ディビアンは慌てて首を振り、また頭が痛くなってふらりとよろける。博士はその様子をじっと観察し、片眉を上げた。

 ディビアンは苦しげに訴える。

「わたしは彼女を……ミラ・ウィルグのことを、尊敬しています。歳とか経歴とかは関係ない、彼女は素晴らしい薬師であり、研究者だ。見習うべきものが沢山ある。わたしは彼女を陥れようだなんて考えたことは、決して無い!」

「ふぅん……ではミラの言う通り、という事ですかね……」

「え?何か仰いました?」

「いいえ、貴方の主張はわかりました。では私は用があるので」

 博士は端的に言うと、燃えカスの資料をまとめて箱の中に入れる。まだ何か言いたげなディビアンを一瞥いちべつし、研究室の出口へと向かう。横を通り過ぎる時、彼女から染み付いた薬品と微かな香水の香りがした。

「あの、ミラは今どこに……」

 ディビアンは振り返り、博士の背中向かって問いかける。さっき興奮したせいか、頭痛が悪化している。あまりの痛みによろけ、研究道具がしまってあるガラス戸にぶつかりそうになった。

 博士は淡々とした冷たい声で答える。

「あの子はとっくに薬師長室へ行きましたよ。私はこの資料をあの子の元に届けてきます。子供に盲目的なまでの愛を注いでいる薬師長の事ですから、これを持って行ったところで状況が好転するとは思いませんが。ああ、それから」

 ドアノブに手をかけたところで、博士はディビアンを振り返る。分厚い眼鏡の奥の小さな瞳が、迷惑だと言いたげに細められる。

「今日はさっさと部屋に帰って寝てください。そんな状態で仕事されても、愚かな無差別テロのように菌をばら撒くことしか出来ませんよ。分かったら早く私の研究室から出て行ってください。ここが病原菌の温床となる前に。さあ!」

 そう言うと、博士はふんっと鼻を鳴らしてドアを開ける。そしてそのままドアを開けたまま、ディビアンが出てくるのを待っていた。

 言い方はキツイが、彼女なりの優しさなのだろう。ディビアンが少しだけ口を綻ばせると、博士は不気味なものを見たとでも言うように顔を歪めてみせた。

 研究室を出て、博士と別れて別方向へと歩いていく。自分は職員用の薬品庫へと、博士はミラが待つ薬師長室へと。

 雨は降り続いていた。昨日より雨足は弱いが、空からは絶え間なく雨が降り続け、壁や窓、地面を濃い色に染めていく。

(ミラは上手いことやっているだろうか……)

 そう考えながら窓の外を見上げる。空は一面雲に覆われているというのに、なんだか明るい。これは光の屈折によるものだ。ずっと見ていると、なんだか頭がさらに痛くなるような気がした。

 ふらふらとした足取りで、やっとの思いで自室へと辿り着く。ぐわんぐわんと頭の中で何かが回っている。視界や思考は白くもやがかかったように渦巻いている。乾いた咳も出てくる。肺が痛い。耳鳴りもしてくるようだ。

 ディビアンは着替えるのも後回しに、ベッドへと倒れ込む。柔らかい布団に吸い込まれると意識は浮上していく。

 ディビアンはそのまま一週間、強烈な肺の痛みと高熱、幻覚に襲われることになる。

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